隠しすぎ
この世界の最底辺は、数え切れないほどの巨大なヒルによって埋め尽くされていた。
ワンルームにへばり付いていたヒルたちが、一匹、また一匹と、未練を断ち切るようにその身を剥がしていく。
漆黒の身体を震わせては、深淵の底へと静かに沈んでいった。
その様はあたかも、この地獄の果てまで己を送り届けてくれた男へ、最敬礼を捧げているようにも見えた。
そう、これは蹂躙ではなく、世界を喰らう者たちの『還送』。
二度と戻れぬはずの故郷へと辿り着いた、奇跡の再会劇だった。
漆黒のカーテンが左右へ割れ、道が開く。
その「最奥」から現れたのは、それは一隻の戦艦を思わせる巨躯。
女王。
数十メートルに及ぶ漆黒の肉体。
その先端にある口が、ワンルームを覗き込むようにして静止する。
──パク、パク
壁の向こう、手の届く距離で、肉厚な粘膜が蠢いている。
それは、言葉を奪われた創造主が、唯一許された手段で必死に「何か」を伝えようとしているようでもあった。
「気持ち悪いな」
男の毒づきを余所に、女王は慈しむかのように体を折りたたみ、その身を小さく丸める。
彼女が道を示すように身を退けた瞬間、これまで暗闇に覆い隠されていた「真実」がむき出しにされた。
そこから放たれたのは、光すら窒息するはずの深淵にあって、世界を塗り潰さんばかりの眩い輝き。
周囲を大小さまざまなヒルが埋め尽くし、淀んだ魔力の海を形成するその中心に、それはあった。
男は黙ってワンルームを前進させ、その淡い光の渦へと突っ込む。
白いあぶくを掻き分けると、抜けるような蒼穹。
昇ったばかりの清々しい朝日、徹夜した眼が思わず閉じる。
眼を少しずつ広げると、見上げた先にあるのは、安らぎを与える雲ではない。
天を埋め尽くすのは、重力に逆らってのたうつ膨大な水塊と、そこを苗床とする無数のヒルの群れ――『脈動する闇の天蓋』だった。
濡れた皮膚が擦れ合う「チョッ、チョッ」という微かな咀嚼音が、空から降る星影の代わりに世界を支配していた。
それは『夜』という名の天井だった。
見上げれば、天を覆っているのは黒く塗り潰された狂気の海。
霧が晴れるように、視界が上へと引き上げられる。
孤島に根を張り、世界の屋根を突き破らんとする巨大な塔。
――世界樹。
首が折れるほど仰いでも、その頂を見ることは叶わない。
雲がその中腹を帯のように巻き、遥か上空で枝が天を支えている。
「……ああ、バルトロメウス。こんな所に隠したのか。……道理で、いくら深淵を暴いても辿り着けないわけだ」
男は口角を上げると、世界樹へと機体を寄せた。
葉の一枚一枚に宿る朝露。
それこそが、男が求めていた「世界の断片」――『原初の水』であった。
小さな島に降り立つと、男は扉を開いた。
肺を洗うような、一切の穢れのない空気がそこには満ちていた。
踏みしめた大地の感触は、罪悪感を覚えるほど、無垢だった。
「おい、ここは、どこだ?」
足元から響くキリアンの声。
「お前たち人間の「動力室(魂)」だ。深淵の底に隠されていたな」
「……はあ? お前、頭、大丈夫か?」
足元に広がる半透明の膜が、ぶよぶよと不気味な笑い声を立てる。
◇ ◇ ◇
ゴーレムは瓶を片手に、慎重に枝に飛び乗る。
朝露を落としてはならない。
枝を伝うその無機質な瞳は、かつてないほど明るく発光していた。
世界樹の若葉。
その先に滴る一滴の水に狙いを定めた。
その葉を持ち上げると、伝う雫が、緑の転がる宝石のように乱反射する。
そして、ついにそれを瓶に捕まえた。
ゴーレムはその不純物が無い透き通る水滴の採取を続けた。
世界の底を探し求めていたはずが、辿り着いたのは世界の中心、あるいは「裏返しの聖域」。
そこにあるのは、小さな太陽と世界樹。
そして、空の代わりに世界を覆う「海」だけであった。
男は根元の葉に溜まった朝露を一口、含んだ。
喉を焼くような魔力ではなく、ただ静かに、空っぽだった身体が根源から満たされていく感覚。
肺腑を抜ける涼やかな風が、泥のように溜まっていた疲労を霧散させた。
「……少し、ミネラルが強すぎる。珈琲には不向きだな」
男も瓶を取り出し、採取を始める。
その傍らで、音もなく『因果の羅針盤』の針が弾け飛んだ。
もう二度と迷わない。
針は不要。
指し示す針ごと壊れた、それが指し示す、最後。
「おい、腹と背中がくっつきそうだぞ……、あ?」
半透明の膜が見つけたのは、地面に転がる「塊」。
それはもはやこの世界では発芽することのない、世界樹の種子。
――ボリッ、ボリボリッ!
