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コンテスト襲撃

時刻は22時前。


男は床に散乱した「残骸」を見下ろした。


床は小さい収集物がゴミのように堆積し、液体と混ざって汚泥となっていた。


足裏に、不快な硬質。


ガリッ、という乾いた音が鼓膜を削る。


砕けたのは、死の間際に咲く青を煮詰めた至宝「月青げっせい」と、呪われた少女の黒い指先から滴った「呪い」の瓶。


高価な蒼光と、漆黒の粘液が足元で絡み合い、マーブル状の歪な毒へと変質していた。


癒やしの霊薬は今、この部屋を呪う、取り返しのつかない「澱み」へと成り果てていた。


無表情のまま、隣に座る汚泥を見つめる。


それは、腐った神獣の生き血を吸い尽くし、真っ赤にふやけたワンルームの設計図。


インクは滲み、パンくずの死骸を巻き込みながら、修復不能な肉塊となって粘ついている。


神話の残滓と安っぽい日常が混ざり合い、逃げ場のないワンルームの形状を保ったまま、どろりと足元へ崩れ落ちた。


それは深淵が男の人生を蹂躙して作り上げた、もう一つの『望まぬスープ』だった。


「……ッ」


ちり取りと箒を手にした。


指先を割れた破片で切っても、血が滴っても、眉一つ動かさない。

ただ機械的に、「ゴミ」を袋に放り込んでいく。


掃除は数時間を要した。

だが、男にとって必要な儀式であった。


動力炉は焼き切れ、コレクションは全滅。

ワンルームの資産価値は、今や以前の百分の一にも満たない。


だが、男はコンテストの事しか考えていなかった。


「あと6時間……」


男は歪んだ作業台に飛びついた。


椅子が床を削り、悲鳴を上げる。


箱の中身をぶち撒け、転がる鋏を握る。


ゴミ袋を1ミリも狂わない精密な寸法で裁断する。


一枚、十枚、百枚、五百枚。


――バリバリッ、バリバリッ


ダクトテープを10センチ刻みに引き千切る。


重ねる、ゴミ袋、貼る、ダクトテープ。


荷造り紐で括る、貼る、ゴミ袋。


完成した無機質な「黒いクラゲ」。


カサカサと乾いた音を立てる安っぽい膜に、男は失った全資産の復讐を焼きつけた。


――次は「中身」。


灼熱の深海のスープ。


一滴の逃がさない。


叩き込む噴出瓶。


鼻腔を刺す深淵の香り


封じ込める。


味覚を服従させる料理。


――スープ(広域汚染兵器)。


噴出瓶、貼る、黒クラゲ。


トドメ、缶詰、貼る、黒クラゲ。


投入。


すべてを闇の奥へ。


――ガチャンッ!


