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調理開始、まずは鍋を深海1000mで温める

ワンルームの外装、あの「鉄の箱」に、男は適当な瓶詰を「デコイ(囮)」として装填した。


中身は、引き裂いた猪肉。


万が一、深海の魔物がこのワンルームに気付いた際、紛らわせるための偽の餌。


男は作業台兼操舵席に座ると、ワンルーム全体を隠蔽させた。


作業台の隅では、探検帽を被ったゴーレムは、シートベルトを締めていた。


ワンルームが海水を切り裂き、斜め下方へとその艦首を向ける。

モニターに映し出される世界は、劇的にその色を変えていった。


太陽の光が降り注ぐ「楽園のような青」。


「……美しい」


海面付近を回遊する色鮮やかな生命を追い越していく。

大小、様々な生き物が、ワンルームを恐れて動く。


目で追いきれない躍動。


男は、吸い込まれそうな意識を無理やり現実に戻す

いつかこの光景は全て自分だけのものにする、だがそれは今ではない。


――水深100メートル。


世界から「色彩」が喪失していく。


モニターに映る生物たちは、まるで魂を吸い取られたかのように白濁し、目玉だけが異様に肥大化した、色も温度もない半透明の亡霊へと変わっていく。


その時、機体内に張り巡らされた魔導回路が、獣の唸りにも似た低周波を上げた。


ヌッ――と、巨大な「何か」が、ワンルームと入れ違いになるように真横を通り抜けていく。

それは意思疎通を拒むほどに巨大な、沈黙の質量だった。


――水深200メートル


その瞬間だった。

男の背筋を、氷点下の液体を流し込まれたような寒気が駆け抜ける。


完璧なはずのステルス被膜など存在しないかのように、何かがこの鉄の箱を凝視している。


だが、そんな目の前の脅威など、男にはどうでもよかった。


潜行時速は時速200メートルだった。

目標1000mには5時間がかかる計算だ。


時刻は16時。


「……遅い」


神話の素材である金属、その軽さが仇になった。

ワンルームの浮力が勝っていた。


男は、居住区と廊下を分かつ重厚な扉をロックした。


そして、男は玄関の扉を開くレバーを、引いた。


凄まじい水圧。


衝撃はレバーを握る腕を伝い、男の肩を脱臼せんばかりに揺さぶる。


海水という名の鉛の塊が、ワンルームの静寂を粉砕する。


玄関も、洗面室も、昨日までの日常も。

独立していたはずの区画が、押し寄せる圧力によって一つの「底」へと沈められていく。


――水深300メートル。


――水深400メートル。


浸水したワンルームは、落ちるように深淵へと飲み込まれていく。


モニターが、ついに追跡者の一部を捉えた。


画面を真っ赤に染め上げているのは、無数に並ぶ巨大な歯茎の列だ。それが呼吸に合わせて、脈打つように蠢いている。


視界を埋め尽くす四つの眼球。

異常に大きな黒目、白目部分は、殆ど無い。


焦点は合わない、ギョロギョロと動く。


地上の物理法則を嘲笑うかのような「深淵の法」。

それが今、ちっぽけなワンルームの平穏を、モニターの光ごと飲み込もうとしていた。


――水深500メートル。


圧力釜が設定された水圧を超えたことで作動する。

水圧が釜の中へと一点集中される。


ワンルーム全体が、聞いたこともないような高周波のうなり声を上げた。


外装の「深海の被膜」が、外部の莫大な圧力を熱と振動に変換し、食材の細胞壁を一瞬で粉砕していく。


そして。


――ガコンッ

――ガコンッ!

――ガコンッ!!


静寂極まる深海に、その硬質な金属音が響き渡った。

缶詰が回収口へと次々と吐き出された、勝利の音。


男が安堵の吐息を吐き出すよりも早く、その結末は訪れた。




――ウォオオォォオン!!




――その「音」が、死への引き金となった。


画面を埋めたのは、血管が不気味に浮き出た巨大な腕だ。

その剛腕でワンルームが鷲掴みにされた。


浮遊感は、一瞬。

次の瞬間には、胃袋をせり上がらせるような猛烈な加速が男を襲った。


「カハッ……!」


凄まじい慣性が男の肉体を壁へと叩きつける。

同時に、壁一面を埋めていた「秩序」が崩壊する。


棚から投げ出された数多の瓶が、中身が、逃げ場のない箱の中で弾丸のように飛び交い、男の頬を、腕を、慈悲なく切り裂いていった。


ゴーレムはとっくに吹き飛ばされて、どこかに転がっていた。


――水深600メートル


――水深1100メートル


――水深1600メートル


――ガコガコガコガコンッ!


