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何日かけたと思っている

厳かな静寂が支配する王座の間。


アリストンが差し出した羊皮紙は、その場の空気を一瞬で変質させた。


「居場所を、特定した……?」


カサンドラが身を乗り出すと、香油の甘い香りが漂う。


アリストンは深く頭を垂れたまま、表情を殺した。


「我が竜騎士団の空の眼からは逃れられません。……仕掛けるならば、これ以上の機会はないかと」


カサンドラは長い爪で自らの唇をなぞった。


「いいわ。アリストン、貴方は本当に……期待を裏切らないわね」


「長く留まる様子はありません。足の遅い歩兵は捨て置き、宮廷魔導士を即刻動かして下さい。我が竜騎士団が、その血路を開きましょう」


「辺境伯閣下、それはあまりに――」


背後で声を上げようとしたヴァルターを制するように、ガチャン、と重い鉄の音が響く。


繋がれた首の鎖が、無慈悲に引き上げられた。


「……っ、……ぐ、う……」


窒息に近い苦しみに顔を歪める弟。

アリストンは一瞥すらせず、淡々と、凍てついた声で告げた。


「ウィリアム殿、ヴァルター殿は王国での守備を。……陛下をお守りするのが、貴公らの役目だ」


辺境伯は深く一礼し、踵を返す。

扉が閉まり、背後の喧騒が遠のいた瞬間、アリストンがため息を付いた。


(あの男は二日後に湖畔に現れる。貴女に動かれると困るのでね。……まずはその手足を折る)


辺境伯は静かに、その時を待った。


空飛ぶワンルーム。


男は、何度も足を運んだ湖畔を訪れた。


記憶の中にある湖畔は、銀細工のさざなみが絶えず形を変え、透き通った風が肌をなでていた。


だが、目の前の湖畔は無残に干上がり、代わりにそこを埋め尽くしていたのは、濃密な黒い霧。


霧は生き物のように這い出すと、男の肌にまとわりついては、じっとりと冷たい不浄な湿り気を残していく。


かつての面影を求めて彷徨う視線は、ただ深い闇の底へと吸い込まれていった。


男が両手を掲げると、大地は抗う術を持たず、地殻ごと砕け散った。


――だが、その「崩壊の音」さえもが、異様な変質を始める。


岩盤が砕ける音は奇怪な金属音へ変わり、次第にザリザリと、砂を噛むようなノイズが混じり始めた。


かつて豊かな翠を湛えた湖畔が、その輪郭を急速に失い、一点へと収束していく。


男の掌中に収まったのは、楽園の抜け殻――死んだ石材を削り出したような模型であった。


その刹那、世界の旋律は永遠に潰えた。

風の囁きも、鳥の囀りも、水の温もりさえも。


すべては、折れた剣を引き摺る金属音と、それを覆うノイズに変わり果てた。


「手直しが必要だな」


男は壊れた模型を見つめると、踵を返した。


あとに残ったのは、修理不能なガラクタが奏でる絶望の不協和音だけだった。


模型を抱えて室内の作業台に並べると、ピンセットを手に取った。


男は、自らの手で元の湖畔を再構築していく。


壊れた地層の断面を一つずつ指先でなぞり、パズルのように繋ぎ合わせ、そこへ世界樹の雫をそっと落とした。


乾いた土壌に湿り気が戻り、風が生まれ、光が透ける。

途方もない歳月をかけて造り出されたはずの湖畔を、僅か数時間で丁寧に縫い留めていった。


カワセミが鳴く声が微かに聞こえる。

深く、静かで、どこか湿り気のある「翠色のジオラマ」が完成した。


その間、ワンルームの外は地獄の様相を呈していた。


上空には百を超える、辺境伯直属の竜騎士団。


地上にはカサンドラが直接指揮する宮廷魔導師団。

そして、彼らが展開するのは、魂を繋ぐ鎖を介した燃焼回路。


その周囲を包囲するように並ぶ、数十の重厚な馬車。

荷台を埋め尽くしていたのは、穀物俵でもなければ、戦利品の金銀でもなかった。


粗末な麻袋を頭から被せられ、折り重なるように詰め込まれた人間たちの群れだ。


誰一人として声を上げる者はいない。


ただ、袋の網目越しに漏れ出る、浅く、震える呼吸の音だけが重なり合い、不気味なうねりとなって大気を震わせている。


荷台が揺れるたび、袋の中の「中身」が鈍い音を立ててぶつかり合い、手足と思わしき突起が麻の布地を内側から力なく押し返していた。


死刑囚、政治犯。


彼らは魔法の反動を肩代わりさせられ、魂を焼き尽くされるための「使い捨ての緩衝材」だった。


だが、モニターに映るその光景も、男の視界には映らない。


ようやく腰の高さまで迫った一株の古代米を静かに見つめた。


野生味の強いのぎ同士が擦れ合う音は、どこか遠い時代の囁きのような、乾いた音を響かせる。


幾度も失敗し、土からやり直した一週間。

ついに、待望の「最初の穂」が頭を覗かせていた。


「やっと収穫だな」




◇ ◇ ◇




『やり過ぎですよ』


(……始まる、後退だ)