閉ざされた鉄の箱が、復讐の始まりを告げた。


30分遅れの、テイクオフ。


半壊したワンルームが、黄金の陽光が降り注ぐ王都中央広場へと滑り込む。


『至高の食材コンテスト』。


数年に一度、世界中の富と名声が一点に集う祭典。


朝の陽光が、並び立つ料理人たちの白衣に縫い込まれた金糸を焼き、視界をチカチカと刺激する。


大陸の舌を支配する美食家たちの沈黙が、祭典に異様な緊張感を与えていた。


その静寂を、調理場から上がる調べが切り裂く。


数百年という時を眠り続けたヴィンテージワインの芳醇な香りが、幻の鳥の脂と溶け合い、重く湿った熱気となって肺を満たす。


パチ、パチパチと、古龍の心臓が網の上で踊り、滴る脂が炭に触れては芳醇な香草の煙を巻き上げた。


視覚が、嗅覚が、そして空気を伝う熱が、理性をじわじわと侵食していく。


ここはもはや、ただの祭典ではない。欲望を剥き出しにする「戦場」だ。


広場を埋め尽くす観衆は、歴史が塗り替えられる瞬間を待ちわびていた。


壇上に立つ司会者が、拡声の魔導具を手に、朗々と声を響かせる。


『さあ、キリアン殿下! 天使の再来を待つこの美しき舞台で、閣下が最初に見初めるのは、どの一皿でしょうか!』


王族四兄弟の中で他を圧する巨躯。

剥き出しの半身に刻まれた無数の古傷と禍々しい刺青。


己の背丈ほどもある大斧を無造作に担ぎ、悠然と立つその姿は、一国の王弟というよりは戦場に君臨する魔王の如き圧を放っていた。


「フン、……私の『語彙』すら殺す一皿だ。この春の陽光に溶け、空へと帰る雲を食む天使そのものだ。……下らない皿なら、殺されるのはどちらかな」


『……は、はは、冗談ですよね、殿下? ……さあ、期待に胸が膨らみます!』


司会者は冷や汗を拭うと、会場に向き直る。


『さて、審査の刻が近づいております! 各国の名だたる名匠たちが腕を振るう中、一つ、奇妙な空席がございます』


会場に、さざ波のような嘲笑が広がる。


『エントリーナンバー241番! 事務局では「調理場は不要」と言い放ったという例の狂人……いえ、異端の料理人!』


「焦げたつなぎ服を着た死神」の噂は、すでに会場中の料理人たちの間で失笑の種になっていた。


『……ですが、未だその姿は見えません! 棄権でしょうか? それとも、伝説に聞く『工房召喚』の儀式が間に合わなかったのでしょうか!』


一流の厨房も使わず、素材の仕込みも見せない。

そんな者が、この至高の戦場に立てるはずがない――誰もがそう確信していた。


だが、その嘲笑が最高潮に達した瞬間だった。

雲一つない青空の彼方から、その音は響いた。


――ガタンッ。

――ガタンッ。

――ガタンッ。




◇ ◇ ◇




それは、聖なる祭典にはおよそ不釣り合いな、あまりに無機質な音だった。


鋼鉄の螺旋が回転し、硬質な物体が排出される、ただの作業音。

規則正しく、執拗に繰り返されるその音に、観衆が一人、また一人と顔を上げた。


高度300メートル。


雲の切れ間から、何かが「降って」くる。


「……なんだ、あれは? 魔物か?」


一人の料理人が声を震わせた。

だが、空を覆ったのは、伝説の獣でも、輝かしい魔法の光でもなかった。


それは、太陽の光を不気味に吸収する、「黒いゴミ袋」の群れだった。


ダクトテープで補強され、荷造り紐で吊るされた、あまりに安っぽく、あまりに醜悪なパラシュート部隊。


ワンルームの片隅で、不機嫌に張り合わせた「黒いクラゲ」の群れが、優雅ですらある動作で会場へと舞い降りてくる。


男の襲撃が始まっていた。


「悪戯か? 警備隊は何をしている!」


司会者の叫びが響く中、その「最初の一撃」が放たれた。


先行して落下してきた一つの瓶が、審査員席の直上で静止し、内蔵された「圧縮弁」が臨界点を突破した。


――パシュゥゥ……。


会場の空間が「上書き」された。


噴出瓶から放たれたのは、深淵において、全ての不純物を削ぎ落とし、素材の最小単位で凝縮されたスープの「霧」だ。


それは香りを超えた暴力。


その圧倒的な重圧が、会場を支配していた豪華食材の香りを、一瞬でノイズへと格下げした。

深淵の記憶が、鼻腔を突き抜け、脳髄を直接揺さぶる。


宮廷料理人が自慢げに煮込んでいた秘伝のソースも、最高級のワインの芳香も、ただの薄汚れた不協和音に過ぎなかった。


「な……なんだ、この……この、冒涜的な重い香りは……っ! 息が……、できな……、いや、呼吸が、美味しい……!」


ずしり、と。

床板が悲鳴を上げるような重量音が会場に響いた。


キリアンが肩に担いだ大斧が転がった。


美食家たちが胸を掻きむしり、膝をつく。

それは「旨そう」といった次元の話ではない。


そして、静寂に包まれた会場に、審査員テーブルの真上に、群れが次々と着地した。


カサリ、と乾いた音を立ててゴミ袋が畳まれ、その中から、無骨な、銀色の「缶詰」が転がり出た。


ラベルすら貼られていない。ただ、マジックペンで乱暴に「241」とだけ書かれた、鉄の塊。


「召喚術師」を期待していた観衆は、あまりに惨めなその正体に言葉を失った。


大量のゴミ袋が会場を汚染するように降り注ぐ中、一つだけ、シルクのように美しい布で作られた小さなパラシュートが、キリアンの鼻先に音もなく舞い降りる。


降り立ったのは、ボロボロの探検帽を被ったゴーレム。

彼は完璧な所作で缶詰を捧げると、混乱する周囲を無視して、空いている審査員席に行儀よく勝手に座り込む。


『食べない審査員』。


スープを口にし、その味を正しく評価できるのか、忖度なく「審査する側」を「審査」する。


「……天使、なのか?」


震えるキリアンは、何かに取り憑かれたように、プルタブに指をかけた。


――シュパッ。


缶が開封された瞬間、再び、広場を透明な衝撃波が駆け抜けた。


缶の中の黄金の液体を、備え付けの純銀のスプーンですらなく、缶のまま、直接口へと運んだ。


「…………ッ!!」


沈黙。


一秒、二秒。


狂ったように飲み干す。

凄まじい熱量が、繊細な彼の舌と脳を焼き切った。


「うめえ……、頭がおかしくなる、……あ? どこからが、頭かも、わからねえ……、おい、もっと出せ」


自分が食材となり、沸騰する黄金の海に放り込まれたような錯覚。


泣きながら食べ終えたのを確認すると、ゴーレムが満足げに一度頷き、探検帽を脱いで一礼する。


達筆で書かれた裏面のシールを、ぺりり、と剥がす。


『100点』


そして、震えるキリアンの額に、一切の迷いなくそれを貼り付けた。


役目を終えたゴーレムは、探検帽を被り直し、元気な足音を響かせながら、混乱の極致にある会場を後にした。


キリアンも、審査員たちも、黒いゴミ袋から這い出た缶詰を貪るように啜り、一様に項垂れていた。


もはや司会者も進行を忘れ、缶詰に群がる。


置き去りの観客。


『はぁはぁ……、優勝は――』


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