モニターに映る六つの視界は、いまや青白い巨大な「手のひら」に埋め尽くされている。


「……いい加速だ」




◇ ◇ ◇




男は口内に溢れた血を吐き捨て、ひしゃげた操舵席へ這いずると、デコイの射出ボタンへ拳を叩きつけた。

全方位から襲いかかる不規則な慣性に、男の体は紙屑のように翻弄される。

内壁に肩から激突し、鈍い衝撃音が室内に響いた。


ついに、モニターはその「造形」を捉えた。


巨大な五本の指が、モニターの端を握りつぶす。


節くれ立った関節は人間に似ていながら、その皮膚は、どす黒い大量の静脈を透かせていた。


だが、その背後に連なる肢の数が、多すぎた。

四対――八本もの青白い腕。


そのうちの一対が、逃がさぬようにワンルームを脇腹に抱えていた。


刹那、残りの三対が深海の静寂を爆砕した。

六本の剛腕が一斉に水を掻き、鋼鉄の箱を深淵の底へと射出する。


「ッ、グ……!」


衝撃が物理的な質量と化し、男の肉体を壁へとめり込ませた。


凄まじい重力加速度が全身の血を頭部へと逆流させ、視界が真っ赤に染まる。


内臓が背骨に押し付けられ、肺の空気が強引に絞り出された。


絶望が、男を深淵のさらに奥底へと、力尽くで引き摺り込んでいった。


――水深2000メートル


――水深2700メートル


指先ひとつ触れさせなかった完璧な棚が、とっくに頭上でひしゃげている。


蒐集した「世界」が粉々に砕け、足元でジャリリと耳障りな音を立てるたび、心臓が嫌な跳ね方をした。

デコイなど、もう数百メートル頭上。


背中越し、鋼鉄の扉から伝わるのは、鼓膜を逆なでする不快な金属音。


――ガリ、リ。


男は荷物の海を泳ぐように転がり、「鉄の箱」に飛びついた。

床にぶちまけられた山から缶詰を拾い上げると、無造作に蓋を抉じ開けていく。


――パシュッ、パシュッ!


内圧の弾ける音が、静寂を切り裂くように連鎖した。

飛び散る高熱のスープが顔を焼くことも構わず、鉄の箱の投入口へ次々と叩き込んでいく。

男はレバーを握りしめ、渾身の力で引き下げた。


――ガタンッ。

――ガタンッ。

――ガタンッ。


鉄の箱から、開封されたばかりの缶詰が深海へと放出される。


暗黒の死の世界に、高温の脂分と異常な香りが、まるで血煙のように一気に拡散していった

浸水こそ免れているが、大気そのものが重く、ねっとりと肺を圧迫し始める。


――水深2900メートル


墜落が、止まった。

正確には、ワンルームを握り潰そうとしていた「青白い腕」の動きが止まった。


巨大な肢が、後退する。


男の部屋を蹂躙していた「赤黒い歯茎の怪物」は、もはや獲物としての惨めな姿を晒すのみだった。

モニターが、闇を映した。


地獄の底から見上げているような、巨大な「単眼」。

逃げ惑う青白い腕を、無数の触手が「収穫」していく。


男は、一線を越えた。

ここから先は深淵の法さえ通用しない、ただの餌場。


狂ったように缶詰がワンルームを乱射を続ける。


「……完成だ、よく煮えている」


男の喉から、乾いた吐息が漏れる。


男は血まみれの手で荷物を掻き分け、緊急リミッターを掘り出した。


ワンルームの心臓部、主動力炉の出力を物理的に拘束している「安全栓」だ。

これを開放すれば、水圧に抗う爆発的な推力が生まれる。


だがそれは同時に、動力炉を二度と修復不可能なレベルまで焼き潰すことを意味していた。


時刻は18時過ぎ。


「予定より、早いな」


男は、燃え上がるような熱を帯びたレバーを、力任せに引き絞った。


轟音と共に、深海に「爆炎」が顕現した。

臨界を突破した動力炉が、猛烈な魔力奔流を噴射する。


その光の爆発は、ワンルームを物理法則から切り離し、垂直上方へと弾き飛ばした。


衝撃で意識が混濁する中、男はモニターに焼き付いた「最後の光景」を見た。


爆炎の向こう側、あまりに巨大な「虹彩」がゆっくりと視線で追いかけていた。


それは男を敵とも認識していない。ただ、不快な火花を、無機質に見つめているだけだった。


ワンルームは深海を切り裂き、不運な深海生物を吹き飛ばしながら急浮上していく。


焼け落ちる回路の悲鳴を無視し、男は死に物狂いで体を支えた。


やがて、奇妙な浮遊感のあと、男の体は床に叩きつけられた。


名もなき公海。激しい水飛沫と共に、鋼鉄のワンルームが海面へと躍り出たのだ。


背後で「ガシュン……」という、鉄が溶け落ちるような不吉な音が響き、主動力炉から一切の駆動音が消失した。


「……グッ、はぁ、はぁ、はぁ……」


男は、散らばる瓦礫に囲まれ、仰向けに倒れていた。


ワンルームの半分は浸水。


主動力炉は沈黙し、修復は絶望的。

手元に残ったのは、漂流するのが精いっぱいの「予備動力」だけだ。


だが、男の震える手は、無意識に「その一缶」を強く握り締めていた。


「……よし、これでいい」


男は、切れた唇を動かす。


手元にあるのは絶望の重圧によって、食材の最小単位同士で融合し、昇華した「究極の缶詰」だ。


王族がどれほどの金を積もうと、大魔術師がどれほどの術式を編もうと、この地獄の底の圧力を再現することは叶わない。


男は血がこびり付く指先で、缶詰のプルタブに手をかけた。


――パシュッ。


噴き出したのは、深淵の記憶そのものだ。


室内の不快な異臭が、一瞬で塗り替えられた。

真夏の陽光を浴びた野菜畑を一滴に濃縮したような、純粋な香り。


男は喉へと流し込んだ。


「……ああ。……勝ったな」


主動力炉の完全損失。膨大な修理費。汚された静寂。

そして、予備動力だけで這うように進むしかない、果てしないこれからの道程。


男は不敵な笑みを浮かべ、半壊したワンルームを王国へと向けた。

ゴーレムはよろよろと「残骸」の中から探検帽を探している。


時刻は19時。


「……徹夜だ、このまま参加する」


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