情けない末裔
カサンドラはフードを深く被り、銀貨を一枚、ベタつくカウンターに転がした。
差し出されたジョッキの中身は、王宮で口にする美酒とは程遠い、濁った「泥水」のようだった。
窓の外に広がる濃霧を突き抜けると、黒い青空が広がる。
窓ガラスの縁には、無数の水滴がキラキラと、冷たく輝いていた。
見慣れた光景。
「……聞いたか? 予言書、あれ、全部デタラメだったらしいぞ」
後ろの席で、冒険者が力なく笑う。
「ああ? 俺たちが三千年も拝んできた『黒い石』は?」
「あれ、ただの電池切れで光らなくなった『白い石』らしいぞ。暴露したのは、酔いつぶれた弟騎士様よ」
「ブホッ……!!」
カサンドラの喉を通りかけていた苦い液体が、噴水のように弾け飛んだ。
拭うことすら忘れ、彼女の指先がジョッキの縁を白くなるほど握りしめる。
簒奪してまで手に入れた王国は、今やアダムスに吊るし上げられた「巨大な鳥籠」に過ぎなかった。
「なあ、俺……先週、『黒い石』のタトゥーを入れたばっかりなんだが……」
冒険者が捲り上げた腕には、誇らしいはずの聖印。
それが今や、世界で最も「価値のないシミ」に成り下がっていた。
エールを飲み干すと、カウンターに音を立ててジョッキを叩きつける。
あまりの殺気にようやく客の正体に気付いた店主が、引き攣った表情で震えながらエールを注ぎ足した。
「流石の王宮も、封印したら王国ごと拉致されるとは、思わなかったろうなあ」
無邪気な一言が、カサンドラを一刀両断した。
「……ッ、思うわけ、ないッ!」
民衆たちはまだ、この「奇跡の浮遊」を祭りの延長だと信じている。
だが、市場の備蓄そのものは一ヶ月も持たない。
絶望に浸っている時間は、もう一秒もない。
彼女は残りのエールを流し込むと、ふらつく足で立ち上がった。
王冠を捨て、泥を啜る覚悟は、酒場に入る前から決めていた。
行き先は、あのアダムスのワンルーム。
店先で警備をしていた騎士団を睨みつけると、「来なさい」と乱暴に指を振った。
住宅街の一角には、アダムスが捨てた一戸建ての迷宮が根を張っている。
玄関に咲いたマンドレイクの根を素手で掴むと、根源の魔術師は無造作に引き抜いた。
響き渡る断末魔。
魔術師は次を引き抜くと、マンドレイクは互いの顔を見合わせ、絶望の表情を浮かべた。
カサンドラは震える声で遮音魔法を唱えると、一行は迷宮の前を通り過ぎる。
「みなさん、食料が必要です。人手はあります。……一緒に、育てましょう?」
反応が無い。
苛立つ彼女は、道端の歪んだバケツに釣り糸を垂らす重装騎士を見つけると詰め寄った。
「アダムス様を呼んで」
反応が無い。
重装騎士がばしゃりと竿を引き上げると、バケツの狭い水面から丸々と太った鮎が跳ねた。
浴びせられた魚臭い水に、カサンドラは屈辱で顔を歪めた。
彼は、かつての主には目もくれず、ただ次の獲物を待って糸を垂らす。
しつこく食い下がる彼女に、ついに重装騎士は「鉄の箱」を指さした。
振り返れば、そこには整然とした「生」があった。
汚れなき眼をした信者たちが、一分の無駄もなく、手際よく荷物を運び、分け合っている。
その静謐な調和の中に、かつての簒奪者の居場所は、一寸たりとも残されていなかった。
「……これをしたら、話を聞いてくれるのね?」
◇ ◇ ◇
カサンドラの問いに、誰も答えない。
扉の覗き穴に向かって仁王立ちする狂戦士の背を通り過ぎて、鉄の箱に向かった。
視線だけはカサンドラを逃がさない「沈黙」が、彼女にレバーを握らせた。
「……っ」
手に伝わる、使い込まれた鉄の冷たさ。
――ガタンッ
鈍い音と共に現れた漆黒のカプセル。
周囲の視線を全身に浴びると、溜息を付きながら、開けた。
