彼女の名前と、学校の裏でのふたりきり
正式に恋人同士になってから、初めて迎える金曜日の放課後。
校内での「氷山の副会長」と「影の薄い男子生徒」という仮面は、相変わらず完璧に維持されていた。
……少なくとも、周囲の生徒たちの目にはそう映っているはずだった。
だが、当事者である俺——藤野葵と、長谷川凛にとっては、状況は一変していた。
朝のホームルーム前。
長谷川は教科書を取り出すふりをしながら、誰も見ていない隙を突いて、すっと右手の薬指を軽くトントンと叩いてみせた。
(……っ、それ、昨日の新しい合図……!)
『今日の放課後、いつもより長めに一緒にお店に直行するわよ』という意味の、二人だけの新しい秘密。
俺がペンを二回カチカチと鳴らして返答すると、長谷川は背中越しでありながら、ふっと愛おしそうに口元を緩めたのが分かった。
——しかし、問題はその「放課後」に起きた。
◇
終業のチャイムが鳴り響き、佐藤が「よっしゃ週末だぁ!」と大騒ぎしながら教室を出ていく。
俺も急いでカバンに荷物を詰め込み、いつものように斜め前の席に視線をやった。
「じゃあ、長谷川さん。生徒会の仕事、頑張ってね」
周囲に人がいるため、あえていつも通りの冷淡なトーンで声をかける。
長谷川もまた、完璧な氷山スマイルを浮かべて頷いた。
「ええ。生徒会の書類整理がありますので、今日は少し遅れます。……葵くんも、寄り道せずにまっすぐ帰るように」
完璧なまでの「塩対応のクラスメイト」の演技。
さすが学年次席、演技力までプロ級だと思いながら、俺は実家の洋菓子店『パティスリー・フジノ』へと先に向かった。
◇
実家の厨房で、今日の新作『特製オペラケーキ』の仕込みを始めてから約三十分後。
コン、コン、コン——。
待ちに待ったノック音が響いた。
俺が急いで鍵を開けて扉を開けると、そこには制服姿の長谷川が立っていた。
だが、今日の彼女はいつもと少し違っていた。
「ふぅ……っ……疲れた……」
パタンと扉が閉まった瞬間、長谷川はこれまでにないほど深く息を吐き出し、その場でぐったりと俺の胸元に寄りかかってきた。
「お、お疲れ様、凛。どうしたの、そんなにぐったりして」
「どうしたって……!」
長谷川は顔を上げ、潤んだ瞳で不満そうにぷっと頬を膨らませた。
「学校で……! 授業中も、生徒会の仕事中も……ずっと葵のことが頭から離れなくて……! 早く名前で呼びたいのに、周りの目が気になって『長谷川さん』なんて冷たく呼ばなきゃいけないのが、こんなにストレスだなんて知らなかったわよ……!」
両手で俺の制服の裾をぎゅっと掴みながら、ぶーぶーと文句を垂れる長谷川。
学校での完璧な副会長の姿は完全に消え去り、いま目の前にいるのは、ただただ彼氏に甘えたいだけの最高に可愛い彼女だった。
「はは、ごめんごめん。でも、生徒会の仕事もちゃんとやり切ったんだろ? えらいえらい」
俺が優しく彼女の黒髪をなでると、長谷川は気持ちよさそうに目を細め、さらにトスッと額を俺の胸に預けた。
「……頭なでるの、禁止……子供扱いしないでよ……」
「でも、嬉しそうじゃん」
「……うっ……否定はしないけれど……」
長谷川は恥ずかしそうに耳たぶを真っ赤に染めながら、小さく息を漏らした。
「ねえ、葵」ん?
「ん?」
「……来週の日曜日……学校が休みの日にさ……その、どこか出かけない……?」
「お、それって……デートってこと?」
「っ……! わ、わざわざ言葉に出さなくてもいいじゃない……! でも、そうよ! 二人っきりで、誰の目も気にしないで……丸一日、一緒に過ごしたいの」
上目遣いで、少し不安そうに、でも期待に満ちた瞳で俺を見つめてくる長谷川。
こんな可愛い誘いを断る理由なんて、どこにもなかった。
「もちろん。どこに行きたい? 映画でも、遊園地でも、行きたいところ全部付き合うよ」
「ほんと……? じゃあ……駅前の新しくできたカフェと、雑貨屋さんに行って……それから……」
嬉しそうにパァッと顔を輝かせ、行きたい場所を指折り数え始める長谷川。
その楽しそうな横顔を見ているだけで、胸の奥が甘い幸福感で満たされていく。
「よし、じゃあ今日の試作品は、そのデートの計画を立てながら食べようか。今週の新作、特製のオペラケーキだよ」
「ほんと!? やった……! 早く食べたーい!」すっかり子供のように目を輝かせる長谷川。
学校では「氷山の副会長」として周囲を圧倒している彼女が、この場所でだけ見せてくれる無防備な笑顔と甘え声。
秘密の協定は終わったけれど、二人だけの甘すぎる甘味生活は、ここからさらに加速していくのだった。
(第16話 おわり)
お読みいただきありがとうございました!
第16話では、正式に付き合い始めた後の「校内での我慢」と「放課後厨房での全開甘えモード」、そして次週の初デートの約束をお届けしました!
次回第17話は**「ついにやってきた日曜日!二人っきりの初めての本格デートと、さらに深まる甘い絆」**をお送りする予定です。
ぜひお楽しみに!




