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期限はとうに過ぎた

男がページを繰るたび、パキパキと硬質な音が室内に響く。


剥がれ落ちたのは、太古の沈没船が数千年にわたって抱き続けてきた、深海の塩。

鉄錆の混じった潮の匂いが立ち上る。


箱舟から引き揚げられた、沈黙の証言者。

ノス・グラード伝承の「原典」。


――ある創造主は、世界を創った。

だが、見届ける者がいないその世界は、存在を証明できなかった。


創造主は、観測者の原型を創った。

だが、魂を持たぬその男の瞳は硝子玉のように濁り、世界の全ては映せなかった。


創造主は、魂を持つ人間を創った。

だが、渇望という名の不純物(魂)を混ぜ込まれた彼らは、貪るように世界の全てを瞳に焼き付けた。


飢えを埋めるための祈りと略奪が、文明という名の轍を世界に刻み始めた。


ゴーレムはその筆致を、瞳に焼き付けている。


――人間は創造主を引き摺り下ろした。

最後まで疑われることなく切り刻むと、人間はその全てを瞳に映した。


その滴る順番を違えると輝く奇跡、それを「魔法」と称して盗み取った。


「ああ、その通りだ。お前の行動は予測できない」


――盗んだ光には影が差した。

魔法の残り滓から生じた「黒い石」を拾うと、男が災厄を引き起こす。


人間は自らの「弱さ」を認めて団結すると、巨大な魔術の剣で男を貫いた。


かくして、忌むべき石は「平和の象徴」へと塗り替えられ、男は永遠の封印へと沈められた。


「……傑作だな、酷い嘘だ。封印されたことになっているのか」


男はページを捲る。


――時を超えて世界樹が黄金を実らせた。

大地が崩壊すると王国は巨大な翼を開き、約束の地へと還りゆく。


祈りの声も、収奪の響きも、もはや聞こえない。

地上から「人間」の足音は、永遠に途絶えた。


「ああ、下らない。……だが懐かしいな、バルトロメウス。……時間だ、返してもらう」


男は立ち上がると、モニターを見る。

それは涎を垂らしている。


――ガコン!