手のひらに載ったのは、アダムスが「収穫期が早すぎて味が単調」と切り捨てた古代米の苗。
信者たちは、すぐ隣の水田を指さした。
「……嘘よね?」
反応が無い。
「なっ……、私を誰だと……」
指差す無言の信者たちが、彼女を田んぼへ追いやる。
カサンドラは無言で靴を脱ぎ、ドレスを吊り上げると、泥の中へ足を踏み入れる。
肌を刺す冷気。
王冠も伝承も、この目の前の食料の前には何の意味も持たない。
泥を啜り、すべてを奪ってでも生き残る。
それこそがノス・グラード一族の、略奪の本性だ。
彼女は気品を込めた指先で苗の根元を摘んだが、そのあまりの細さと頼りなさに戸惑った。
まるでテーブルマナーに縋る様に、泥の深淵へ指を突き立てると、ぬるりとした抵抗が爪の間にまで入り込み、彼女は小さな悲鳴を上げた。
どこまで押し込めばいいのか、正解がわからない。
そっと手を離すと、祈りも虚しく、植えたはずの苗は力なく横倒しになり、濁った水面に「ぷかり」と浮かび上がった。
カサンドラは眼を見開いた。
「……下手だな」
その声は、ワンルームのマイクから、あるいは泥の底から響いた。
嘲りすら含まれていなかった。
ただ「正しく並んでいないこと」を指摘する、純粋で無機質な落胆。
その平熱の言葉にこそ、胸を裂かれるような屈辱を覚えた。
カサンドラの中で、何かが音を立てて千切れた。
「――うるさい」
彼女の口から漏れたのは、女王の威厳でも、簒奪者の毒舌でもない。
ただの、地を這うような呻きだった。
「うるさいうるさいうるさい! 伝承も、王族も、三千年の歴史も、全部あなたがゴミにしたんじゃない! だったら、私がゴミを植えて何が悪いのよ!」
魔法の刃が、深紫のドレスを無慈悲に切り裂いた。
装飾品が、金糸の刺繍が、泥の中に無造作に弾け飛ぶ。
かつて彼女を影の支配者たらしめていた「象徴」を、彼女自身の手で「不要な贅肉」として切り捨てた。
剥き出しになった膝まで泥に沈め、彼女は這いつくばる。
「やるわよ! 植えればいいんでしょ! あんたたちも、いつまで突っ立ってるのよ! 飢え死にする前に手を動かしなさい!」
整然とした調和への、明確な反逆。
その苗の並びは乱雑だが、必ず穂を付けるという不敵な反骨心を宿し、泥の底に根を伸ばしていく。
鋭く天を刺す無数の穂先は、見下ろす始祖へ突き付ける、復讐の槍そのものだった。
「――早くしなさい!!」
その咆哮に、ただ困惑していた騎士たちが、ついに動き出す。
誇り高き白銀の甲冑を、黒い泥に汚し、彼らはかつての簒奪者の背中を追って、地を這い始めた。
その凄絶な姿に、狂戦士は初めて歓喜に顔を歪め、天に向かって咆哮した。
それに呼応するように、信者たちの「真面目な歓声」が、空飛ぶ王都を震わせる。
それは凄絶な、泥まみれの戴冠式だった。
瓦礫の山を背に、アリストンは開墾の工程表を睨みつける。
その目はかつての陰謀ではなく、どれだけの民にパンを届けられるかという数字に燃えていた。
背後では白銀竜が、即席の炊き出し鍋に優しく火を噴いている。
『特売』の鉢巻を締め、トントントンッと軽快なリズムを刻むゴーレム。
アダムスの「生活の知恵」をトレースした精密な包丁捌きが、次々と野菜を切り刻んでいく。
ベルカが手際よく塩を振り、手伝うフィリスがその技を盗もうと食い入るように見つめる。
――そして、職務を忘れた一人の男、ウィリアム王がいた。
王冠を脱ぎ捨て、我が民たちが作り上げる「泥臭い未来」を、ただ一人の王として、愛おしそうに見つめていた。
「……美味しそうだ。これなら民は、……幸福だ」
歪む視界。
だが、踵を返す。
――ここに居場所はない、ただ朽ちる役割を果たす




