徹底的にやる
ゴーレムは作業台の上に釘や鉄板を搔き集めると、拳で部屋に打ち付けていく。
振動で棚から瓶が踊り出ないように、彼はただ必死に部屋の至る所を補強する。
この平穏な箱庭だけは、たとえ世界が砕けても死守すると誓うように。
南方の空を切り裂くワンルーム。
男が玄関の扉を解き放った瞬間、世界は「真空」という名の怪物に喉元を掴まれた。
鼓膜を叩き割る気圧の咆哮。
居住区を荒れ狂う暴風が男を壁際まで吹き飛ばすが、彼は折れそうな腕を廊下の壁に突き立て、その衝撃を嘲笑うように受け止めた。
海が丸ごと遥か上空まで吹き飛ばされていく。
地図の記述を構成するあらゆる情報が、140京トンの塩水と共に引き摺り出される。
その濁流の中、千年の時を生きる海龍も、美声で嵐を鎮める歌姫も、島と見紛う万年亀も、等しく「不純物」として選別された。
男が求めたのは、世界を圧殺するための冷徹な、ただ純粋な「塩水の質量」のみ。
音速を置き去りにしたワンルームは、蒼穹を喰らい、ただの空白へと変じゆく海の上を爆走して止まらない。
降り注ぐのは、主を失った海水の豪雨。
潮の香りがむせ返る中、万年亀の広大な背の上で、海龍と歌姫たちは言葉もなく顔を見合わせた。
つい先刻まで自分たちを抱いていた碧の揺り籠は消え、そこにはただ、剥き出しの海底と、空を裂いて消えゆく「箱」の残像だけが取り残されている。
その「箱」の内側では、地獄が煮え立っていた。
玄関から溢れ出した圧縮海水が、巨大な獣の拳と化して男を圧殺せんと迫る。
だが、床を転がる数百の瓶が、吸い込まれるようにその「拳」を次々と封じていく。
限界を超えた質量の奔流に、鋼鉄の扉が蝶番ごとねじ切れ、虚空へと吹き飛んだ。
荒れ狂う風と塩水が室内を蹂躙するが、男は視線すら動かさない。
吹き飛んだ扉の向こう、吸い出される酸素と、手の中に収まりゆく「海の質量」だけが、彼の世界のすべてだった。
「まだまだ、足りないな」
モザイク画へと変質し、生気を失った空の下。
数万の騎士と民衆が埋め尽くす広場に、一際高いファンファーレの壊れた金属音が鳴り響いた。
色彩を失った甲冑に身を包んだウィリアム王が、バルコニーへと歩み出る。
その背後には、王国の正当性を象徴する巨大な旗が、ノイズを巻き散らして揺れている。
ウィリアムは、震える拳を力強く突き出した。
「我が愛すべき民よ。そして、神に選ばれし勇敢なる騎士たちよ」
彼の声は魔導具によって増幅され、王都の隅々まで染み渡る。
それは気高く、慈愛に満ちた王の声だった。
「いま、空は曇り、海は沈黙している。邪悪なる簒奪者が、我らの平穏を脅かそうとしている。だが、案ずることはない。我が王国が歩んできた三千年の歴史は、幾多の闇を退けてきた『光』の軌跡である」
地を震わせるような歓声が上がる。
民衆は、地を這う黒い煙を払いながら、目の前の「王」という偶像に縋り付いた。
「我らには不落の城壁がある。神の加護を受けた騎士団がある。そして何より、正義を信じる諸君らの心がある。簒奪者がどれほど巨大な影を落とそうとも、人の魂が放つ輝きを消し去ることはできぬ」
ウィリアムは、あえて壊れた空を見上げ、剣を抜いた。
「立ち上がれ。明日の朝、この空に再び清浄な蒼を取り戻すために。我らの命は、王国の未来を照らす不滅の灯火となるのだ。――正義は我らにあり!」
熱狂。絶叫。
騎士たちは剣を叩き合わせ、民衆は涙を流して王の名を呼んだ。
だが、その狂乱の最中。
