放課後のアクシデントと、二人きりの隠れ家
月曜日の甘いひとときから数日。
季節はすっかり秋の深まりを見せ、夕暮れの訪れが日に日に早くなっていた。
放課後を告げる終業ベルが鳴り響くと、教室はいつものように部活へ向かう者や帰宅する生徒たちの熱気で包まれる。
俺——藤野葵は、急いで鞄に教科書を放り込むと、斜め前の長谷川凛の席に一瞬だけ視線を送った。
彼女はいつも通り、無駄のない所作で日誌を閉じ、生徒会室へ向かう準備をしている。
その佇まいはまさに完璧な『氷山の副会長』。
……しかし、すれ違いざま。
長谷川は右手で自分の右耳たぶを小さく二回、チョンチョンと触った。
(……『今日も後で行く』の合図だな)
俺はペンのノック音を二回響かせて返答し、一足先に教室を後にした。
◇
實家的洋菓子店『パティスリー・フジノ』の裏口。
厨房の勝手口の鍵を開け、エプロンを身につけた俺は、今日の試作品を仕上げていた。
(今日のメニューは……秋の味覚、特製和栗のモンブランだ)
渋皮付きの栗の甘露煮をのせ、濃厚な栗ペーストを丁寧に絞り出した一品。
甘いものが大好きな長谷川がどんな表情を見せるか、想像するだけで口元が緩んでしまう。
コンコン、と控えめなノック音。
扉を開けると、そこには帽子を深くかぶり、警戒するように周囲を伺っている長谷川の姿があった。
「……誰もついてきてないわね?」
「うん、大丈夫だよ。入って」
滑り込むように厨房の奥の小さな休憩室に入ってきた長谷川は、扉が閉まった瞬間、緊張の糸が切れたように深々と息を吐き出した。
「ふはぁぁぁ……っ……今日も疲れた……」
さっきまでの凛とした立ち姿は一瞬で消え去り、ソファになだれ込んで小さく丸くなる。
まるで外では張っていた警戒心を完全におろした猫のようだ。
「お疲れ様、長谷川さん。はい、今日の試作品だよ」
冷やしておいたモンブランをお皿に乗せてテーブルに置くと、長谷川の身体がピクッと跳ねた。
丸くなっていた体を楽しそうに起こし、じーっとモンブランを見つめる。
その瞳は、すでにカチコチの氷ではなく、甘く潤んだ光を宿していた。
「……た、食べてあげてもいいわよ。せっかく作ったんだし……」
「素直に『美味しそう』って言えばいいのに」
「う、うるさいわね! いただくわ!」
長谷川が慎重にフォークを手に取り、一口サイズにカットして口へと運んだその時——。
ガタッ……! ガタガタッ……!
「——っ!?」
突然、店舗側のドア(厨房と接客エリアを隔てるドア)の向こうから、聞き覚えのある女子生徒たちの賑やかな話し声が聞こえてきた。
『ねえねえ! この店の新作モンブラン、すごく美味しいってSNSで話題になってるんだよ!』
『本当だー! 売り切れる前に買えてよかった!』
(……っ!? クラスの女子グループ……!?)
俺と長谷川は一瞬で硬直した。
店舗側とこの休憩室はドア一枚で隔てられているだけだ。
もし誰かが間違えて厨房の奥まで入ってきたり、中で俺たちの話し声が漏れたりしたら——一發でアウトだ。
「……っ!?」
長谷川の顔から一瞬で血の気が引き、瞳がパニックで大きく揺れた。
彼女はフォークを持ったまま固まり、助けを求めるように俺を見つめてくる。
「……長谷川さん、しーっ……!」
俺は人差し指を唇に当て、声を殺して指示を出した。
そして、彼女の手を引いて、休憩室の隅にある備品用の狭いクローゼットへと滑り込んだ。
パタン、と静かにクローゼットの扉を閉める。
◇
暗闇と、密閉された狭い空間。
大人二人が入るにはあまりにも狭いクローゼットの中で、俺と長谷川の身体は密着せざるを得なかった。
(……っ、近い……近すぎる……!)
