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いい進捗

男は、猛り狂う風の咆哮を裂いて、空飛ぶワンルームの頂上へ手を掛けた。


命綱などという準備は、男には無い。


だが、指先を伝う震動がいつもとは違っていた。


視界の半分を占めるべき装甲が、無残に剥ぎ取られている。


爆縮の爪痕を晒す屋根からは、本来見えるはずのない構造材が剥き出しになり、裂け目が笛のような不快な高音を奏でていた。


「甘く見ていたか……」


肺に突き刺さる薄い空気を吐き出し、苦く呟く。


剥き出しの強風に煽られながら、ガタガタと悲鳴を上げる扉に強引に足を掛けた。


危うい足取りでドアノブに足を掛けると、逃げ場のない天空から、ようやく自身の「城」へと転がり込んだ。


その視線の先には、ダメになった稲穂を、ゴーレムが寂しそうに処分していた。


残る原風景は三つ。

その全ての場所は決まっていた。


男は、扉が解き放たれたままの扉に向き直った。

眼下に広がる大海原は、世界の崩壊を映すようにどろりと濁り、鉛色の波が岸壁を虚しく叩いている。


かつての生命の輝きは失われ、海面はただの「動く泥」のように死んでいた。


だが、男の瞳は、その濁った表面のさらに下を透視していた。


「表層に用はない」


彼はただ、海面に向けて静かに手のひらをかざした。


――深海5メートル以下、海底まで。


次の瞬間、引き剥がされた深海の膨大な圧力が、海を吹き飛ばした。


凄まじい衝撃波と共に、大海原が山脈となって雲に叩きつけられた。


見上げた視界のすべてを、荒れ狂う群青色の壁が塗り潰し、こちらへ迫りくる。


それは潮の吹雪を巻き散らしながら落下すると、すべてが男の手のひらに吸い込まれていく。


引き剥がされた世界の断片は「蒼色のジオラマ」へと収束した。

その刹那、世界から「蒼」の概念が剥落した。


人々がふと見上げた空は、抜けるような青を失い、生気のない灰色のモザイク画へと塗り潰された。

眼下に広がるのは、蒼を奪われたモザイク画。


だが、男の手の中にあるジオラマだけは、眩しいほどに鮮やかだった。


サファイアを溶かし込んだような透明な水底を、幾重にも重なる光のレースが優雅に滑っていく。


蒼のグラデーションを湛える珊瑚の森を、精巧な宝飾品のような魚たちが、音もなく横切った。


「……綺麗だ」


男が手を下ろすと、そこには広大な「球体の空白」が生まれていた。


抉り取られた「虚無」を埋めようとするモザイク画の濁流が、虚しく響き渡っていた。

男が最後の一瞥もくれず背を向けた。


千切れた雲が弾丸のような速度で後方へと消えていく。


「……しつこいな」


遥か後方、雲海の切れ間に、点のような影が躍っている。


辺境伯アリストン直属の偵察部隊――飛竜に跨り、世界の隅々まで眼光を光らせる「竜騎士」たちだ。


単騎の竜騎兵が駆け抜ける。

白銀の翼が勢いよく風を切る様子を、ゴーレムは見つめていた。


彼らは、男の居場所を常に監視しようとする。


だが、それ以上のことは何一つとしてしなかった。




◇ ◇ ◇




男は「空詠み」の調律を切り替えると、砲弾のように加速した。


やがて、果てしない緑の大地に到着した。

そこは、風の吹き抜ける草原だった。


扉を開けると、一歩、踏み出す。


まだ色彩が残っている。

男は草原に立ち、風の匂いを嗅いだ。


記憶にあるのは、温かな母体の体温ではない。

原型として泥の中から這い出した時の冷たい大気。

初めて肺が焼けるような呼吸をした時の苦しみ。


やがて、人間たちは、男の影を見て、彼を神と崇め、あるいは悪魔として恐れ、遠ざかっていった。

それは男にとってどうでもいい、ただの記憶。


男が静かに手を掲げると、その指先から地平の果てまで、空間を切り刻む放射状の亀裂が奔った。


巨大な水晶が砕け散るような、硬質で冷酷な音が世界を震わせる。


無数の裂け目から「草原」が土壌ごと捲り上がり、大地の肉を剥ぎ取るような凄まじい簒奪が始まった。


今後、産まれるはずの命が、その可能性ごと死に絶えた。


吹き抜ける風がそのすべてを男の手のひらへと運び、風景の質量は一点へと吸い込まれていく。


男の手のひらにある「碧色のジオラマ」だけが、おぞましいほどの瑞々しさで永遠の春を謳歌している。


「……これだ」


男が歩き出した後に残ったのは、生命の記憶を根こそぎ奪われ、熱を失い、ただ硬く凍りついた黒い焦土の荒野だけだった。


男は、かつてカサンドラと共闘した時の本物のスノードーム、「純白のジオラマ」を取り出した。


「翠色」「蒼色」「碧色」「純白」。

ジオラマをレプリカに嵌め込んだ。


「……最後だ」


男は、たった一つ残された空白の台座を見つめた。

そこを埋めるべきピースは、決まっている。


世界の災厄の中心地となるはずだった「荒野」。


三千年前に創造主の工房があった場所、現在の王国の中心。


皮肉な運命だった。

創造主が切り刻まれた土地は、今や繁栄の象徴――王国が建つ、最も喧騒に満ちた場所となっている。


外壁の周囲は即席のテントや掘っ立て小屋が溢れかえっていた。


世界の崩壊と呼応するように、世界の人間が集結していた。


彼らが「文明」と呼ぶ石造りの建物の下には、あの乾いた土が眠っている。


だが、男は「人間」を侮らない。

その小さき手がいかに器用に、創造主の傑作を「盗品」へと変えるかを知っていた。


男が丁寧に、完璧な対称性を与えて造り上げる。

だが、人間は常にそこに泥のついた指を差し込み、盗み、奪い去っていった。


笑いながら踏み潰す残虐性。


「……造ったものが、いつも無くなる」


男は吐き捨てるように呟く。


人間という種は、世界の構成員ではなく、世界を消費し尽くす「穴」そのものだ。


彼は今、その穴を塞ぐための最後の一打を放つ決意を固めた。


「容赦はしない」


男はそう呟くと、ワンルームの舵を切った。


同刻。

蝋燭の火が不吉に揺れる王座の間。


アリストンは、完成間近の悲劇を予感しながら、深々とこうべを垂れた。


「陛下、申し上げます。奴は術中に嵌まり、無謀にもこの王宮への襲撃を計画したようです」


「……流石ね、アリストン。貴方は私の期待を裏切らないのね」


歓喜に喉を鳴らしたカサンドラが、出来の悪い兄弟の鎖を、乱暴に引き絞った。


激しい金属音と共に、ウィリアム王の体が石床に崩れ落ちる。


衝撃で転がった王冠が、虚しい音を立てて冷たい床を滑っていった。


だが、這いつくばるその瞳は、泥にまみれてなお、簒奪者を射抜くような王家の矜持を失わない。


その不屈の輝きが、カサンドラの嗜虐心をいっそう激しく煽り立てた。


その傍らで、重装騎士は言葉を失い、ただ屈辱の泥を啜っている。


「足の遅い無能」と罵られ、騎士としての魂を剥がされ続けた果ての、壊れかけた廃人のような沈黙。


「明日、奴の背後を討つため、これにて失礼致します」


一礼し、踵を返す。

踏みしめる石床の冷たさが、ブーツの底を抜けて心臓まで届くようだった。


(……この床を踏むのは、あと何回か)


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