完成
アダムスは鋼鉄の扉を開いた。
肺に流れ込んできたのは、もはや世界から消滅したはずの「新鮮」な空気。
湿った土、そして青々とした草の匂いが鼻腔をくすぐる。
床は、どこにでもある古ぼけた木製フローリング。
居住区へ入り、作業台に鍵を置くと、アダムスは無造作に耳を澄ませた。
壁を覆う苔むした原生林の奥深くから、微かな鳥のさえずりと、巨大な生物が草木を分ける重々しい音が聞こえてくる。
岩の隙間から流れ落ちる湧き水で手を洗う。
水はそのまま、床に広がる湖畔へと合流していった。
木々の間から立ち込める冷ややかな空気を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
壁際の山脈に立て掛けた竿を手に取ると、彼はそれを天井で波打つ大海原へ向かって振り、足元の崖に固定した。
「始めるか」
作業台から自作の「天体望遠鏡」を取り上げ、手慣れた動作で三脚を広げる。
固定具を緩めて筒身を垂直に立てると、アダムスは背伸びをして、レンズが映し出す「床」を覗き込んだ。
床に広がる大草原では、一頭の痩せこけた狼が横たわり、今まさに息絶えようとしていた。
やがて瞳から光が消え、心臓がその拍動を止める。
狼は体を持ち上げると、体毛は風に吹かれる砂のように崩れ落ち、輪郭がどろりと溶け崩れていく。
そして「次の工程」であるキノコへと、その姿を再構築していった。
レンズの先で、膨大な時間が加速する。
キノコが体内の老廃物をすべて吐き出し、水分が抜け落ちて干からびると、その中心から透明なスライムが「製造」された。
スライムは捕食も排泄もせず、ただ真っすぐと目的地へ這い進む。
アダムスは望遠鏡の真鍮製ハンドルを右腕でグルグルと回した。
歯車が精密に噛み合う微かな震動を楽しみながら、必死にスライムの進路を追いかける。
スライムはやがて、座標の静止点に辿り着いた。
ぷっくりと盛り上がった表面が、熟した果実のように十字に裂ける。
粘り気のある身が花弁のように外側へと反り返り、どろりとした中心から、濡れた鮮やかな緑の芽が頭を出した。
芽はスライムの膜を薄いヴェールのように引きずりながら、天に向かって力強く背を伸ばし、一気に大輪の花を解き放った。
その花弁からは、純白の雲が絶え間なく吐き出され、空中へと飛散していく。
やがて雲は重なり、恵みの雨となって草原に降り注いだ。
その雫が、また次の狼たちの喉を潤していった。
アダムスは爪先立ちしたまま、微動だにせずレンズを覗き込んでいる。
「……正しく動いている」
その声には、感動も、悦びもなかった。
「人間だけが存在しない世界」の動作を確認しただけの、乾いた、事務的な報告。
アダムスは望遠鏡の角度を変える。
今日も一日、観察に没頭する。
やがて、背後の壁の木漏れ日が溶けるように消え去ると、アダムスは望遠鏡を片付けた。
草原には部屋の隅の木製プランターへシームレスに繋がり、色とりどりの野菜が実っている。
アダムスは優しく息を吹きかけて小動物を追い払うと、いくつかをもぎ取ってザルに入れた。
竿を崖から引き抜いて、グリグリと釣り糸を巻き上げると、天井から勢いよく魚たちが吊り上がった。
暴れるミニチュアの魚を観察すると、気に要らない魚はピンセットで針を抜き、天井に向かって放り投げる。
空中の海に着水した魚は、パクパクと震えたあと、向きを直すと逃げ出した。
「活きがいいな」
最後の一匹を掴むと、シンクで手際よく絞める。
鱗以外を元の大きさに戻すとジャブジャブと水洗いし、安っぽいキッチンのコンロに火をかける。
ミニチュアの酒樽を指で摘まみ、ピンセットで栓を捻ると、白ワインが元の大きさとなってフライパンに注ぎ込まれる。
魚と季節の野菜を刻み、グツグツと煮込む。
完成を告げる香りが、狭い部屋に充満した。
テーブルに座り、フライパンのままのアクアパッツァを直接フォークで食べ始める。
「産地直送だ、うまいに決まっている」
熱々の料理に少し、額が汗ばむ。
アダムスは壁から隆起する火山と雪山に手を掲げると、火山を少し小さく絞った。
時には部屋の空中で迷子になった獲物も捌く。
夜になれば、部屋は満天の星空の下、森の匂いと湖の静寂に包まれる。
アダムスは今日一日分のゴミを丁寧にまとめると、漆黒のカプセルに詰める。
鉄の箱の補充口に入れると、レバーを引いた。
――ガタンッ。
「今日も一日、終わりだな」
ベッドに転がり込むと、ランプの灯を落とした。
そこは完璧に封鎖され、同時にどこまでも開かれた、男だけのワンルームだった。
作業台の片隅。
ぼんやりと灯る残り火が、せっせと手を動かすゴーレムの輪郭を浮かび上がらせている。
糸が生地と擦れる音。
ボロボロになるまで使い倒した探検帽が、少しずつ、丁寧に繕われていく。
操舵輪に吊るされた因果の羅針盤は、針が消失していた。




