進級の春と、エプロン越しの密着タイム
四月上旬。
あたたかな春風が桜の木を揺らし、校庭の舗道に淡いピンクの絨毯を敷き詰めている。
今日から私たちは、一つ上の学年——新二年生へと進級した。
始業式のクラス替え。
幸いにも(というか、お互いの執念の調整の結果か)私——藤野葵と、長谷川凛は同じクラス、しかも窓際の前後の席へと配置されていた。
「おい藤野、マジで最高だな! 新クラスでも隣同士の席になれるなんて、お前、前世でどんな徳を積んだんだよ!」
佐藤が自分の机から身を乗り出して、羨ましそうに声をかけてくる。
その斜め前では、長谷川がすっと視線を逸らしながらも、耳たぶを真っ赤に染めて窓の外の桜を眺めていた。
(……前世の徳というか、生徒会権限で席順をこっそり調整した副会の執念の勝利、だろうけどな)
心の中で苦笑いしながら、私は「さあな、日頃の行いが良いからじゃないか?」と適当に聞き流した。
誰も見ていない隙を突き、長谷川が机の下でそっと左手の薬指を二回トントンと叩いてみせた。
——『放課後、いつものようにすぐお店に来てよね』という、甘い無言の指令だった。
◇
放課後。
春の陽気が心地よい夕方。
実家の洋菓子店『パティスリー・フジノ』の裏口。
鍵を開けて厨房に入り、エプロンを身につけようとした、その時だった。
コン、コン、コン——。
お馴染みの軽やかなノック音のあと、ガチャリと扉が開き、制服姿の長谷川が滑り込んできた。
「お疲れ様、凛。新学年初日、クラス替えはどうだった?」
「お疲れ様、葵……! クラス替えは……まあ、ご覧の通りよ」
長谷川はカバンを置くと、スタスタと私のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。
今日の彼女は、なぜかいつも以上に瞳をキラキラさせ、妙な気合をまとっているように見える。
「どうしたの、そんなに張り切って」
「ねえ、葵。今日から私たち、二年生になったでしょう?」
「うん、そうだね」
「だからね……今日の放課後は、いつもと少し違うことをしてみたいの」
「違うこと……?」
首をかしげる私に、長谷川は照れくさそうに、でも真っ直ぐな瞳でこう言った。
「私に……葵のその、お店専用の大きなエプロンを貸してちょうだい。それをつけて、一緒に並んでケーキを作りたいのよ」
「え? 僕のエプロン?」
「そう! なんだか、葵の服の匂いがしそうだし……その、恋人同士っぽいこと、一度やってみたかったんだから……っ!」
最後の方は声が小さくなり、耳まで真っ赤になっていく長谷川。
その可愛すぎるお願いを断る理由なんて、全宇宙を探しても存在しなかった。
「いいよ。じゃあ、これどうぞ」
私は自分がいつも使っている、少し大きめの紺色の特製エプロンを彼女に手渡した。
◇
数分後。
長谷川は自分の制服の上からぶかぶかのエプロンを装着した。
——これが、破壊力抜群だった。
彼女の華奢な体に対してエプロンが大きすぎるせいで、すっぽりと包み込まれているような「萌え袖ならぬ萌え裾」状態。
さらに、生地から漂う私の柔軟剤の香りと、彼女自身の甘いシャンプーの香りが混ざり合い、厨房の空気が一瞬で甘く蕩けていく。
「ど、どうかしら……? 変じゃない……?」
長谷川は裾を引っ張りながら、恥ずかしそうに上目遣いで私を見つめた。
「変どころか……反則級に可愛いよ、凛殿」
「——っ! からかわないでよ……! もう、照れるでしょう……っ!」
顔を真っ赤にしてぷっと頬を膨らませる長谷川。
だが、その表情は隠しきれないほど嬉しそうに緩んでいた。
「よし、じゃあ今日のメニューに取りかかろうか。新学年のお祝いとして、春らしい『イチゴのタルト・フレジエ』を作ろう」
「おっ、タルトね! 任せて、今日のエプロンパワーで、完璧に仕上げてみせるわ!」
すっかりやる気スイッチが入った長谷川と一緒に、生地をこね、カスタードクリームを炊き上げていく。
狭い厨房の中で、時折肩と肩が触れ合うたびに、心臓が跳ねるような甘い緊張感が走った。
そして、最後の仕上げ——タルトの上に美しくイチゴを並べ、絞り袋でクリームを飾る作業。
「うーん、ここのクリームの絞り方、ちょっとバランスが難しいわね……」
真剣な顔で首を傾げる長谷川の背後から、私はそっと一歩近づいた。
「こうやるんだよ。ほら、手を重ねてごらん」
「っ……!?」
後ろから包み込むように、長谷川の両手を私の大きな手でそっと包み込む。
いわゆる、後ろからの密着バックハグ(バックドン)状態。
長谷川の背中が私の胸板にピタリと当たり、彼女の息が止まるのが分かった。
耳たぶから首筋まで、一瞬で真っ赤に染め上がっていく。
「あ、葵……? これじゃあ、なんだか……近すぎて……っ!」
「こうして一緒に手を動かせば、均等に綺麗に絞れるだろ? ほら、見ててごらん」
私の手が彼女の小さな手を導き、絞り袋からなめらかなクリームがイチゴの隙間へと美しく絞り出されていく。
密着した背中から伝わってくる彼女の心臓の鼓動は、トクトクと激しく、そして愛おしいリズムを刻んでいた。
「……どう? 綺麗にできたでしょ」
「うん……すごく、綺麗……でも、クリームの味なんて……緊張しすぎて全然わからないかも……っ!」
恥ずかしさのあまり、長谷川は両肩をすくめ、その場にペタリと背中を預けてきた。
私の腕の中にすっぽりと収まる彼女の体温が、たまらなく愛おしい。
「じゃあ、完成したご褒美に、あとで一番美味しいところをあげるよ」
「……ほんと? 絶対だからね……!」
振り返りこそしないものの、長谷川は私の腕に自分の腕を重ね合わせ、幸せそうに目を細めた。
窓の外では春の夜風が優しく吹き抜け、新学期の始まりを告げている。
けれど、この小さな洋菓子店の裏口の中だけは、二人だけの甘く温かい時間が、いつまでもいつまでも続いていくのだった。
(第25話・おわり)




