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18/22

畑仕事は忙しい

大海原に到着するまでの、僅かな時間。

作業台の上の木箱を見つめる。


中に収められているのは、「地脈を養う土壌」。


それは土というより、黒い宝石を細かく砕き、原初の湿り気を与えたような、重厚で艶やかな「命の塊」であった。


その黒土をココットへ移す。

男はその中心に「名もなき薬草」の種を落とし、霧吹きを絞る。


その刹那。


鼓膜を弾いたのは、硬質な「亀裂」の音だった。

視界の端で、ココットに盛られた黒土がボコりと不自然に盛り上がる。


男が息を呑むより早く、土の表面が内側からの圧力に耐えかね、ざらりと崩れ落ちた。


――パチッ


突き出したのは、瑞々しくも鋭利な、翠の槍。


ギチギチと、植物にあるまじき肉厚な摩擦音を立て、冷たい蔓は蛇のように男の腕を這い、複雑に絡み合う葉が視界を覆い尽くした。


急激な光合成が作り出した湿った風が、男の頬を撫で抜けていった。


「……これは、本当に素晴らしい」


掠れた声が、湿度を帯びた空気に吸い込まれていく。


男は目を閉じ、肺いっぱいに「森」を吸い込んだ。

換気扇が空回りする乾いた音は、瞬く間に深緑の静寂に掻き消された。


数千の葉が擦れ合う微かな囁き。


男の部屋はついに、かつて男が命からがら生還した絶望の海域。


だが、もうあの時の空飛ぶワンルームではない。

深淵のヒルが密に絡み合い、装甲そのものが絶え間なく蠕動する、正体不明の「肉塊のワンルーム」。


「行くぞ」


ゴーレムはもう、シートベルトを捨てた。


――激突。


衝撃波が海面を叩き割り、直後、「風詠み」の推進器が絶叫を上げて逆噴射を開始した。


鼓膜を水圧の鉄槌が打ち据える。


泡の牢獄を突き抜け、機体は「墜落」に近い速度で深淵へと突き進む。


視界を過るのは、銀光を散らして逃げ惑う魚群。


数百年の時を生きる海龍さえも、深海の青を汚して沈み来る「肉塊」を前に、その誇り高き首を縮め、土砂を巻き上げて深淵の亀裂へと逃げ込んだ。


それは、海洋という生態系が初めて経験する、絶対的な「異物」への拒絶反応だった。


ゴーレムは最後のモニターの電源を入れる。


水圧で顔面が波打ち、目玉が飛び出しそうなほど見開かれたキリアンの形相が映った。


カメラに向かって、余裕を見せ付けるかのように、口角を吊り上げ、親指をゆっくりと立てた。


だが、その親指は凄まじい水圧で、嫌な角度に曲がり始めている。


――水深200メートル。


――水深500メートル。


――水深1000メートル。


暗闇の向こうから、八つの巨大な青白い影が躍り出た。


四対の異形のあしを持つ、あの時の悪夢だ。

だが、その一対はかつての戦いで無残に失われていた。


――ウォオオォォオン!!


憎悪と歓喜が混濁した咆哮。


怪物は巨大な肢を振り回し、肉の塊を捕食せんと大顎を広げた。


剥き出しの真っ赤な歯茎、喉奥までびっしりと生え揃った黄ばんだ牙。


その両腕がワンルームを鷲掴みにする。

その瞬間、重厚な衝撃波が室内を駆け抜けた。

だが、それは怪物の攻撃によるものではない。


『外装』であるヒルが自律的に旋回し、悍ましい筋肉の螺旋を形成――自らへの無礼な接触を拒絶し、怪物の顔面を無造作に、全力で叩き伏せた。


肉と肉が超高圧下で激突する、重く濡れた破裂音。

あまりに冷徹な「拒絶のビンタ」。


――ヴォアアァァアン!?


