新たな強敵、古代米
王国周辺。
若き魔術師の瞳には、まだ「勝利」への希望が灯っていた。
渾身の叫びと共に、彼は神の雷撃を放った。
網膜を焼き潰す白光。魔物を存在した事実ごと塵に変える絶大な熱量。
凄まじい勝利の余韻。
……彼が期待していたのは、それだった。
だが、現実に訪れたのは「完璧な静寂」だった。
雷撃が去った瞬間、彼は膝をついた。
痛みはない。
ただ、圧倒的に何かが足りない。
駆け寄る仲間の声が、なぜか他人事のように遠く響く。
先刻まで胸を焦がしていた女への恋心も、名声への渇望も、死への恐怖すらも。
それらは今、魔法を編むための代償として、雷と共にすべて放電されていた。
「……ああ、空が、綺麗だ」
それが、彼の世界に対する最期の関心だった。
心臓に「動け」と命じる、最低限の執着すら使い果たした彼は、微笑んだまま、ただの動かない物体へと成り果てた。
――バチ、ッ
最期の放電が、男の指先を無様に跳ね上げた。
この日、この世界の魔法は、決定的に壊れた。
モニターが、連日「終わりの始まり」を淡々と垂れ流している。
風が吹くたび、砂混じりの空気が喉の粘膜を削り、舌の根が干からびた土のように張り付く。
作物を育むはずの黒土は、今や骸骨の肌のように白くひび割れ、命を拒絶していた。
わずか一杯の水を巡り、昨日の友が今日の敵となり、路地裏では鉄錆の匂いが絶えない。
「――案ずるな、我らが民よ! 誇りを捨てぬ限り、道は開かれる!」
高台から、王が朗々たる声を響かせる。
カサンドラは、熱を失った眼差しでその光景を射抜いていた。
世界を干からびさせた元凶への憎悪が、黒い毒となって彼女の全身を巡っていた。
だが、男は熱意を持った指先で稲を植えていた。
挑戦しているのは「古代米」。
水温が一度変われば死に、日照が数分狂えば枯れる。硬い土壌は命を拒み、男の指先を執拗に弾き返そうとする――剥き出しの野生。
だが、苛立つことさえない。
泥を噛む音と、男の深い等間隔な呼吸だけが響く。
額から流れた汗が、泥水に一滴落ちて波紋を作る。
一突き、一突き。
執拗なまでの反復。
その傍らで、正座したゴーレムが凝視していた。
無機質な瞳が、男の指先が土に「命の理」を刻み込む様を、一瞬たりとも逃さぬよう記録し続けている。
「……ふう、腰に来るな」
一面を植え終えると、蛇口から流れる世界樹の朝露で手を洗う。
冷たい水が、泥と熱を丁寧に奪っていく。
彼はタオルで手を拭うと、ついに作業台の「黒い石」を見つめた。
「始めるか」
――コン、コン、コンッ。
湖畔の静寂を破る音。
調子を崩された男が、不機嫌そうにモニターに視線を送る。
そこには見覚えのある姿。
白銀竜を従えた竜騎士、ベルカ。
そしてその背後、辺境伯アリストン。
「私の不徳ゆえ、貴公の名を存じ上げぬ非礼を許してほしい。……王国はどうなっても構わない。だが、私の愛する者たちには、明日も今まで通りの『普通』を与えていただきたい」
「断る。帰れ。以上だ」
当然の返答。
だが、それさえ、造作もなく拾いとる。
「バルトロメウス」
――突然の静寂。
「我が始祖。彼が遺した三千年前の書記に、貴公にだけ宛てて綴った直筆の手記を見つけましてな」
◇ ◇ ◇
湖畔の木々が震えるような、静かな葉音が流れる。
「手記を渡す代わりに、私の家族を、取り計らって頂きたい。その助力をする準備もある」
困惑、長い沈黙。
カメラの向こうで、その名を反芻している様子が、手に取る様にわかった。
静かにゴーレムが扉を開ける。
白銀竜の祈るような視線に気付いていた。
『……いいだろう』
辺境伯は肩を撫で下した。
その足元。
ぽつんと、辺境伯の前に佇む青白い硬質。
辺境伯は、真っすぐに視線を落とすと、ミニチュアサイズのミスリルゴーレムを見据える。
