表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/19

汚れたら洗浄

王立最高魔術院は、その日、建国以来の平穏を、原初の恐怖によって塗り潰された。


空を割って現れたのは、誇り高き古龍でも、邪悪な魔王でもない。


それは、数千の「深淵のヒル」が密に絡み合う、肉と触手が蠢く悍ましき肉塊。


ヒルたちは互いの体液で癒着し、一匹一匹が黒銀の針となって外側を威嚇し、脈動する肉の律動を刻み続けている。


だが、塔の最上階に立つ老賢者――根源の魔術師は、眉一つ動かさなかった。


「……ふむ。これこそが伝承に綴られし『予言の獣』か。『人の子が地に別れを告げ、その翼を広げ天へと至る覚悟を問う存在』……」


魔術師の号令が、空を裂いた。

空に浮かぶのは、数百の赤黒い幾何学魔法陣。


――ガチリ。


巨大な時計の歯車が噛み合うような冷徹な音と共に、円環が固定される。

それは、神の瞬きに似た破壊の予兆だった。


「……放て」


刹那、世界から「色」が剥がれ落ちた。

放たれた極光は、赤黒い大津波を掻き消し、その肉体を焼き尽くす。


――直撃。


鉄と肉、そして魔法。

互いの存在を否定するように衝突し、火花を散らす。


表層のヒルたちは断末魔を上げる間もなく炭化し、黒い塵となって吹き飛んでいく。


爆炎の中に、一瞬だけ、鈍い銀色に輝く鋼鉄のワンルームの輪郭が覗いた。


「痛えな……、あ? 魔法かよ」


全身をヒルに覆われたキリアン、或いは、人型の蠢くヒルは呟いた。


――チョッ、チョッ


「あ? ……なんだ?」


――チュッ、ヂョ


「ああ? ……ああ、わかったよ」


毒気のない、だがひどく疲弊した声。


――ベチャリ、ボトボトッ。


全身を拘束していた、湿った重みが消失する。

粘液を孕んだ肉塊が剥き出しの鉄板を叩く、不快な濁音が屋根の上に連鎖した。


「停戦」の意思を伝えたヒルたちが、ズルリと意思を失った鉛のように鉄板を滑り落ちていった。


キリアンは屋根の定位置にへばり付いた。

モニターには顔がアップで映し出された。


ドロドロに固まった血の下、二つの穴から覗く眼球は、異常なほどに「白」い。


その下で、剥き出しの「真っ白な歯」が三日月状の笑みを刻んでいた。


赤と白。

音声の切れた画面の向こうで、その唇がゆっくりと動く。


『お い、出 て こ い』


ゴーレムはモニターの電源を落とした。


「しつこい汚れだな」


男はモニターを一瞥もせずに皿洗いをしていた。

スポンジをワシワシと掴むと、ゴーレムが頷き、魔術師の「洗浄力不足」を指先で指摘した。


男は棚から、どす黒い紫色の泡を立てる自家製の石鹸を取り出した。


スポンジで泡立てると、室内には死者の呻きのような微かな異音が響くが、男は気にせず皿を擦る。


皿にこびり付いた「生命の残りカス」が、綺麗に呪い落されていく。


ゴーレムはその実績ある洗浄力に、首を縦に振った。


熱を浴びた肉塊は、空間を震わせながら再構成を始めていた。


視界が、狂った万華鏡のように染まった。

蒼炎が虚空を焼き、絶対零度が大気を氷結させ、紫電がその隙間を染め抜く。


魔術師たちが絞り出した魔法の豪雨。

その光の奔流へ、ヒルたちは地底の呪いを宿した黒い槍となって射出された。


――激突。


疾風が棘を削り去り、岩石が質量を砕き、重力崩壊の歪みが槍をねじ切っていく。


空は、狂った魔法の舞踏会となっていた。


救援は続々と集まり、人間の意地が、徐々にヒルの浸食を押し戻し始めていた。

団結した彼らに迷いはなかった。


王国軍が到着するその時まで、泥をすすり、血を流してでもこの戦線を死守する――その一点のみに全神経を注いだ。


だが、その狂乱の震源地――巨人の心臓部に位置する「ワンルーム」もまた、迷いはなかった。


食器を磨く音だけが、真空のような室内に響く。




◇ ◇ ◇




