第97話「無重力の朝と、鋼の太もも」
9月に入って、今年の札幌の残暑は粘り強かった。朝晩の涼しさとは裏腹に、日中の日差しはまだ痛い。
そんなある日の朝、私は強烈な違和感と共に目を覚ました。
体が、異様に軽い。
というか、分厚い羽毛布団が私を一切押さえつけていない。50代も半ばを過ぎて、これほど寝起きの腰と関節が軽いのは初めてだった。
( ……おやおや。ついに私の魂が巨体の質量に耐えきれず、幽体離脱でも果たしたか? スピリチュアルな目覚めにしては、視界に入る天井の木目が近すぎる気がするな…… )
私は極めて冷静だった。丸太のような腕を持つ巨体が天井付近までフワフワと浮き上がり、体をひねると眼下に自分のベッドがある。そんな異常事態でも、私の観察眼は「現在の浮遊高度:約2m」と正確に数値を弾き出していた。
「……は?」
見回すと、部屋の中はカオスだった。
読みかけの化石図録、スマホ、そして脱ぎ散らかした靴下が、水槽を漂うクラゲのように空中を優雅に舞っている。
そして、隣の茶の間からは、重力から解き放たれた野獣の歓喜の声が聞こえてきた。
「Vamoose!( ヒャッハー! 最高だぜ! )」
平泳ぎの要領で茶の間へ泳いでいくと、そこには「ゼロ・グラビティ」を全身で満喫するビリー君の姿があった。
秋の朝日に照らされて輝くアンズ色の羽毛を逆立て、壁を蹴り、天井を走り、まるでSF映画のクルーが船内の事故で放り出された時のような見事な三次元機動を見せている。
アダンソン先輩に至っては、空中で糸を固定する「支点」がないはずなのに、独自の表面張力があるのか、それとも微かな気流を利用しているのか、中空に立体的な「糸の城」を建築中だった。13mmに成長した体躯で、この異変を誰よりも楽しんでいるらしい。
そこへ、床、というか壁に電磁式と思われるゴツいワークブーツで強引に張り付いた大家さんが、深刻な顔でタブレットを持って現れた。
「やれやれ。やはりこうなりましたか、アキラさん。おはようございます」
「おはようございます、大家さん。って、これってどうなっちゃってんです?」
「地下の『トロゲート』なんですよ。どうやらエネルギー残量が完全にゼロになってしまったようなんです」
大家さんの解説は、相変わらず「ちょっとした家電の故障」を語るような軽やかさだった。
大家さん曰く、螺旋スロープが完成するまでビリー君たちが「近道」としてゲートを使いすぎたせいで蓄電システムが空っぽになり、不足したエネルギーを補うために、家の中の「重力」を吸い取り始めたのだという。
「……へっ? 重力を燃料にしてるってことですか?」
「ええ。先日アキラさんが言っていた『ゼロエネルギー宇宙論』仮説の応用ですよ。おかげでこの山悟荘は現在、月面以下の0.1Gです。便利といえば便利ですけどね? 掃除機をかけなくても、ホコリが全部浮いてくれますからねぇ」
( 冗談ではない。私の精密画の道具が浮いたら、ミリ単位の描き込みが台なしだ )
私が文句を言おうと口を開けた瞬間、宙に浮いていたマグカップがゆっくりと傾いた。中に残っていた冷めたコーヒーが完璧な球体となって飛び出し、フワリと私の顔面に直撃する。
「ぶはっ! ……大家さん、早く直しましょう。急速充電、すぐできますか?」
「簡単ですよ。ゲートに正規の電力をお腹いっぱい食べさせれば、重力は吐き出してくれます。さあ、行きますよ!」
そこからは大騒ぎだった。
大家さんが持ち出した、送電線かと思うほど極太の充電ケーブルを、ビリー君が第一ゴムの『山吹色』の長靴で掴もうとした。
しかし、厚底ゴム長靴では、直径10cmはあろうかというケーブルをしっかりとホールドできない。
ビリー君は「Namoose……( あぁ……もう…… )」と不満げに鼻を鳴らすと、渋々と長靴を脱いだ。
そして、その大切な長靴を両手で私に捧げるように差し出し、切実で真剣な金色の眼差しで訴える。
