汚れたら洗浄
王立最高魔術院は、その日、建国以来の平穏を、原初の恐怖によって塗り潰された。
空を割って現れたのは、誇り高き古龍でも、邪悪な魔王でもない。
それは、数千の「深淵のヒル」が密に絡み合う、肉と触手が蠢く悍ましき肉塊。
ヒルたちは互いの体液で癒着し、一匹一匹が黒銀の針となって外側を威嚇し、脈動する肉の律動を刻み続けている。
だが、塔の最上階に立つ老賢者――根源の魔術師は、眉一つ動かさなかった。
「……ふむ。これこそが伝承に綴られし『予言の獣』か。『人の子が地に別れを告げ、その翼を広げ天へと至る覚悟を問う存在』……」
魔術師の号令が、空を裂いた。
空に浮かぶのは、数百の赤黒い幾何学魔法陣。
――ガチリ。
巨大な時計の歯車が噛み合うような冷徹な音と共に、円環が固定される。
それは、神の瞬きに似た破壊の予兆だった。
「……放て」
刹那、世界から「色」が剥がれ落ちた。
放たれた極光は、赤黒い大津波を掻き消し、その肉体を焼き尽くす。
――直撃。
鉄と肉、そして魔法。
互いの存在を否定するように衝突し、火花を散らす。
表層のヒルたちは断末魔を上げる間もなく炭化し、黒い塵となって吹き飛んでいく。
爆炎の中に、一瞬だけ、鈍い銀色に輝く鋼鉄のワンルームの輪郭が覗いた。
「痛えな……、あ? 魔法かよ」
全身をヒルに覆われたキリアン、或いは、人型の蠢くヒルは呟いた。
――チョッ、チョッ
「あ? ……なんだ?」
――チュッ、ヂョ
「ああ? ……ああ、わかったよ」
毒気のない、だがひどく疲弊した声。
――ベチャリ、ボトボトッ。
全身を拘束していた、湿った重みが消失する。
粘液を孕んだ肉塊が剥き出しの鉄板を叩く、不快な濁音が屋根の上に連鎖した。
「停戦」の意思を伝えたヒルたちが、ズルリと意思を失った鉛のように鉄板を滑り落ちていった。
キリアンは屋根の定位置にへばり付いた。
モニターには顔がアップで映し出された。
ドロドロに固まった血の下、二つの穴から覗く眼球は、異常なほどに「白」い。
その下で、剥き出しの「真っ白な歯」が三日月状の笑みを刻んでいた。
赤と白。
音声の切れた画面の向こうで、その唇がゆっくりと動く。
『お い、出 て こ い』
ゴーレムはモニターの電源を落とした。
「しつこい汚れだな」
男はモニターを一瞥もせずに皿洗いをしていた。
スポンジをワシワシと掴むと、ゴーレムが頷き、魔術師の「洗浄力不足」を指先で指摘した。
男は棚から、どす黒い紫色の泡を立てる自家製の石鹸を取り出した。
スポンジで泡立てると、室内には死者の呻きのような微かな異音が響くが、男は気にせず皿を擦る。
皿にこびり付いた「生命の残りカス」が、綺麗に呪い落されていく。
ゴーレムはその実績ある洗浄力に、首を縦に振った。
熱を浴びた肉塊は、空間を震わせながら再構成を始めていた。
視界が、狂った万華鏡のように染まった。
蒼炎が虚空を焼き、絶対零度が大気を氷結させ、紫電がその隙間を染め抜く。
魔術師たちが絞り出した魔法の豪雨。
その光の奔流へ、ヒルたちは地底の呪いを宿した黒い槍となって射出された。
――激突。
疾風が棘を削り去り、岩石が質量を砕き、重力崩壊の歪みが槍をねじ切っていく。
空は、狂った魔法の舞踏会となっていた。
救援は続々と集まり、人間の意地が、徐々にヒルの浸食を押し戻し始めていた。
団結した彼らに迷いはなかった。
王国軍が到着するその時まで、泥をすすり、血を流してでもこの戦線を死守する――その一点のみに全神経を注いだ。
だが、その狂乱の震源地――巨人の心臓部に位置する「ワンルーム」もまた、迷いはなかった。
食器を磨く音だけが、真空のような室内に響く。
◇ ◇ ◇
男は洗い終えたばかりの食器から水気を払うと、布で丁寧に磨いていく。
