二時間も悩んだ剪定
焼け付くような日差しの下、カサンドラは泥にまみれた手で、もたつく騎士の甲冑を蹴り飛ばした。
「雑草は一分でも早く抜きなさいと言ってるでしょう! ここの土壌は狂ってるの。……明日には一面、手の付けられない藪になるわよ!?」
彼女の怒号は、もはや優雅な旋律ではない。ただの、生存を賭けた罵声だ。
かつては「魂」を支配した彼女は、今はただ「泥と苗」の管理に執着している。
反発する信者たちの視線。だが、彼女はそれすらも「資源」として踏みにじった。
王冠を捨てた彼女が今、支配しているのは「民」という名の、ただの肉の塊。
飢えと土の匂いに支配された、空飛ぶ鳥籠の、新しい秩序だった。
――魂の総数が減る事は絶対に許さない。
アダムスは、モニターの端に映る末裔を一瞥すると、使い込まれた鋏を握った。
作業台に置かれた盆栽。
一呼吸の静止。
パチン、と乾いた音が響くたび、世界樹の姿は研ぎ澄まされる。
その迷いのない手つきを、正座したゴーレムがその道理を学ぶかのように見つめていた。
切り落とされた不要な一枝を拾い上げ、ゴーレムはそれを無造作に漆黒のカプセルへ封じ込める。
鉄の箱が、補充を告げる音を立てた。
信者たちが畏怖を込めて、泥まみれの彼女へ道を開ける。
カサンドラは迷いなく、レバーを捻った。
――ガタンッ。
転がり出た漆黒のカプセルを見つめ、彼女は小さく呟いた。
「……ふう、次は、野菜の種とか出ないかしら?」
ぱかり、と漆黒のカプセルが割れた。
中に入っていたのは、乾いた一節の枝。
「……枝?」
カサンドラが振り返ると、全員に目線で『植えてみる?』と訴えた。
皆が、無言で首を縦に振った。
彼女は泥だらけの指で枝を掴み、田んぼの隅へ無造作に突き立てた。
「何の木なの?」
刹那の静寂。
泥に突き刺さった枝が、ドクンと、鼓動した。
――それは、大地が息を呑んだ、一瞬の猶予に過ぎなかった。
地表が爆発した。
うねり狂う根は太い大蛇の如く、泥を噛み砕き、地殻を押し上げ、四方八方へと這いずり回る。
地中からせり上がる幹は、瞬く間に城塞の塔ほどに膨張し、メリメリと音を立てて、上空を駆け巡る。
「嘘でしょ……?」
呟きが、轟音に掻き消される。
見上げる視界の中で、幹はさらに太く、高く、雲を突き抜け、太陽さえも押し退けていく。
上昇する幹から、千の手が一斉に伸びるように枝が展開し、パチパチと葉が芽吹いて空を覆い尽くした。
轟音が鳴り止んだとき、空は見えなくなっていた。
広大な大地は、一瞬にして、世界樹の深緑の影に完全に制圧された。
全員が言葉を失い、ただ上空を見つめている。
それは、神による明確な「日照権の侵略」だった。
黄金の稲穂は、光を奪われた屈辱に耐えかねたように、一つ、また一つと泥の中に倒れ伏した。
カサンドラだけが、泥の中から跳ね起きた。
彼女は転がっていた無骨な斧を掴むと、アダムスのワンルームの扉を滅多打ちにし始めた。
『あんた! どうしてくれんのよ!? これじゃ稲が枯れちゃうじゃない! 皆で、必死に育てたのよ!!』
モニター越しにその剣幕を見たアダムスは、心底から困惑した。
アダムスの溜息を見たゴーレムが、操舵輪に向かいガツンと雑に叩いた瞬間、王国の水平は死んだ。
視界が右へと滑り、空が壁になり、大地が巨大な滑り台へと変貌する。
直撃する風は斜面を逆行する、強力な上昇気流を巻き起こした。
軽い物は上空に吹き飛ばされ、重い物は重力に引かれて落ちていく。
あるいは、目の前のザックのように、気流と重力の均衡を保ち、空中を泳ぎながら笑っていた。
カサンドラは再び扉を叩き始める。
「あんた! 何考えて――ッ!」
ゴーレムはモニターの電源を落とすと、何事もなかったかのように珈琲を淹れ始めた。
アダムスは少し考えたが、大人しく珈琲を待つことにした。
腕力のある者は何かにしがみつき、魔法を使える者は術式で身を支える。
どちらもない、或いは不運な者は、カサンドラの鎖が繋ぎ止めていく。
だが、それすら漏れた者たち、主に騎士達が、じわじわと落ちていく。
不恰好な金属音を立ててヴァルターが滑り落ちてくると、ワンルームのポストの支柱を掴む。
ポストが悲鳴を上げ、ついに引き抜けた。
その瞬間、彼はカサンドラの存在に気づくと、思い出したかのように家宝の剣、バルトロメウスを引き抜いた。
神を殺すための刃。
アダムスとの決戦ですら抜かれることのなかった、未使用の「神話」。
ヴァルターは、その伝説の刃を、ワンルームのポストがあった位置に深々と突き立てた。
大地を貫く衝撃。
その瞬間、王国の周囲に歪な重力の断層が形成された。
世界は斜めに傾いたままだが、人々の足は、まるでそこが平地であるかのように大地に吸い付いた。
アダムスを討てなかった剣が、アダムスの揺らした世界を繋ぎ止める「杭」へと成り果てた瞬間だった。
「……助かったの?」
周囲を見渡せば、信者たちは「やれやれ困ったもんだ」と、斜めになったままの田んぼで農作業を再開している。
ヴァルターは立ち上がると、左手の壊れたポストを一瞥する。
支柱を剥ぎ取ると、突き刺された伝承の剣の上に固定した。
伝承の剣は、抜けば世界が傾く「ポスト」となった。
一人だけ勢い余って吹き飛ばされたザックが、世界樹に叩きつけられる。
「……ッ、痛ぇ……。ん?」
枝先に光るものが映った。
彼は巨木の幹を蹴り、それを掴み取ると、そのまま重力に引かれるまま、泥の中に音を立てて着地した。
「なんだこれ?」
その汚れた手のひらに収められていたのは、一個の光る林檎。
アダムスの「剪定」が、地上で実を結んだ瞬間だった。
傾いた王国は慣性に導かれるように、雲を裂いて進む。
そしてついに、彼らの視界に「はじまりの地」が姿を現した。