蝋引き紙に包まれたサンドイッチが転がる。

狂戦士は、それに獣のような勢いで飛びついた。


黒ずんだ古代麦の断面には、熱で透き通ったチーズが雫となって滴り、鮮やかなレタスの緑をじりじりと熱で侵食している。


『うめえ……、なんだよこれは。……なあもう許してくれよ、もっとくれよ』


「取引だ。ある『物』を回収してきたら、……やる」


『ああ、やるから……早く出せッ』


男は溜息を吐き、レバーを捻った。


「一言も喋るな。ただ、回収しろ」


ゴーレムは、たった一片のパンのために魂を売った狂犬を静かに見つめていた。


隠蔽されたワンルームは狂戦士を屋根に乗せ、王宮へと向かう。

それは王国の終わりを告げる静かな足音。


世界で最も安全な場所。

その上空。


男は鋼鉄の扉の前に立ち、無造作に手のひらを突き出した。

標的は、王宮のすべてを支える巨大な「基部」。


直後、世界が軋んだ。


物理の理が書き換えられ、一階部分を構成する数万トンの石材が、逃げ場を失った獣のように悲鳴を上げる。


鼓膜を突き刺す砕岩音。

石柱は、まるで見えない巨人の手に捻られた濡れ雑巾のように、無残に捩じ切れていく。


支えを失った二階以上の階層が、自重という名の凶器となって真下へ牙を剥く。

天が落ちてきたかのような、大地を揺るがす地響き。


男の手のひらには、今や小石ほどの大きさにまで凝縮された「かつての栄華」が収まっていた。

大広間も、謁見の間も、そこにあったはずの歴史も。


男は指先に残るかすかな熱を冷ますように、フッと息を吹きかけ、それをゴミのように放り捨てた。


近衛騎士団が即座に現れたが、彼らは抜剣することすら忘れていた。


目の前の理解不能な暴力に、ただ圧倒されていた。


『交渉だ、王冠を出せ』


ただの脅迫。


瓦礫の奥から、煤に汚れながらも一点の曇りもない衣装を纏った王族が現れる。


国王ウィリアム・フォン・レギールが、静かに歩み出た。

その両翼を支える、辺境伯と重装騎士。


王は混乱する騎士たちを制し、一階層ほど低くなった王宮の縁に立つ。

王としての重厚な威厳が、未だ衰えていない。


「名乗らぬ略奪者よ。貴殿が求めるのは、この王土の命か、それともこの忌まわしき虚飾か」


ウィリアム王は迷うことなく、自らの頭上に掲げられた黄金の王冠を外した。


それは、三千年の嘘を積み重ねてきたはずの重み。

だが、その重量は昨晩、既に失われた。


屋根を蹴り飛ばし、キリアンの巨躯が躍り出る。

音を立てて瓦礫の山に着地する。


「キ、キリアン兄上……ッ!」




◇ ◇ ◇




裏返った叫びが、喉を焼く。

ヴァルターは、もつれそうになる足を無理やり前へ叩きつけた。


「兄上ッ! 王宮にお戻り下さい! いま――」


「……悪いな、喋るなって、言われてんだよ」


ウィリアム王が前に出る。


「……どういうつもりだ、キリアン」


「あ? うるせえなお前」


狂戦士――第三王弟キリアンは王冠を引ったくる。


「うふふ、それはもう、貴方達の物じゃないのよ?」


鼓膜を甘く撫でるような、残忍なまでの美声。

影の中から滲み出すようにして、その女――カサンドラが姿を現す。


――バキッ


キリアンは埋め込まれた「黒い石」を無造作に指で抉り取った。


「……ッ、……まあいいわ、下らない飾りよ」


カサンドラは不快感を飲み込み、勝ち誇った笑みを浮かべる。


彼女の手がキリアンの胸元に触れ、その魂を縛る「鎖」を、愉悦とともに一気に引き抜いた。


――ジャラ……。


最初は、細い金属音だった。だが。


――ジャラララララッ!!


鎖が鳴る。

一本ではない。十、百、千。


キリアンの胸の空洞から、どす黒い鉄の奔流が噴き出した。


「え、なによ……これ、どうなっているの……!?」


噴き出す鉄の臭い。


視界を埋め尽くす黒い蛇の群れ。カサンドラの指先に、かつて感じたことのない「底なしの重圧」がのしかかる。


彼女の右腕が、耐えがたい悲鳴を上げた。

たった一人の人間が、世界を素手で持ち上げようとする無謀。


掴む右手の感覚は、すでに無かった。


――限界。


カサンドラの腕は逆らうことを止め、鎖を放した。


「あ? これが欲しいのか?」


鼓膜を震わせたのは、あまりに無機質で、退屈そうな声。


硬直しているカサンドラの頭へ、黒い石を剥ぎ取った「残骸」――王冠が乱暴に乗せられた。

黄金の縁で視界が遮られる。


キリアンが飛び上がると、突如として姿が消えた。

不可視のワンルームは、王国に響き渡る絶望の叫びを置き去りにして、大空を飛翔する。


キリアンが屋根の上で狂ったように笑い、瓦礫の山となった王宮が小さくなっていく。


男は眉一つ動かさず、協力者に渡す瓶を鉄の箱に詰め込む。


ゴーレムがミニチュアのタンスから久しぶりの法被と「特売」のハチマキを取り出す。


そこは、静かな湖畔。

レバーを捻ると、瓶が山のように射出される。


それは、ワンルームが完全な自給自足を達成するまでに作り溜めていた、この世界で唯一「腐敗していない」出来立ての料理たち。


キリアンは両腕に大量の瓶を抱えると、下卑た笑いを湖畔に響かせた。


その笑い声が嘘のように、すすり泣くような風が、半壊した王宮の回廊を吹き抜けていく。


毟り取った「黒い石」の跡が、虚ろな穴となって彼女を嘲笑う。


「……片付けて」


王冠をウィリアム王に押し付けた。

振り返りもせず、彼女は瓦礫の山へと消えていく。


その背中は、勝利者のそれというよりは、呪いを背負った聖女のように孤独だった。

アリストンは、その揺れる背をじっと射抜く。


(……キリアンはあちら側に付いていたか)


視線を戻せば、昨日までの惨劇を拭い去ったかのように、傲慢な王の面構えを取り戻した実兄。


そしてその傍らで、奥歯を噛み締め、屈辱を飲み込みながら影のように控える実弟。


値踏みするように、去りゆくカサンドラの輪郭を網膜に焼き付ける。


(兄上も、あの簒奪者も、渡り合えないであろう。……ここまでか)


脳裏をよぎったその思考が、最後の一線を断ち切った。


アリストンは深々と、自らの誇りをへし折るように頭を垂れる。

視界に飛び込んできたのは、見慣れた白大理石の床。


かつては鏡のように己を映し出したその光沢は、今はただ、濁った冷石としてそこにある。


映るべき自分の顔さえ見えない。


その「無」が、かえって彼に冷酷な自由を与えた。

顔を上げたとき、その瞳から迷いは消え失せていた。


廊下に整列する、魂を囚われた抜け殻の騎士たち。

その冷たい甲冑の脇を、彼は呼吸を乱すことすらなくすり抜ける。


足を踏み入れれば、謀反の意思ありと見なされる「禁忌の公文書館」。


ギチ、と一歩踏み出すたび、石床の冷たさがブーツを抜けて骨まで凍えさせた。


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