彼は白銀竜の翼膜を指さしている。
辺境伯も、その歪な鱗を理解している。
――ゴーレムの純粋な瞳。
「……重ねて非礼を詫びる。治療を頂きながら、簒奪者に屈した」
壊れた仮面が抵抗を止めた。
娘を愛する父親は、悲しい表情をした。
「私も悔しいよ。あの子とベルカは娘の憧れでね。……綺麗に治そうとしてくれたことは、知っているよ。……私の実力不足だ、すまない」
アリストンは、静かに印章指輪を外すと、差し出した。
「この密約に署名したのは『私』であって、王弟ではない。……契約が果たされるなら、好きに使って構わない」
ゴーレムは、指輪を握りしめる。
見た目よりずっと、それはずっと重かった。
辺境伯の道理を学ぶと、深く一礼をした。
「……感謝する。では、次は王国の敗北後に、再び相まみえよう」
アリストンは去り際、ふと思いついたように、だが極めて事務的な口調で問いかけた。
「差し支えなければ、今後の計画を伺っても?」
しばしの沈黙。
――『ガリ、ガリガリッ』。
静寂の中、硬いペン先が質の良い設計紙を削る、乾いた音だけが響く。
ゴーレムが再び現れると、それをアリストンへと差し出した。
アリストンが受け取ったのは、ただのメモ書き。
そこには、終焉を告げるにしてはあまりに簡潔な、「作業予定」だけが並んでいた。
「……ッ、……失礼する」
竜騎兵が空を舞うと、夜空に消えた。
男は一息ついた。
再び視線を合わせた先、世界を造り直すための「柱」たち。
最古の迷宮を楔とし、地脈を養う土壌が世界を固定した。
不死鳥の卵が熱を灯し、世界樹の朝露が潤いを与え、風詠みの生糸が空に息吹を巡らせる。
そして、魂を繋ぐ鎖が、この完成された理に「緩やかな死」を刻んだ。
最後に、男がノス・グラードの黒い石を玉座へ沈める。
――カチリ。
その一音で、三千年の停滞は終わった。
黒い石は、時を遡るように輝きを増し、かつての『白い石』へと姿を変えていく。
「……真っ白な世界だ」
――ピキッ。
静寂を裂いたのは、硬い殻が弾ける微かな音。
作業台の片隅で、眠っていた世界樹の種が一つ、瑞々しい緑の産声を上げた。
鋼鉄の壁に囲まれたワンルームが、ただの部屋ではなく、一つの「独立した世界」として定義された瞬間だった。
ワンルームの外壁に醜くへばり付いていた『ヒル』が、狂喜にのたうち回る。
獲物はもはや、ただの鉄の箱ではない。産まれたての、純真無垢の「世界」だ。
ヒルは鋼鉄に牙を立て、溢れ出す無垢な魔力を、喉を鳴らして貪り始めた。
風船のように膨らみ、はち切れんばかりの魔力に酔いしれた『ヒル』は、やがて法悦の溜息をつくと、満足げにワンルームから剥がれ落ちていった。
バラバラに解体され、三千年の間、魔法を動かすための「都合の良い部品」として使い潰されていた創造主の断片が、地に落ちていく。
新たに世界が創造された瞬間を啜ったそれは、失われた自らの姿を強引に繋ぎ合わせ、再現しようとしていた。
かつて世界を愛した美しい容貌は、無残に掛け違えられていた。
切り刻まれた数千の断片を、『ヒル』の蠢く黒い粘液が、縫合糸のように強引に繋ぎ止めている。
皮膚の裂け目からは、かつて啜らされていた世界樹の木屑がこびり付いていた。
人間の渇望によって貶められた神体は、今や、人間の絶望を唯一の糧にして蘇った。
そして、不完全な創造主が再び、大地に降り立った。
慈愛や調和など、そこには欠片も存在しない。
絡みついた黄金の長髪から覗くその赤黒い瞳には、自身を「部品」へと貶めた人間たちへの、剥き出しの憎悪だけが宿っていた。
その憎悪に導かれ、一部のヒルたちは黒い津波となり、三千年の飢えを抱えて地表へと溢れ出す。
今度は自分たちが食い尽くすために。