(――南方の海が、地図から消える頃合いか。次は火山か。……逃走の準備を急がせなければな)
王の傍らに立つ辺境伯の瞳は、それら一切の熱を反射しなかった。
◇ ◇ ◇
海を切り裂き、戻ってきた「それ」が大陸へと突き刺さる衝撃波が、山脈をただの瓦礫へと変えていく。
硬質な鉱物だけをえり好みし、それ以外を「不純物」として大地へ叩きつける様は、あまりに無慈悲だった。
心臓部を抉り取られた火山たちは、噴火の産声すら上げられない。
ただ、内側から崩壊し、沈黙の中でその命を終えていく。
その略奪の余熱は、理不尽な重圧となって部屋の空気を圧迫した。
肺に流れ込む空気は、まるで焼けた鉄の味がした。
最後の一山を足蹴にし、ワンルームが弾丸となって天を突いた。
立ち塞がる嵐を正面から食い破ると、眼前に迫るは、大気を震わせる巨大な雷。
その暴力的な光の束さえ男の引力に抗えず、吸い込まれ、凝縮されていく。
逃げようとする雷鳴が収束し、轟音を上げるその直前を踏み付けては捕まえていく。
男からは逃げられない。
圧力に耐えかねた眼球の血管が弾け、頬に赤い線が伝った。
指を裂く放電が痛むが、男の瞳に宿る光は、雷よりも鋭くぎらついていた。
「……ハァ、まだ、足りないな。徹底的に、……やる」
「……はあ、足りないわね」
魔術院の最深層。
冷えた石壁を震わせるのは、魔術師たちの祈りではなく、鎖が擦れる不吉な金属音だった。
六翼龍の心臓――三千年前の遺物が、どす黒い拍動を再開する。
だが、その糧となるのは清浄な魔力ではない。
カサンドラの命により運び込まれた、無数の「ズタ袋」だ。
「……『魂』をもっと入れなさい。罪人の魂を」
カサンドラの声が、根源の魔術師の思考を鋭く切り裂いた。
「なにを……、魂をすり替えるだけでも禁忌だというのに、魂が複数あったら、何が起こるか……」
「いいから、流し込みなさい」
抗議の声は、カサンドラの氷のような一瞥で氷結した。
鎖で繋がれた袋たちが、断末魔の震動と共に龍の首へと捧げられる。
袋の中から漏れ出すのは、言葉にならぬ悲鳴と、魂が「器」へと強制収用される際の嫌な焼成臭。
「時間が無いの。早くしないと、貴方達もその袋に詰めるわよ」
脅しではない。
その瞳に宿る本気の色に、魔術師たちは震える指で禁忌の術式を刻む。
やがて、爬虫類特有の縦に割れた瞳孔は、理を失った人間のそれへと塗り潰された。
どす黒い欲望に濡れた、巨大な「人間の眼」。
それが、爛れた瞼を見開いて、獲物を探すようにギョロリと動いた。
その勢いを失うことなく、ワンルームは加速の果てに、大気の層――世界の「天井」を粉砕して突き抜けた。
視界から色彩が消え、真の暗黒が広がる。
男は両手を高く掲げて「虚無」を招き入れた。
この世界には存在し得ない、理の外側の「無」。
それはどれほど圧縮しても際限なく、飢えた獣のように男の瓶へと流れ込んでいく。
メキ、メキリ――。
絶対零度の冷気が、瓶に触れた指の皮膚を瞬時に氷結させ、肉ごと張り付かせる。
霜焼けが神経を焼き切り、指を噛みちぎるような感覚。
だが、男はその激痛さえも、遮断する。
空で満たされた瓶が、室内に弾丸のごとき勢いで吐き出され、壁を穿つ。
それでも男は、最後の一つを飲み込むまで、血に濡れたその手を止めることはなかった。
「……これを開けたら、終わりだな……」
男が肺を灼くような喘ぎと共に廊下に倒れ、ワンルームも力なく地上へ落ちていく。