長谷川の柔らかい身体の感触が、直接俺の胸元に伝わってくる。
彼女の着ているフリルブラウスからは、ほのかに甘い香水の匂いが漂っていた。
「……ん……っ……」
長谷川は俺の胸に顔を埋めるようにして、小さく震えていた。
彼女の白い手は、俺の制服の裾をぎゅっと力いっぱいに握りしめている。
壁一枚隔てた向こう側では、クラスの女子たちが楽しそうにおしゃべりを続けている。
『あ、これ藤野くんの実家だよね? 藤野くん今日いるかな?』
『さあ? 学校では影薄いから分かんないけど(笑)』
『でもお菓子美味しいから許すー!』
能天気な会話が響くたび、長谷川の身体がビクッと跳ね、さらに俺の身体にしがみついてきた。
(……やばい、心臓の音が聞こえそう……)
狭い暗闇の中で、長谷川のハァハァという小さな吐息が首元にかかる。
耳たぶまで真っ赤に染まっているのが、暗闇の中でもハッキリと分かった。
彼女の心臓も、俺と同じくらい激しいリズムで打っている。
「……あ、葵……」
耳元で囁かれた、蚊の泣くような消え入りそうな声。
「……しーっ、もう少しの辛慢だから……」
「……ん……でも……近すぎて……心臓が……破裂しそう……っ」
長谷川はうるうると湿った瞳で俺を見上げてきた。
いつもなら強がっている『氷山の副会長』が、今は俺の胸の中で完全に無防備になり、震えながら助けを求めている。
その愛おしさに、俺の胸は締め付けられそうだった。
俺はそっと彼女の背中に手を回し、安心させるように優しく叩いた。
「……大丈夫。俺が守るから」
「……っ……♡」
長谷川の身体から力が抜け、トスッと俺の胸に額を預けてきた。
ギュッと握られた服の裾の力が、さらに強くなる。
◇
数分後。
クラスの女子たちが買い物を終え、店の外へ去っていく足音が聞こえた。
店舗側の気配が完全に消えたことを確認し、俺はゆっくりとクローゼットの扉を開けた。
「……ふはぁぁぁ……っ!」
明るい部屋に出た瞬間、長谷川はへたり込むようにソファへ倒れ込んだ。
その顔は熟したイチゴのように真っ赤で、両手で顔を覆いながら悶絶している。
「〜〜〜っっ! し、死ぬかと思った……! 心臓が止まるかと思ったわよ……っ!」
「ごめんね、長谷川さん。驚かせて……」
「うぅ……葵のバカ……! あんな狭いところに一緒に押し込めるなんて……っ!」
「いや、他に隠れる場所がなかったんだって!」
長谷川は手で隠しきれない赤くなった顔のまま、指の隙間から上目遣いで俺を睨みつけてきた。
……全く怖くない。どころか、破壊力が凄まじい。
「……でも」
「え?」
長谷川はそっと顔を上げると、まだ赤みの残る耳たぶを触りながら小声で呟いた。
「……『守るから』って言ってくれたの……すごく……嬉しかった……」
「——っ!?」
「……だから、今日のモンブラン……最後まで、責任持って食べさせてよね……笨蛋」
照れ隠しのように、そっぽを向いてモンブランにフォークを伸ばす長谷川。
その口元には、隠しきれない甘い笑みが浮かんでいた。
誰にもバレてはいけない秘密の共有。
危機を乗り越えるたび、二人だけの特別な絆と温度は、確実に深まっていくのだった。
(第7話 おわり)
お読みいただきありがとうございました!
第7話では、クラスの女子組が突然やってくるハラハラのアクシデントと、クローゼットの中での密着心動タイムをお届けしました!
長谷川さんの極限状態での甘え姿を楽しんでいただけましたでしょうか?
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