捨てた名前
崩壊から二週間。
王国が選んだのは、慈悲なき合理主義だった。
再建の槌音は響くが、それは死刑台を組み立てる音に等しい。
ここでは「魂」が唯一の通貨であり、動力源だった。
罪を犯した市民、傷ついた兵士。
価値の低い魂から順に魔法へ加工され、枯れ果てた大地に偽りの水を呼び戻す対価となった。
今日、隣人が水に変わった。
明日、友が麦に変わる。
命の連鎖ではなく、命の消費。
一年後には誰もいなくなることが確定したこの廃墟で、人々は「自分ではない誰か」が削られていく様を、ただ空虚な目で見守っていた。
太陽の光さえ届かぬ、永遠の夜が続く深海。
――ドォンッ。
だが、静寂は無残に砕かれる。
水を透かして届く不自然な震動は、魂の優先順位に飢えた冒険者たちが放った探査魔法の残響だ。
「……ここも、見つかったか」
世界を延命させようとする亡者どもの執念。
下らない隠れん坊。
焦げた廊下を直し、ひしゃげた玄関を元に戻したかった。
だが、ハンマーを振るう隙間さえ人間たちは与えてはくれない。
男は重い腰を上げ、浮上を開始する。
海面へ向かうその足取りは、帰還ではなく、ただ「場所を変えるだけ」の無意味な移動だった。
二日後。
吹きさらしの荒野の片隅に、半壊したワンルームが、ただの岩塊のように佇んでいた。
男は、古代米の握り飯を口へと運ぶ。
少し硬い米の粒を噛み締める音だけが、室内に響いていた。
――コン、コン、コン。
乾いた音が、鋼鉄を伝って室内に侵入する。
男は噛み砕いた米を飲み込むと、埃を被ったモニターのスイッチを入れた。
そこには、継ぎ接ぎだらけのゴーレムが立っていた。
サイズは、去った時と変わらない、ミニチュアサイズ。
だが、その装甲の隙間からは、以前にはなかった、静かで確固たる『魂』の光が漏れていた。
男が玄関の扉を開ける。
ゴーレムは静かに立っている。
ただ、自分の体より大きな、アリストンの紋章が入った親書を、両手で恭しく差し出している。
男は、握り飯を咀嚼しながら、不快そうに、だがどこか満足げに鼻を鳴らす。
「……遅かったな」
男が無造作に親書を受け取る。
ゴーレムは作業台へ向かうと、少しぎこちない手つきで、タンスの一番下を開いた。
そこは、男も知らないゴーレムだけの「宝物置き場」。
鞄から大切そうに白銀の鱗を取り出すと、印章指輪の隣に並べた。
その後ろ姿を見つめる男の眉間に、わずかな皺が寄る。
「その継ぎ接ぎ、下手だな。元通りに直そう」
だが、ゴーレムは静かに、しかし断固としてその手を制した。
鋼鉄の指先がそっと撫でるのは、ベルカとフィリスが白銀竜と共に、何日もかけて繋ぎ合わせた、不格好で歪な溶接の溝。
――これがいい。
音声機能のない彼が、そう言った気がした。
男は一瞬、呆然と立ち尽くした。
「……勝手にしろ、壊れても知らん」
男は不機嫌そうに吐き捨て、逃げるようにキッチンへ向かった。
扉の外では世界が、灰色に滅びている。
だが、ワンルームの中だけは、数千年前と変わらぬ、平穏な空気が流れていた。
アリストンからの親書を最後の一行まで読み終えた男は、傷だらけのゴーレムを一瞥し、ついに観念した。
逃げ続けるには、この部屋はあまりに多くの傷を負っていた。
あくる日。
瓦礫の山がまだ生々しく残る、再建中の王宮。吹き抜ける風が、焼けた石の匂いを運んでくる。
卓を挟んで、二つの陣営が向かい合っていた。
カサンドラの背後には、威厳を取り繕う国王ウィリアムと、険しい表情の第四王弟ヴァルター。
対する男の背後には、冷徹な理知を湛えた第二王弟アリストンと、静かに殺気を抑える第三王弟キリアンが、守護者のように控えている。
「……協力してくれたら、こんなことにはならなかったのよ?」
差し出された契約書。
カサンドラの声には、疲弊と、それ以上に「正義を貫いたのは私だ」と言いたげな、醜悪なまでの自己正当化が滲んでいた。
男はその紙片を、ポストに投げ込まれた不要なチラシを見るような、ひどく冷めた目で見つめ返した。
条件はたった一つ、ワンルームを男の住所に固定し、二度と動かさないこと。
ワンルームで固定された王国は、再び世界の秩序を取り戻す。
王国の外の世界がどうなるのか、もはや誰にも分からない。
知る必要もなかった。
◇ ◇ ◇
和解の証、王家が受け継ぐバルトロメウスの手記。
その譲渡は後日、改めて執り行われることになった。
サラサラと、カサンドラが署名した。
――カサンドラ・ノス・グラード
「このカサンドラ・ノス・グラード、……ノス・グラード伝承の災厄の男の末裔、王国の支配者として、不可侵を誓いましょう」
差し出された羽ペンを男が握ると、大きくため息を付いた。
ザリザリと、男が署名した。
――アダムス・ノス・グラード
「……ッ、あ、貴方、それは……」
カサンドラの声が、恐怖で裏返った。
男の背後で、アリストンは驚かなかった。
今、自分たちが契約を結んだのは「人間」ではない。
この国を、この世界を、そして自分たちの血を造り上げた「原型」そのものだと直観していた。
「アダムス・ノス・グラード……、ッ……」
ウィリアム王がその名を絞り出した瞬間、彼の喉を不可視の炎が焼き、言葉が血の味に染まった。
始祖バルトロメウス・フォン・レギールが血脈に刻んだ呪いが、三千年の時を超えて王の喉笛を締め上げる。
始祖の手記にのみ記されたその名は、口にするだけでも禁忌。
王は溢れ出す鮮血を掌で押さえ、眼前に立つ「災厄」そのものを見つめた。
自らの喉を焼くこの激痛こそが、目の前の男が本物であるという、あまりに皮肉で確かな証明だった。
その禁忌の名が今、目の前の男の手によって、何気ない署名として紙の上で脈動している。
魂の優先順位。
王国の再興。
――滑稽だった。
家畜が飼い主に「ここを動くな」と命じていたようなものだった。
驚愕し、頭を垂れるカサンドラ。
「……アダムス、様」
呼びかける言葉は、届かない。
数千年の時を経て巡り会った「血縁」など、アダムスにとっては稲に付く雑草ほどの価値もなかった。
「契約成立だ、帰る」
椅子を引き、アダムスは立ち上がる。
背後に居並ぶ王族たちが、その一挙手一投足に呼吸を止める。
彼らが心血を注いで築き上げた繁栄も、再建の誓いも、アダムスの網膜には一欠片も映っていない。
「次に来る時、奴の手記を寄こせ」
それだけを言い残すと、アダムスはかつての「世界」を背に、自分の「世界」へと歩き出した。