ゴーレムがそれを受け取り所定の位置に配置する。
水きりをチェックするその視線に、甘えは無い。
外部モニターは依然としてヒルの粘膜に覆われ、視覚情報は完全に遮断されている。
だが、装甲を伝う断続的な衝撃と、経過した時間から、外で繰り広げられている一方的な蹂躙の光景は、手に取るように想像できた。
「……ん? 待て。これは、使えるな」
深淵から連れ帰ったこのヒルは、単なる「汚れ」ではない。
外界のあらゆる攻撃を肩代わりし、敵を粉砕する「神話級の追加装甲」へと、評価を改めた。
男は操舵輪を握ると、一気に加速する。
鼓膜を突き破るような高音と共に、ワンルームが「弾丸」と化す。
遠ざかる脅威に向けて、勝利を信じて疑わぬ者たちの勝鬨が、いつまでも木霊していた。
それが「討伐」ではなく、ただの「目的地変更」に過ぎぬとは露知らず、王国は偽りの熱狂に酔い痴れていた。
「予定変更だ、『ヒル』は使える。……あの深海の怪物に、この深淵の怪物を、ぶつける」
やがて王国の混乱が鎮まる。
魔術院の副塔が崩壊した数時間後。
空気の重い謁見の間には、緊張で凍りついた一人の兵士と、三人の王族が対峙していた。
「……以上が、魔術院よりの報告です。極大魔術は……通用せず。不浄の塊は、そのまま深海へと潜行いたしました」
震える声で報告を終えた兵士に対し、玉座に座る長男、ウィリアム王は眉一つ動かさなかった。
その冷徹な眼光は、王国の威信が物理的に粉砕された事実を、冷酷に咀嚼しているようだった。
「陛下、もはや猶予はありません」
沈黙を破ったのは、第四王弟。
重装騎士ヴァルター。甲冑を鳴らし、一歩前へ出る。
「魔術が効かぬなら、我が騎士団の鋼で貫くだけです。キリアン兄上の行方も知れぬ今、あのような怪物を野放しにするは王国の恥辱」
辺境伯アリストンが制する。
「ヴァルター殿、魔術院の最高火力が通用しない以上、まずはその正体を解明するのが先決でしょう。有効な手段を確立した上で、騎士団を投入すべきではありませんか」
彼は兄を、そして弟を、氷のような瞳で射抜く。
「では、座して『待て』と仰りますか、辺境伯閣下」
ヴァルターの怒号を、アリストンは冷ややかに受け流す。
「……陛下」
辺境伯はウィリアム王に向き直り、静かに、そして周到な嘘を差し出した。
「全軍による追撃は不要。ここは我が辺境伯領の竜騎士団に一任いただきたい。北方の脅威の監視に特化した彼らこそ、この役割に最適と考えます」
ウィリアム王は、長く、重い沈黙のあと、短く告げた。
「……よかろう。アリストン、貴公に全権を預ける。だが忘れるな。これは『調査』であって、『放置』ではない。王国の威信を汚したあの塊に、逃げ場などないと知らしめよ」
「――御意」
床を伝う風の冷たさが、額を通じて脳を刺す。
アリストンは、首筋の骨が軋むほど深く、深く頭を垂れた。
視界の端で、自身の拳が白くなるほど握りしめられているのが見える。
(……まだだ。今は、この沈黙を買い叩かなければならない)
伏せられた瞳の奥で、赤く燃え盛る戦火の幻視を焼き捨てる。
肺を満たすのは、かつて愛娘の命を繋ぎ止めた、あの透き通るほどに清冽な北方の空気。
それを汚す一切を、地獄の果てまで退けるために。
彼は今、獣のように牙を隠し、静止した。
――その時。
謁見の間の豪奢な照明が、深々と頭を下げる彼の影を、床に長く引き延ばす。
だが、その影は、人の形をしていなかった。
彼の背後に立ち上がったのは、冷徹な石壁を備えた、巨大な「城塞」の輪郭。
ノス・グラードの伝説の地、その不落の威容が、一瞬だけ現実の光を歪めた。
影が再び人の形に戻ったとき、アリストンの唇は、誰にも見えぬ角度で静かに、吊り上がっていた。




