予測不能な欠陥
描きかけの大陸が、机の上でのたうち回っていた。
産み落とされる直前の「世界」が放つ、生臭い体液の芳香だ。
羊皮紙の境界を蹂躙し、断崖が立ち上がり、森が侵食を広げる――その狂乱の震源地に、男がいた。
バルトロメウス。
握られた羽ペンの先からは、かつて「創造主」と呼ばれた肉体から搾り取られた、輝く脂が滴っている。
バルトロメウスがその筆先を滑らせるたび、アダムスの背筋には冷たい毒が回るような戦慄が走った。
神を切り刻み、その断片から「魔法」を盗み出した大罪人の背中。
そのあまりに予測不能な行動に、アダムスは一瞬たりとも視線を外すことができなかった。
「……何を、書いている」
アダムスの問いは、羽ペンが羊皮紙を削る「ザリ、ザリ」という不快な音に蹂躙された。
それは、創造主の残骸さえ削るような、乾いた音だ。
「予言」
彼は顔を上げずに答える。
作りかけの方舟は机に転がっていた。
「そんなことをして、どうする」
「君には分からないだろうね、アダムス」
ペン先が走るたび、滴る神の脂が発火し、男の横顔をドロドロとした黄金色に照らし出していた。
「老い先短い人間が、最後に何を欲しがると思う? ……未来の『汚染』だよ」
彼は続ける。
「世界の終わりを決め付けてしまえば、人間の真白な未来はもうない。僕の言葉を常に疑うんだ、愉快だと思わない?」
アダムスは沈黙した。
目の前の男が綴っているのは、予言などという高尚なものではない。
数千年後の人類を道連れにするための呪いだ。
「……未練があるのか?」
「無い。準備をしている。生きている時間より、死んでいる時間の方がずっと長いからね」
「死後の『君臨』を望むか」
アダムスの言葉は、納得というよりは諦念に近かった。
目の前の彼は、死という絶対的な沈黙さえも、自らの野望を育てるための「時間」として計算に入れている。
そのあまりに長大な悪意に、彼が本当に寿命を縛られた人間なのか、錯覚を覚えた。
バルトロメウスが最後の一行を書き終えた瞬間、神の製図台が、耐えきれぬ呪詛を浴びせられたかのように震えた。
羊皮紙の上には、神の脂と人間の悪意が混じり合った、真っ黒な「デタラメの種」が植え付けられた。
「最初はどんな予言だ?」
「ああ、気になる? 『僕が君を討伐して、王になる』」
静寂が、より一層深まった。
棚に並んだ魔導具たちが、持ち主の憤怒に呼応して金属の軋み声を上げた。
「本気か?」
「そんな怖い顔をするなよ。この広い工房で、僕と一緒に地獄へ堕ちてくれた唯一の友への、ちょっとした冗談だよ」
彼は肩の力を抜き、椅子の背もたれに深く体を預けた。
その姿は、王座に座る王というよりは、あまりに重すぎる荷物を下ろした旅人のようだった。
「アダムス、君こそ、世界を壊すのか?」
問いかけに、アダムスは窓の外、未完成のまま放置された地平を冷徹に見下ろした。
「完成させるだけだ。お前たち『致命的な設計ミス』を排除した、創造主の原画をな」
――苛立ち。
「バルトロメウス。お前が神の心臓を止めたあの日から、この世界は『不良品』に成り果てたんだ」
彼はその言葉を飲み込み、そして静かに告げた。
「アダムス。三千年だけ、待ってくれないか?」
「……三千年? なぜだ」
「この予言――三千年後に、人間が地上からいなくなる、そう予言したからさ」
バルトロメウスが得意げな顔をする。
アダムスはこれまで、何度もこの男に騙されてきた。
だが、彼は「騙す」が「嘘」は吐かない。
だからこそ、アダムスはその毒が、三千年の時を経てどんな醜い花を咲かせるのか――その最悪な結末を、特等席で見届けたくなった。
「人間が地上からいなくなる……か。お前の手による絶滅と、この手による創造。どちらがより本当の終末となるか、競おうというわけだな」
「あはは、意地が悪いね。お互い様か」
彼は手記を無造作に差し出した。
アダムスはその紙面に指を触れ、そこに込められた妄執を全て記憶する。
「……デタラメもいいところだ。最後は世界樹の実と共に、王国は翼となって天へと還る……、か。
救済のふりをした、ただの略奪だ」
――取るに足らない、駄文。
「そもそも、この予言の冒頭にある『討伐』という部分は、どう辻褄を合わせるつもりだ?」
「もう君は討伐されたようなものだよ。事実、君という名の終末は、僕の口車で三千年の檻に閉じ込められた。これを討伐と呼ばず、なんと呼ぶの?」
アダムスの喉から、乾いた笑いが漏れた。
納得したのではない。
この男は、死に際してなお、人類の原型である自分を玩具のように弄んでいる。
その底知れぬ悪意に、心底から戦慄した。
「……この予言の先、綴られているのは何だ?」
「人間という種の、出口のない泥濘さ。君のような『原型』が触れれば、その清廉さが濁ってしまう。……返してくれ」
バルトロメウスは無造作に手記を奪い返した。
予言以外のページに刻まれているのは、救いようのない人間の執着と、神を殺した男の「私的な毒」なのだと、アダムスは直感した。
「代わりと言っては何だが、これは置いていくよ」
彼が机に置いたのは、かつて「創造主」の肉を断った、あの神殺しの剣だった。
「……ほう?」
「ああ。君が『待たない』と言った瞬間に、君の心臓を貫くはずだったものだ。外のゴーレムも、君という終末を圧殺するための檻として用意した」
彼は淡々と、その凶器を机に滑らせた。
「だが、幸いにも必要なくなった。君を討伐するために鍛え上げた『殺意』だ。……役目を失ってゴミになるくらいなら、君が持っていけ」
「……何を考えているのか、全く分からないな」
「あはは、僕がいなくなったあと、寂しくなったらそれで自分の喉でも突くといい」
「そうか。……少し待て」
アダムスは、部屋の中央に歩み寄った。
そこには、切り刻まれた創造主の残骸――眩い光を放つ「白い欠片」が山積みになっていた。
アダムスはその中から一点の曇りもない石を手に取ると、ノミを掴み、冷徹に削り始めた。
工房の広大な静寂に、硬い石が磨り潰される音だけが響く。
三千年という悠久の刻を、一つの「器」に封じ込めるための儀式。
「選別だ、バルトロメウス。この石の光が尽き、黒い石へと還った時――それが、我々の契約の期限だ」
「ああ、助かるよ、アダムス」
工房の最期を告げる、乾いた崩壊音。
バルトロメウスは、光を宿した石を受け取ると、踵を返した。
『因果の羅針盤』を手のひらの上で転がし、彼は出口へと歩を進めた。
次第に闇へと溶け、やがて完全に姿を消した。
アダムスは、記憶の渦から意識を戻す。
作業台の上、玉座に封じ込められた石は、とっくに煤けて黒く染まっている。
アダムスはそれを一瞥し、重い身体を引きずり出した。
王宮の使者から提示された「手記」の全頁譲渡。
「……お前のデタラメの続き、見せてもらうぞ」
その囁きは、三千年の年月をかけて醸成された執念を孕んでいた。




