氷の溶けた日、そして、はじまりの甘い魔法
新学期の冷たい風が吹き抜ける夕暮れ。
実家の洋菓子店『パティスリー・フジノ』の小さな休憩室には、これまでにないほど静かで、甘い緊張感が満ちていた。
「……限界、みたい……」
長谷川凛は、震える声でそう呟いた。
彼女は制服の袖をぎゅっと握りしめたまま、逃げ場のない瞳でまっすぐに俺を見つめている。
学校では誰もが恐れる「氷山の副会長」。
完璧で、近寄りがたくて、冷酷なまでの塩対応を貫く美少女。
けれど、いま目の前にいるのは——俺の前でだけ、必死に自分の恋心を隠そうとしながらも、あふれ出る想いを止められなくなっている、最高に愛おしい一人の女の子だった。
「長谷川さん……」
「……もう、『長谷川さん』って呼ぶの、禁止……!」
彼女は潤んだ瞳にうっすらと涙を浮かべながら、ぷっと頬を膨らませた。
「ずっと思ってたの……。私だけがこんなにドキドキして、私だけが葵に夢中になってるみたいで……不公平だって……」
「そんなことないよ。俺だって、ずっと……」
「分かってるわよ……! 葵が毎日私を特別扱いしてくれて、美味しいお菓子を作ってくれて……私を甘やかしてくれるから……私、もう他の誰じゃ満足できなくなっちゃったのよ……!」
涙声でそう叫ぶと、長谷川はたまらず一歩踏み出し、俺の胸元に両手をついて俯いた。
震える肩が、彼女の必死の覚悟を物語っている。
「……私ね、本当は、ずっと怖かったの。誰かに好かれようとしても、どうせ『氷山の副会長』っていう仮面しか見てもらえないって諦めてた。でも……」
彼女はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で俺の目をまっすぐに見据えた。
「……私の本当の姿を、甘いものが好きで、不器用で、葵の前でしか素直になれない私を……丸ごと受け止めてくれたのは、葵、あなただけなの……」
静まり返った部屋に、彼女の震える声が優しく響く。
「……大好き……よ、葵。……私のこと、ちゃんと……特別にしてよ……」
——それは、これ以上ないほどまっすぐで、最高に可愛い告白だった。
胸の奥が熱くなり、抑え込んでいた感情が一気にあふれ出す。
俺はもう、これ以上言葉を惜しむ必要なんてなかった。
「当たり前だよ、長谷川さん——いや、凛」
「っ……♡」
俺はそっと両手を伸ばし、彼女の華奢な肩を引き寄せ、しっかりと抱きしめた。
長谷川の身体がビクッと跳ねた後、すぐにトウッと力学を預けるように、俺の胸に額を埋めてきた。
「俺にとっても、凛は世界でたった一人の特別な人だ。学校で見せるどんな姿も、ここで見せてくれるデレデレな姿も、全部俺が独り占めしたい」
「……うぅ……ずるい……そんなこと言われたら、また泣いちゃうでしょ……」
俺の胸元でぐっと顔を押し付けながら、嬉しそうに、そして安心したように小さく笑う長谷川。
彼女の体温と、甘い香水の香りが全身を包み込んでいく。
◇
「ねえ、葵」
しばらく温かい抱擁を交わした後、長谷川はふっと顔を上げ、恥ずかしそうに上目遣いで俺を見つめてきた。
「ん? どうしたの?」
「……私たち、今日から……正式に、恋人同士……ってことで、いいのよね……?」
不安そうに、でも期待に満ちた瞳で問いかけてくる彼女。
俺は笑いながら、彼女の頭を優しくなでた。
「もちろん。今日から俺たちは、正真正銘の恋人同士だよ」
「……っ……よかったぁ……」
長谷川はふわりと花が咲いたような、これまでに見たこともないほど眩しい笑顔を浮かべた。
それは、氷が完全に溶け去り、温かな春の陽光だけが残ったような、息をのむほどの美しさだった。
「じゃあ……これからは、学校でも……たまには、名前で呼んでくれても……いいのよ?」
「お、校内でそれやったら全校生徒がひっくり返るぞ」
「いいじゃない! 私の彼氏なんだから、そのくらいの特権よ!」
ぷっと頬を膨らませて強気なことを言う彼女の耳たぶは、相変わらず真っ赤に染まっていた。
……どこまでいっても、ツンデレで、愛おしい彼女のままだ。
「はいはい、分かりました、凛殿」
「っ……! からかわないでよ……!」
照れ隠しのようにポカポカと軽く俺の胸を叩いてくる長谷川。
その笑顔が嬉しくて、俺は思わず彼女の手をとり、そっと指を絡ませた。
恋人繋ぎ。
二人の手がしっかりと、温かく結び合わされる。
学校では「氷山の副会長」と「影の薄い男子生徒」。
けれど、放課後のこの小さな厨房では、世界で一番甘くて幸せな恋人たち。
「ねえ、葵。今日の試作品……正式にお付き合い記念のケーキを、もう一回一緒に作らない?」
「いいね。今度は失敗しないように、シェフがちゃんとエスコートするよ」
「ふふ、楽しみにしてるわ。……私の、大好きなシェフさん?」
夕暮れの光が差し込む窓の外では、新しい季節の足音がゆっくりと近づいていた。
二人の秘密の協定は終わりを告げ、ここから本当の、甘すぎる恋物語が始まっていくのだった。
(第15話 おわり・本編完結)




