放課後のタルトと、解けゆく氷の温度
放課後のチャイムが学校中に響き渡る。
俺——藤野葵は、手早くカバンに教科書を詰め込むと、斜め前の席に視線をやった。
長谷川凛は、相変わらず隙のない動きで日誌を整理している。
その佇まいはまさに『氷山の副会長』そのものだったが、俺は知っている。
彼女の意識が、いま完全に俺の動きに向けられていることを。
「長谷川さーん、このあとの委員会だけど——」
「資料は全て用意してあります。私のデスクの上を確認してください」
「あ、はい……相変わらず仕事が早いね……」
話しかけた委員会のメンバーを、氷点下の塩対応でさらりと撃退する長谷川。
しかし、彼女は立ち上がり際に、そっと右手で自分の右耳たぶを二回、ちょんちょんと触った。
(……『後で行く』の合図だな)
俺はペンを2回カチカチと鳴らして返答し、一足先に教室を後にした。
◇
実家の洋菓子店『パティスリー・フジノ』の裏口。
エプロンに着替えた俺が厨房の勝手口を開けると、そこには帽子を深めにかぶった長谷川が立っていた。
「……誰も見てないわね?」
「大丈夫だよ。入って」
忍者のようにサッと滑り込んできた長谷川は、パタンと扉が閉まった瞬間、緊張の糸が切れたように深々と息を吐いた。
「ふはぁぁぁ……っ……疲れた……」
さっきまでの凛とした立ち姿はどこへやら。
彼女はそのまま小さなソファになだれ込み、制服のまませまぜまと丸くなった。
まるで警戒心を解いた猫そのものだ。
「お疲れ様、長谷川さん。今日は委員会もあったから大変だったでしょ」
「……ん。すごく忙しかった……。それに、クラスの男子が何度も話しかけてくるから……対応にエネルギーを使うのよ……」
「はは、長谷川さん人気者だからなぁ」
「嬉しくないわよ。……私が気を許せるのは、ここだけなんだから……」
ボソッと呟かれたその言葉に、俺の胸がドクンと跳ねる。
(……無自覚にそういうこと言うの、本当に心臓に悪いからやめてほしい……)
俺は動揺を隠すように咳払いをすると、冷蔵庫から冷やしておいたお皿を取り出した。
「はい、今日の試作品。『季節のフルーツ盛りだくさん贅沢カスタードタルト』だよ」
お皿をテーブルに置いた瞬間。
長谷川の背筋がピクッと伸びた。
丸くなっていた身体を起こし、じーっとタルトを見つめる。
キラキラと輝くイチゴやキウイ、そして濃厚そうなカスタードクリーム。
長谷川の瞳が、まるで宝物を見つけた子供のように輝き始めた。
「……た、食べてあげてもいいわよ。せっかく作ったんだし……残したら悪いから」
「素直に『美味しそう』って言えばいいのに」
「う、うるさいわね! いいからいただくわ!」
長谷川は慎重にフォークを手に取ると、タルトの端を小さくカットして口へと運んだ。
サクッ、と素晴らしい音が響く。
「……んん……っ♡」
次の瞬間、長谷川の顔がぽっと赤く染まった。
うっとりと瞳を閉じ、一口一口を噛みしめるように味わっている。
あまりの美味しさに、満足げな小動物のように細い足を小刻みに揺らしていた。
「……美味しい……。タルト生地が香ばしくて……カスタードがすごく滑らか……」
「フルーツの酸味とカスタードの甘さのバランスにこだわったんだ」
「……ズルい……。こんなの、毎日食べたくなるじゃない……」
長谷川は夢中でタルトを食べ進めていく。
学校での冷酷な表情は完全に氷解し、いま目の前にいるのは、ただただ甘いものに目がない可愛い女の子だった。
「あ、口元にクリームついてるよ」
「えっ……? どこ……?」
「あ、逆。もう少し右——」
長谷川が手で拭おうとするが、明当違いの場所を触っている。
見かねた俺は、つい無意識に手を伸ばし、彼女の口元についた小さなクリームを指先でそっと拭い取った。
「……ここだよ」
「——っ!?」
長谷川の身体がガタッと跳ねた。
彼女の顔が、みるみるうちに耳まで真っ赤に染まっていく。
目を見開き、信じられないものを見るような顔で俺を凝視していた。
「〜〜〜っっっ! な、ななな何触ってるのよ笨蛋葵……!!」
「あ、ごめん! つい手が勝手に……!」
慌てて手を引っ込める俺。
長谷川は両手で自分の頬を包み込み、顔を隠すように俯いてしまった。
隙間から覗く耳たぶは、熟したイチゴのように真っ赤だ。
「……不意打ち……禁止……」
「すみません……」
「……べ、別に嫌だったわけじゃないけど……! 心の準備っていうのがあるでしょ……!」
蚊の泣くような声で呟かれた言葉に、今度は俺の顔が熱くなる。
(『嫌だったわけじゃない』って……それ、どういう意味だよ……!?)
静まり返る小部屋。
聞こえてくるのは、自分と彼女の少し早い鼓動の音だけだった。
俺たちは、お互いに好意を持っているのかもしれない。
でも、いまはこの「シェフと試食員」という絶妙な距離感が心地よくて、一歩を踏み出すのが怖くもあった。
バレてはいけない秘密の時間を共有する、二人だけの特別な関係。
恋と呼ぶにはまだ少し幼く、ただの友達と呼ぶには甘すぎる。
長谷川は赤くなった顔をあげないまま、小さく俺の裾を引っ張った。
「……明日も……来ていい……?」
「……もちろん。長谷川さんの分、ちゃんと作っておくよ」
「……うん。楽しみにしてる……」
解け始めた氷の温度は、まだゆっくりと、確実に、二人だけの秘密の部屋を温めていくのだった。
(第3話 おわり)
お読みいただきありがとうございました!
第3話では、タルトを巡る二人の距離感が少しだけ急接近する甘いひとときをお届けしました。
まだお互いに自分の気持ちに戸惑っている、この甘酸っぱい曖昧な時期をじっくり楽しんでいただけたら嬉しいです!
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