畑仕事は忙しい
大海原に到着するまでの、僅かな時間。
作業台の上の木箱を見つめる。
中に収められているのは、「地脈を養う土壌」。
それは土というより、黒い宝石を細かく砕き、原初の湿り気を与えたような、重厚で艶やかな「命の塊」であった。
その黒土をココットへ移す。
男はその中心に「名もなき薬草」の種を落とし、霧吹きを絞る。
その刹那。
鼓膜を弾いたのは、硬質な「亀裂」の音だった。
視界の端で、ココットに盛られた黒土がボコりと不自然に盛り上がる。
男が息を呑むより早く、土の表面が内側からの圧力に耐えかね、ざらりと崩れ落ちた。
――パチッ
突き出したのは、瑞々しくも鋭利な、翠の槍。
ギチギチと、植物にあるまじき肉厚な摩擦音を立て、冷たい蔓は蛇のように男の腕を這い、複雑に絡み合う葉が視界を覆い尽くした。
急激な光合成が作り出した湿った風が、男の頬を撫で抜けていった。
「……これは、本当に素晴らしい」
掠れた声が、湿度を帯びた空気に吸い込まれていく。
男は目を閉じ、肺いっぱいに「森」を吸い込んだ。
換気扇が空回りする乾いた音は、瞬く間に深緑の静寂に掻き消された。
数千の葉が擦れ合う微かな囁き。
男の部屋はついに、かつて男が命からがら生還した絶望の海域。
だが、もうあの時の空飛ぶワンルームではない。
深淵のヒルが密に絡み合い、装甲そのものが絶え間なく蠕動する、正体不明の「肉塊のワンルーム」。
「行くぞ」
ゴーレムはもう、シートベルトを捨てた。
――激突。
衝撃波が海面を叩き割り、直後、「風詠み」の推進器が絶叫を上げて逆噴射を開始した。
鼓膜を水圧の鉄槌が打ち据える。
泡の牢獄を突き抜け、機体は「墜落」に近い速度で深淵へと突き進む。
視界を過るのは、銀光を散らして逃げ惑う魚群。
数百年の時を生きる海龍さえも、深海の青を汚して沈み来る「肉塊」を前に、その誇り高き首を縮め、土砂を巻き上げて深淵の亀裂へと逃げ込んだ。
それは、海洋という生態系が初めて経験する、絶対的な「異物」への拒絶反応だった。
ゴーレムは最後のモニターの電源を入れる。
水圧で顔面が波打ち、目玉が飛び出しそうなほど見開かれたキリアンの形相が映った。
カメラに向かって、余裕を見せ付けるかのように、口角を吊り上げ、親指をゆっくりと立てた。
だが、その親指は凄まじい水圧で、嫌な角度に曲がり始めている。
――水深200メートル。
――水深500メートル。
――水深1000メートル。
暗闇の向こうから、八つの巨大な青白い影が躍り出た。
四対の異形の肢を持つ、あの時の悪夢だ。
だが、その一対はかつての戦いで無残に失われていた。
――ウォオオォォオン!!
憎悪と歓喜が混濁した咆哮。
怪物は巨大な肢を振り回し、肉の塊を捕食せんと大顎を広げた。
剥き出しの真っ赤な歯茎、喉奥までびっしりと生え揃った黄ばんだ牙。
その両腕がワンルームを鷲掴みにする。
その瞬間、重厚な衝撃波が室内を駆け抜けた。
だが、それは怪物の攻撃によるものではない。
『外装』であるヒルが自律的に旋回し、悍ましい筋肉の螺旋を形成――自らへの無礼な接触を拒絶し、怪物の顔面を無造作に、全力で叩き伏せた。
肉と肉が超高圧下で激突する、重く濡れた破裂音。
あまりに冷徹な「拒絶のビンタ」。
――ヴォアアァァアン!?