半透明の膜の中で、砕かれた種子が白光を放つ。
次の瞬間、キリアンの「膜」が内側から猛烈な勢いで膨張を始めた。
「悪くねえ……、ん? なんだ?」
――バコン!
不気味な音が響き、膜から「腕」や「脚」が飛び出していく。
男は採取の手を止めると、姿を取り戻しつつあるキリアンを突き放す。
「それは最終在庫だ、やめろ」
男は淡々と吐き捨てると、床に散らばった「それ」を一つずつ拾い上げた。
キリアンがその太い腕を、自身でも確かめるように握り込んでいた。
膨れ上がった筋繊維が、鋼鉄の束が擦れ合うようなミシミシと音を立てると、作業に加わった。
――地道な作業。
半日をかけた採取の末、男たちはついに『最初の水』を掴み取った。
決して枯れず、淀まず、ただ在り続ける不変の水。
それが土壌と朝露に混ざり合った瞬間、ワンルームは「ただの箱」であることをやめた。
「世界樹の葉の朝露」と「地脈を養う土壌」――この二つを手に入れた今、ワンルームは外界からの補給を一切必要としない。
男は、拾い集めた在庫を握りしめたまま、背後のドアに鍵をかける。
ガチャリ、という音。
それは単なる施錠ではない。
外界という名の地獄を切り捨て、この世界として自立した、独立宣言の響き。
「用は済んだな」
閉じた独自体系の世界へと進化した。
男は帰還を決意する。
キリアンが屋根の定位置にへばり付いた。
再び空の海へと突っ込み、ヒルを掻き分けていく。
女王が名残惜しそうに伴走するが、男は一瞥もくれない。
――バンッ!
乾いた激突音。
モニターを確認すると、一匹のヒルが、ワンルームの出入り口を塞ぐようにへばり付いていた。
男は困惑して後方を確認するが、そこにいた群れは一様に震え、女王ヒルすらも丁寧に頭を下げている。
「……何だ」
男が呟くと、ゴーレムが首を捻る。
ガンガンと、扉に張り付いたヒルが装甲を叩く。
『ア、ア、ダア、ウッ……』
それは群れの中で唯一、旅路を終えることを拒んだ異常個体。
『あ? お前、……新入りか?』
キリアンの瞳に宿る圧倒的な侮蔑。
笑い声を上げながら、無様なヒルを見下ろしていた。
「勝手にしろ」
男は浮上を開始した。
風詠みの推力は、水圧から解放されるにつれ圧倒的な加速度を誇っていく。
たまたま居合わせた単眼の怪物を、キリアンが無造作に吹き飛ばして駆け抜ける。
ワンルームという名の弾丸が深淵を吹き飛ばす。
「魔導士との約束だ、いくぞ」