「Vamoose!( キャプテン、僕ちゃんの宝物を守ってくれ! 傷一つ付けるなよ! )」
私は呆れながらもその長靴を受け取った。
ビリー君は生脚(素足)になると、鋭利な爪でケーブルをガッシリと掴み、そのままビリー・ハイウェイの暗闇へダイブした。
普段は地面を走ることしかできないヴェロキラプトルだが、この無重力空間においては、その身のこなしは完全に『空を舞う鳥』のようだった。翼(オレンジ色の羽毛)を夏の風になびかせ、優雅に地底へ潜行していく。
地下40m。ゲートへの接続が完了した。
数分後。ビリー君が螺旋階段を勢いよく駆け上がってきた。無重力を利用して、まるでロケットのように茶の間へと飛び込んでくる。
彼は私の元へ直行すると、私が抱えていた大切な長靴を受け取ろうと、空中を泳いで手を伸ばした。
大家さんがジェット機のコックピットに並んでいるようなスイッチを次々とオンに入れると、山悟荘の床下から地熱発電所のタービンが唸りを上げ始めた。
うむぅ、台所のあの壁にそんな機器が組み込まれていたとは……この家にはまだ他にも隠されたスイッチが多々あるのかもしれない。
ブォォォォン……!!
ゲートが青白く輝き、貪欲に電力を飲み込んでいく。
世界が、スローモーションに切り替わった。
フワリと浮いていた体が、見えない巨大な手に引かれるように、床へと引かれ始める。
ビリー君の手は、あと数センチのところで長靴に届かない。彼の金色の瞳が、恐怖に染まっていくのが見て取れた。
私は自分が落ち始めるのを感じながら、「衝撃に備えろ!」と叫び、抱えていた山吹色の長靴をビリー君の方へと強く押し出した。
空中で長靴を受け止めたビリー君はそれを愛おしそうに抱きしめ、恐怖の顔が一瞬にして、幸せそうな微笑みへと変わる。……そのまま、彼は幸せな顔で床へと落下していった……。
ズシン!
通常速度に戻った世界で、ビリー君は完璧な180度ひねりを決めて、床へ鮮やかに着地した。
おまけに、床にトスンと着いたその足には、すでに寸分の狂いもなく、完璧に長靴が履かれているではないか。
一方、長靴を押し出した反作用で天井まで上りつめた私の巨体は重力から逃れる術もなく、コーヒーをぶち撒けながら床へ激突した。
床に倒れ伏した私の顔と、周囲の床へ、宙に浮いていたコーヒーの残骸が無慈悲に降り注ぐ。まあ、映画のファイナル・デッドなんちゃらシリーズのような残酷で悲惨な最期にならなかっただけマシだと思うしか無い。
「……うぅ……」
ビリー君はドヤ顔で長靴を履いた足を見せつけながら、私の隣に立った。そして、どこからか(おそらくマイルームから)持ってきたタオルを、私の顔に差し出した。
「Vamoose( 僕ちゃんの長靴を汚さないでくれる? 汚したら許さないぜ、キャプテン )」
「あーあ……。いいかいビリー君。これからはゲートの無駄遣いは厳禁だ。ちゃんと自分の足で歩きなさい。スロープを登るのもいいトレーニングだろ?」
私がタオルで顔を拭きながら言い聞かせると、ビリー君はニヤリと生意気に口角を上げた。
彼は長靴を履いた脚をパァン! と叩き、その上の、鋼のように引き締まった太ももの筋肉を見せつけた。
「Vamoose!( 僕ちゃんの脚力を甘く見るなよ! この長靴を履いてこそ、最強のエンジンが完成するのさ )」
その顔は誇らしげに語っていた。無重力の浮遊感も悪くはなかったが、やはり大地を力強く踏みしめてこそ、最強の捕食者としての本能が昂るらしい。でも、長靴にそこまでこだわらなくても、とは思う。
「Vamoose( じゃ、僕ちゃんはマイルームのお片付けがあるから、あばよー )」
ビリー君はデッドプールばりの軽口を残すや否や、疾風の如く地下の白亜紀ジオ・フロントへと去っていくのであった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話も、山悟荘でお待ちしております。