怪物は衝撃で深海へと叩き出され、驚愕に瞳を揺らしながら距離を取る。
だが、その眼に宿る怨念は消えない。
大きく弧を描き、再び醜悪な口を広げて突進してくる。
モニターを過ぎる、怪物同士の凄惨な争い。
だが、男はその「砂場の子供の喧嘩」など、視界に映らない。
「欠片は、あと三つ」
原風景を除く、残る欠片。
『世界の終着点』――かつてのノス・グラード伝承に記された、王の王冠に嵌め込まれた黒石。
そして、カサンドラが持つ『魂を繋ぐ鎖』。
「石は奪えばいい。鎖もだ」
だが、どうしても最後の一つ、根ではない『世界樹』の所在だけが掴めない。
男は、操舵輪の傍らで「真下」を指し続ける因果の羅針盤を睨みつけた。
◇ ◇ ◇
――水深2000メートル。
前方に、城壁のような触手を伴う巨大な『単眼』が浮かび上がった。
絡め取ろうとする触手の中で、ヒルが狂ったように暴れ、肉を削ぎ、骨を断つ。海中が鮮血の霧で濁り、視界を奪う。
やがて、格の違いを悟ったのか。
単眼は触手を弾けるように解放すると、細められたまま、静かに暗黒の底へと沈んでいった。
もはや、生物の気配はない。
一平方センチメートルに数百キロもの重圧がかかる、物理的な地獄。
上方では、あの四対の異形が自らの重圧に耐えきれず、断末魔を上げていた。
男の目の当たりにする奇跡。
室内を漂うのは、地脈の土と「麦」の芳醇な香り。
次のココットから際限なく生い茂る黄金の稲穂――三千年前の古代麦を、一粒の零れも許さぬ手つきで丁寧に刈り取っていく。
――水深5000メートル
いつの間にか、男に外界を見せるかのように、ヒルがモニターを避けて退いていた。
そこにあったのは、生物的な温もりを一切排除した、無機質な岩盤。
光源が照らし出した、終わりなき暗闇の底。
モニターに映るキリアンは、膨大な水圧にやられて平たく伸びている。
口や鼻から漏れ出す貴重な酸素を、必死に「手」で塞いでいた。
子供のような、あまりに無力で必死な姿。
その眼光は『まだいける』と雄弁に見開いていた。
だが、『因果の羅針盤』は非情なまでに「その遥か先」を指し続けている。
――カツン、カツン、カツン……。
ヒルの石突きが、一定のリズムで岩盤を叩いた。それは誘導か、あるいは未知の領域への期待に震えているのか。
「……闇雲に進むよりは、マシか」
男は冷徹に舵を切り、光を拒絶する荒野を進む。
だが、前方の地平が突如として「喪失」した。
世界の境界線が、断崖となって虚無に溶けている。
――絶壁。
ここまでの深度すら絶望に叩き落とす新たな深度。
男は一秒も迷うことなく、深淵の底の、さらなる底へと機体を滑らせた。
――オアア……、オ、ア……。
背後から、ひび割れた咆哮が届く。
執念深く追ってきたかつての宿敵も、その動きは見る影もなく鈍い。
物理的限界を超えたこの領域の「圧」に、その肉体は適応できなかった。
かつて男を死の淵まで追い詰めたその瞳は、今やただの「取り残された敗北者」として、闇へ消えていくワンルームを見送ることしかできない。
怪物は悟った。
自分は深淵の覇者などではなく、その入り口で泥を啜るだけの「浅瀬の住人」に過ぎなかったのだと。
――その瞳に逃れようのない「死」が焼き付く。
キリアンの口角が、緩やかに、残酷な弧を描いた。
肺に溜まった空気が、嘲笑とともに盛大に放たれる。
漆黒の静寂を裂く、銀色に輝く気泡の群れ。
その一粒一粒に宿る生命の熱が、怪物の鱗を焼き、魂を逆なでした。
かつての支配者は、ただ惨めに身を震わせながら、重力に逆らうように水面へと逃げ延びていった。
もはや「海」という言葉では形容できない、濃密な魔力の底。
その断崖の中腹。鋭く突き出した岩棚に、場違いな「それ」は引っかかっていた。
「……ほう。こんなところに」
光源が照らし出したのは、生物ではない。
巨大な人工物。
幾千年の沈黙の極圧がもたらした防腐処置。
そこには、地上の歴史からとうに消失したはずの、超古代の遺構――巨大な沈没船が眠っていた。
――水深12,700メートル。
「記念に、ちょうどいい。……全体の半分にも満たないか」
男はヒルが発する「先へ急げ」という急かしの震動を無視し、太古の残骸へと進めた。
船の位置、そして水圧による圧縮率。
大体の距離さえ把握できれば、男には十分だった。
ゴーレムは鋼鉄の箱を飛び出し、超高圧の海へと躍り出た。
屋根を一瞥する。
へばり付く、キリアン。
もはや、水圧でエイのようにペシャンコになった顔、或いはその名残を押し付けている。
白濁した眼球が壁の向こうの快適な空間を呪う。
『部 屋 に 入 れ ろ』
名伏しがたきその表情を見ると、ゴーレムは半歩、引いた。
その瞳には、もう余裕は消え去っていた。
沈没船が片手で持ち運べるほどの「塊」へと凝縮されると、回収して帰還した。
水気を払い、作業台に座るゴーレム。
男は手のひらサイズにまで圧縮された未完成の沈没船を手に取り、布で丁寧に拭う。
「完成させるつもりは最初から無かった、……そうだろう」
再び、ヒルの脈動が強まる。
男はさらに下へと潜航を続けた。
時刻は深夜。
――水深16,000メートル。
「……深すぎるな」
切り立った崖が、すり鉢の底へ向かうように収束していく。
まるで、世界の最奥という名の喉元へ吸い込まれているようだ。
やがて、真の底が見えた。
――ガコン。
光源が射出され、永遠に近い暗闇を引き剥がす。
だが、その光を避けるように、底一面が「蠢いた」。
そこに居るのは『夜』。