怪物は衝撃で深海へと叩き出され、驚愕に瞳を揺らしながら距離を取る。


だが、その眼に宿る怨念は消えない。

大きく弧を描き、再び醜悪な口を広げて突進してくる。


モニターを過ぎる、怪物同士の凄惨な争い。

だが、男はその「砂場の子供の喧嘩」など、視界に映らない。


「欠片は、あと三つ」


原風景を除く、残る欠片。


『世界の終着点』――かつてのノス・グラード伝承に記された、王の王冠に嵌め込まれた黒石。

そして、カサンドラが持つ『魂を繋ぐ鎖』。


「石は奪えばいい。鎖もだ」


だが、どうしても最後の一つ、根ではない『世界樹』の所在だけが掴めない。


男は、操舵輪の傍らで「真下」を指し続ける因果の羅針盤を睨みつけた。




◇ ◇ ◇




――水深2000メートル。


前方に、城壁のような触手を伴う巨大な『単眼』が浮かび上がった。


絡め取ろうとする触手の中で、ヒルが狂ったように暴れ、肉を削ぎ、骨を断つ。海中が鮮血の霧で濁り、視界を奪う。


やがて、格の違いを悟ったのか。

単眼は触手を弾けるように解放すると、細められたまま、静かに暗黒の底へと沈んでいった。


もはや、生物の気配はない。

一平方センチメートルに数百キロもの重圧がかかる、物理的な地獄。


上方では、あの四対の異形が自らの重圧に耐えきれず、断末魔を上げていた。


男の目の当たりにする奇跡。

室内を漂うのは、地脈の土と「麦」の芳醇な香り。


次のココットから際限なく生い茂る黄金の稲穂――三千年前の古代麦を、一粒の零れも許さぬ手つきで丁寧に刈り取っていく。


――水深5000メートル


いつの間にか、男に外界を見せるかのように、ヒルがモニターを避けて退いていた。


そこにあったのは、生物的な温もりを一切排除した、無機質な岩盤。

光源が照らし出した、終わりなき暗闇の底。


モニターに映るキリアンは、膨大な水圧にやられて平たく伸びている。


口や鼻から漏れ出す貴重な酸素を、必死に「手」で塞いでいた。

子供のような、あまりに無力で必死な姿。


その眼光は『まだいける』と雄弁に見開いていた。

だが、『因果の羅針盤』は非情なまでに「その遥か先」を指し続けている。


――カツン、カツン、カツン……。


ヒルの石突きが、一定のリズムで岩盤を叩いた。それは誘導か、あるいは未知の領域への期待に震えているのか。


「……闇雲に進むよりは、マシか」


男は冷徹に舵を切り、光を拒絶する荒野を進む。

だが、前方の地平が突如として「喪失」した。

世界の境界線が、断崖となって虚無に溶けている。


――絶壁。


ここまでの深度すら絶望に叩き落とす新たな深度。

男は一秒も迷うことなく、深淵の底の、さらなる底へと機体を滑らせた。


――オアア……、オ、ア……。


背後から、ひび割れた咆哮が届く。

執念深く追ってきたかつての宿敵も、その動きは見る影もなく鈍い。


物理的限界を超えたこの領域の「圧」に、その肉体は適応できなかった。


かつて男を死の淵まで追い詰めたその瞳は、今やただの「取り残された敗北者」として、闇へ消えていくワンルームを見送ることしかできない。


怪物は悟った。


自分は深淵の覇者などではなく、その入り口で泥を啜るだけの「浅瀬の住人」に過ぎなかったのだと。


――その瞳に逃れようのない「死」が焼き付く。


キリアンの口角が、緩やかに、残酷な弧を描いた。

肺に溜まった空気が、嘲笑とともに盛大に放たれる。


漆黒の静寂を裂く、銀色に輝く気泡の群れ。

その一粒一粒に宿る生命の熱が、怪物の鱗を焼き、魂を逆なでした。


かつての支配者は、ただ惨めに身を震わせながら、重力に逆らうように水面へと逃げ延びていった。


もはや「海」という言葉では形容できない、濃密な魔力の底。


その断崖の中腹。鋭く突き出した岩棚に、場違いな「それ」は引っかかっていた。


「……ほう。こんなところに」


光源が照らし出したのは、生物ではない。

巨大な人工物。


幾千年の沈黙の極圧がもたらした防腐処置。

そこには、地上の歴史からとうに消失したはずの、超古代の遺構――巨大な沈没船が眠っていた。


――水深12,700メートル。


「記念に、ちょうどいい。……全体の半分にも満たないか」


男はヒルが発する「先へ急げ」という急かしの震動を無視し、太古の残骸へと進めた。


船の位置、そして水圧による圧縮率。

大体の距離さえ把握できれば、男には十分だった。


ゴーレムは鋼鉄の箱を飛び出し、超高圧の海へと躍り出た。


屋根を一瞥する。

へばり付く、キリアン。


もはや、水圧でエイのようにペシャンコになった顔、或いはその名残を押し付けている。

白濁した眼球が壁の向こうの快適な空間を呪う。


『部 屋 に 入 れ ろ』


名伏しがたきその表情を見ると、ゴーレムは半歩、引いた。

その瞳には、もう余裕は消え去っていた。


沈没船が片手で持ち運べるほどの「塊」へと凝縮されると、回収して帰還した。


水気を払い、作業台に座るゴーレム。

男は手のひらサイズにまで圧縮された未完成の沈没船を手に取り、布で丁寧に拭う。


「完成させるつもりは最初から無かった、……そうだろう」


再び、ヒルの脈動が強まる。

男はさらに下へと潜航を続けた。

時刻は深夜。


――水深16,000メートル。


「……深すぎるな」


切り立った崖が、すり鉢の底へ向かうように収束していく。


まるで、世界の最奥という名の喉元へ吸い込まれているようだ。


やがて、真の底が見えた。


――ガコン。


光源が射出され、永遠に近い暗闇を引き剥がす。


だが、その光を避けるように、底一面が「蠢いた」。


そこに居るのは『夜』。


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