男は洗い終えたばかりの食器から水気を払うと、布で丁寧に磨いていく。

ゴーレムがそれを受け取り所定の位置に配置する。


水きりをチェックするその視線に、甘えは無い。


外部モニターは依然としてヒルの粘膜に覆われ、視覚情報は完全に遮断されている。


だが、装甲を伝う断続的な衝撃と、経過した時間から、外で繰り広げられている一方的な蹂躙の光景は、手に取るように想像できた。


「……ん? 待て。これは、使えるな」


深淵から連れ帰ったこのヒルは、単なる「汚れ」ではない。


外界のあらゆる攻撃を肩代わりし、敵を粉砕する「神話級の追加装甲」へと、評価を改めた。


男は操舵輪を握ると、一気に加速する。

鼓膜を突き破るような高音と共に、ワンルームが「弾丸」と化す。


遠ざかる脅威に向けて、勝利を信じて疑わぬ者たちの勝鬨かちどきが、いつまでも木霊していた。


それが「討伐」ではなく、ただの「目的地変更」に過ぎぬとは露知らず、王国は偽りの熱狂に酔い痴れていた。


「予定変更だ、『ヒル』は使える。……あの深海の怪物に、この深淵の怪物を、ぶつける」


やがて王国の混乱が鎮まる。

魔術院の副塔が崩壊した数時間後。


空気の重い謁見の間には、緊張で凍りついた一人の兵士と、三人の王族が対峙していた。


「……以上が、魔術院よりの報告です。極大魔術は……通用せず。不浄の塊は、そのまま深海へと潜行いたしました」


震える声で報告を終えた兵士に対し、玉座に座る長男、ウィリアム王は眉一つ動かさなかった。


その冷徹な眼光は、王国の威信が物理的に粉砕された事実を、冷酷に咀嚼しているようだった。


「陛下、もはや猶予はありません」


沈黙を破ったのは、第四王弟。

重装騎士ヴァルター。甲冑を鳴らし、一歩前へ出る。


「魔術が効かぬなら、我が騎士団の鋼で貫くだけです。キリアン兄上の行方も知れぬ今、あのような怪物を野放しにするは王国の恥辱」


辺境伯アリストンが制する。


「ヴァルター殿、魔術院の最高火力が通用しない以上、まずはその正体を解明するのが先決でしょう。有効な手段を確立した上で、騎士団を投入すべきではありませんか」


彼は兄を、そして弟を、氷のような瞳で射抜く。


「では、座して『待て』と仰りますか、辺境伯閣下」


ヴァルターの怒号を、アリストンは冷ややかに受け流す。


「……陛下」


辺境伯はウィリアム王に向き直り、静かに、そして周到な嘘を差し出した。


「全軍による追撃は不要。ここは我が辺境伯領の竜騎士団に一任いただきたい。北方の脅威の監視に特化した彼らこそ、この役割に最適と考えます」


ウィリアム王は、長く、重い沈黙のあと、短く告げた。


「……よかろう。アリストン、貴公に全権を預ける。だが忘れるな。これは『調査』であって、『放置』ではない。王国の威信を汚したあの塊に、逃げ場などないと知らしめよ」


「――御意」


床を伝う風の冷たさが、額を通じて脳を刺す。

アリストンは、首筋の骨が軋むほど深く、深く頭を垂れた。


視界の端で、自身の拳が白くなるほど握りしめられているのが見える。


(……まだだ。今は、この沈黙を買い叩かなければならない)


伏せられた瞳の奥で、赤く燃え盛る戦火の幻視を焼き捨てる。


肺を満たすのは、かつて愛娘の命を繋ぎ止めた、あの透き通るほどに清冽な北方の空気。


それを汚す一切を、地獄の果てまで退けるために。

彼は今、獣のように牙を隠し、静止した。


――その時。


謁見の間の豪奢な照明が、深々と頭を下げる彼の影を、床に長く引き延ばす。


だが、その影は、人の形をしていなかった。

彼の背後に立ち上がったのは、冷徹な石壁を備えた、巨大な「城塞」の輪郭。


ノス・グラードの伝説の地、その不落の威容が、一瞬だけ現実の光を歪めた。


影が再び人の形に戻ったとき、アリストンの唇は、誰にも見えぬ角度で静かに、吊り上がっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