――カタンッ。
静寂を破る乾いた音と共に、天井のハッチが跳ね上がった。
ゴーレムが外へ身を乗り出すと、そこには異様な光景があった。
びっしりと凍りついた霜の塊が、ハッチの縁に張り付くように凍結している。
「ああ? なんだ、これ……?」
振動と共に霜が砕け落ちると、中から現れたのは、重度の霜焼けで赤黒く膨れ上がったキリアンの顔だった。
――コトリ
ゴーレムは、キリアンを狂気の深淵へと叩き落としたあの「スープの缶詰」を置いた。
「……ッ!」
飢えた獣のごとく飛びつくキリアン。
だが、ゴーレムがスッと、見慣れたスプレーボトルを構えると、世界の時間が止まったかのようにキリアンは硬直した。
「ああ……わかった。わかったよ……」
キリアンは震える声を漏らし、惨めに頭を垂れる。
「何でもする。何でもするから……それをよこせ」
かつての王族の矜持は、まるで溶け落ちた霜のように、欠片も残っていない。
じっとりと、不快な汗が雫となって、鋼鉄の鎧に垂れ落ちていた。
「ヴァルター殿? キリアン殿を討ち取った後は、休まずに本隊へ合流して頂きたい。よいな?」
鞘を握るヴァルターの拳は、骨が砕けそうなほどに軋んでいる。
そのあまりの力の入りように、アリストンの奥歯も無意識に噛み締められた。
(キリアンに王国軍をぶつけるのは悪手だ。あれはもう『人』ではない。……ヴァルターに抑えさせる。血を分けた兄弟同士、トドメは刺せまいからな)
「兄上……」
ヴァルターの声は震えていた。
「説得をさせて下さい。必ず、このヴァルターがキリアン兄上を説き伏せてみせます。あの方は、あの方はまだ……!」
必死な弟の眼差しを、アリストンは氷のような瞳で受け流す。
「……貴公に任せよう、以上だ」
その言葉を合図に、王国軍はそれぞれの死地へと散っていった。
背後の喧騒を切り捨て、アリストンは迷路のような回廊を抜け、ひっそりとした客間へと滑り込む。
「……フィリスはどうした?」
待ち構えていたベルカが、苦々しく顔をしかめた。
「すいません……。竜に乗りたいと、お聞きに入れず……」
その視線は窓の先、大空を指した。
「まあいい。……ベルカ、準備を。この戦、竜騎士団からは一機の犠牲も出さない」
「……アリストン様」
ベルカの声が沈んだ。
「なぜ、あの女を討たないのですか。今、背後から貫けば、すべてが終わるはずです」
禁忌の問いに、アリストンの瞳が冷たく凍りついた。
「……ベルカ、あの女の鎖は、主が死ねばどうなると思う? 術が解けて解放されるか、あるいは主の死と共に霧散し、消滅するか」
絞り出すような声には、「不確定要素」という名の壁に阻まれていることへの、深い憎悪が滲んでいた。
「解放される保証があるならば、とっくにあの女の首は――この手で、とうの昔に斬り落としている」
彼は懐からロケットペンダントを取り出した。
蓋を開ければ、そこにはかつての「自分」がいた。
慈愛に満ちた妻、そしてまだ何も知らずに笑う赤ん坊のフィリス。
「あの子に、少しでも多くの世界を見せたい。……救える可能性が万分の一でもあるなら、私はその細い糸を選ぶ。それだけだ」
刹那、砂塵の混じった突風が世界を薙いだ。
奪う者の渇望、王の血脈、そして泥濘に沈んだ伝承。
三千年の時を経てなお乾かぬ因縁が、この荒野で火花を散らし、互いの喉元を狙って牙を剥く。
『……明日、終わらせる』
重なり合う独白は、皮肉にも遠く離れた仇敵の声と重なった。