カサンドラの合図が響いた瞬間、禁忌の魔法がその牙を剥いた。


天から降り注ぐ極太の「光の雷」が、無慈悲な刃となって貫いた。


――装甲は、もはや完璧な盾ではなかった。


魔法を無効化するという神話の約束もまた、魔法同様に壊れていた。


水平を誇っていた床が、傾斜を描いて跳ねる。


「ぬあ……?」


あと数センチ。

最初の穂先に触れようとしたその瞬間。


――グチャ。


泥とは違う、植物の繊維を圧し折る生々しい感触が、ブーツの底から頭へと伝わった。


静止。


部屋を揺らしていた轟音さえ、その瞬間、彼の中から消え失せた。


男が、ゆっくりと足を持ち上げる。


その分厚い革底の下から現れたのは、もはや植物の体を成さない「残骸」だった。


発芽の瞬間に震え、一時間置きに定規を当て、ようやく誇らしげに穂を垂らすまで見守り続けた古代米。


天を指して真っ直ぐに立っていたその強靭な茎は、無残にも途中でへし折られ、黒い泥の中へと埋め殺されている。


ぐちゃりと潰れた穂先から、未熟なモミの汁が涙のように溢れ出ると、その雫は泥水に消えた。


『効いたぞ! 手応えがあった!』


『化け物の城を、ついに崩したぞ!』


外では魔導師たちが勝ち誇った声を上げ、次なる生贄を魔法陣へ放り込んでいる。


だが、ワンルームの空気は、緊急事態に沈んでいた。


「……馬鹿な。なんということだ、これは……」


掠れた声。


視線の先には、無残に蹂躙された残骸。


「……お前たちが、これを踏ませた」


男は、乱暴に棚から別の瓶を掴み取ると、鉄の箱へと叩き込んだ。


傾いた床を蹴り、無機質な操舵輪を握りしめる。

激しい加速音と共に、天空を切り裂き、急上昇を始めた。


「消えろ。……消えて無くなれ」


掠れた呪詛と共に、レバーを力任せに引き抜いた。


――ガタンッ!


投下されたのは、男がレプリカに採用しなかった「廃村」、「古城」、「遺跡」の詰まった瓶。


数百の「風景」が自由落下の最中、封じられていた呪縛を解き放ち、爆発的な勢いで本来の質量を奪還した。


――世界を揺るがす、質量の咆哮。


王国軍が絶望と共に仰いだ空に、もはや無限の広がりは無い。


逆さまの古城の尖塔が、回転しながら落ちる辺境の村の喉元を貫き、膨れ上がった石材と土塊が空中で互いを食らい、砕き、混ざり合う。


視界のすべてが、逃げ場のない「瓦礫の天井」へと塗り潰されていく。


太陽の光は瞬時に圧殺された。


グ、ググ、と鼓膜を内側から押し潰す重厚な地鳴りが天より降り注ぐ。


あまりに巨大すぎるその絶望は、もはや「落ちている」のか、あるいは「世界が静止したまま潰されようとしているのか」さえ、誰にも理解をさせなかった。


王国軍が魂を削り、多層の魔法障壁を展開した。


――パリン


それは軽い音を立てて弾けた。


ほんの数秒前までそこに存在したはずの荒野は、まるで数百年前に滅びたかのような、静まり返った廃墟の跡地へと書き換えられていた。


「……お前たちは、やり過ぎた」


ワンルームはそのまま重力を切り捨て、さらなる高みへ飛翔した。


「次を取る」


すれ違う影。


「――陛下! お怪我はありませんか――」


辺境伯が地上へと突き進む。


カサンドラが立ち尽くす一帯だけは、神の指先が触れたかのように、元の荒野が円状に守られていた。


その円の境界線には、黒焦げた瓦礫と、中身ごと炭化した「ずた袋」が無数に転がっている。


焦げた麻布と肉の焼ける異臭が、鼻腔を無慈悲に刺した。


駆け寄るアリストンを、カサンドラは退屈そうに見やる。


「……この程度の威力では、足りないのね」


「陛下。惜しいところでしたが、奴の防壁の一部を損壊させたのは事実。全軍が集結し、真に包囲さえ出来れば、あれを落とすことは叶いましょう」


彼女の試すような視線が、アリストンの心臓を射抜くように注がれる。


「もう、見えないわね。……あれにどうやって、私の足の遅い軍が追いつくのかしら?」


辺境伯が一瞬、思考を巡らせるように視線を外す。


「奴が自ら、王国に来るように仕向けましょう。陛下と我が兄弟……あのヴァルターが迎え撃ち、私がその背後を絶つ。逃げ場を断つ舞台を用意しましょう」


「あら、素敵ね。……アリストン? それはどれほどの時間がかかるの?」


頬を上気させ、期待に瞳を輝かせるカサンドラ。


「三日ほど、頂ければ」


簒奪者の高笑いが、静まり返った廃墟に響き渡る。


(――まるで夢見る乙女だな。王宮の中で、ただ見たい夢だけを見ていてくれ)


アリストンは次の算段を冷徹に組み立てた。


娘の笑顔を二度と汚させない。


そのためなら、この王国のすべてを廃墟の底へ沈めても構わない。


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