第94話「真夏のグルーミング・サロン」
卯の花。またの名を「おからの炒り煮」。
それは地味ながらも滋味深く、食物繊維の塊であり、作り手の愛と根気、そして腕力が試される家庭料理である。
私は今、台所のシンクの前で、昨晩からボウルに浸しておいた肉厚の干し椎茸、ドンコを見つめていた。北海道弁で言うところの、「うるかして」おいたやつだ。
標準語で言えば「水に浸してふやかす」という意味だが、道産子にとって「うるかす」という言葉には、単に水を吸わせる以上の、「美味しくな〜れ」という待機時間を慈しむ温かい響きがある。
準備は万端だ。
私は包丁を手に取り、極太の腕でゴボウのささがきを始めた。シュッ、シュッ、とリズム良くささがきを作りながら、ふと茶の間に目を向ける。
そこには、異様な光景があった。
長椅子で丸まっているビリー君の羽毛が、いつもなら落ち着いたオレンジ・ブラウンなのに、今朝はどういうわけか燃えるようなゴールデン・オレンジにテカテカと輝いているのだ。まるで高級スポーツカーの塗装のような、尋常ではない深みとツヤ。換羽の時期でもないのに、一夜にしてフル・モデルチェンジしたかのようだ。
「Vamoose〜♪(今日の僕ちゃん、超イケてるぜ〜♪)」
ビリー君はすこぶるご機嫌で、尾の付け根にある「尾脂腺」から出るオイルをクチバシにつけ、全身の羽毛に丹念に塗りたくっている。
私はゴボウを水に晒しながら、そのド派手な変化を横目で見ていた。まあ、本人が楽しそうだからいいか。私は50代の寛容さで視線をまな板に戻した。
次は人参、こんにゃく、油揚げを細かく刻む。そして彩りの要である「ナルト」だ。
冷蔵庫を開ける。……ない。
あるはずのナルトが見つからない。昨日、ビリー君が夜食にラーメンをねだってきた時に、私が気前よく全部乗せて使い切ったんだった。
……仕方ない、今日はちくわで我慢しよう。
重い中華鍋を熱し、油を引く。ここは健康を考えて「米油」にするか、旨味とコクが出る「サラダ油」にするか。一瞬の激しい葛藤の末、少しでも悪玉コレステロールを気にして米油を選んだ。
具材を炒め、火が通ったところで、椎茸を戻し汁ごと一気に投入する。
ジュワァァァ……ッ!
台所に濃厚な出汁の香りが立ち上る。そこへ、地下での水質分析結果をまとめた手帳を持って、大家さんがやってきた。
「アキラさん、ビリー君のド派手な変化の原因がわかりましたよ」
「やっぱり、何か皮膚の病気ですか?」
私は重い鍋を力強く煽りながら尋ねた。
「いえ、むしろ逆なんですよ。先日発見したあの地下100メートルの地底湖の水です。あれに含まれる発光微生物が、ビリー君の強靭な腸内細菌と奇跡的な化学反応を起こして、尾脂腺のオイルを天然の『超・高撥水・蛍光コーティング剤』に変質させたようです。これぞ生命の神秘、だと思いませんか?」
大家さんは手帳を開き、ボールペンで追記しようとした。
カリカリッ。
だが、インクが出ないらしい。
「おや? ……あれ、このペン、書かさりませんねぇ。地下との寒暖差でやられたかな。どうも書かさらない」
「書かさらない」。
これは「書けない」とは微妙に違う。「書こうと努力しているのに、道具の不調のせいで自分の意志とは無関係に達成されない」という、北海道弁特有の不可抗力と少しの言い訳が混ざった絶妙なニュアンスだ。
大家さんは苦笑しながら、新しいペンを取り出した。
その時、開けていた窓からチュンちゃんの二羽の若鳥たちが乱入してきた。
彼らは黄金に輝くビリー君を見るなり目の色を変え、「チチッ!(僕ちゃんも!)」「チチチッ!(僕ちゃんも!)」と群がった。
ここから、茶の間にて「カリスマ美容師ビリーの、真夏のグルーミング・サロン」が開店した。
ビリー君は口先に特殊オイルをつけ、スズメたちの羽毛を一本一本、親鳥のようにツヤツヤの黄金色に仕上げていく。
私は鍋に調味料を投入する。酒、みりん、砂糖。そして醤油は絶対にこれだ。「トモエ」の日高昆布しょうゆ。
北海道の家庭の味は、この丸みのある甘い醤油なくしては語れない。香ばしい匂いが立ち上り、茶の間の「美容室」から漂う野性的な匂いと混ざり合う。
仕上げに、おからを大量に投入する。具材と煮汁の旨味を一気に吸わせ、コク出しの揚げ玉と刻んだちくわを加える。
ここからは腕力と時間との勝負だ。焦げ付かないように極太の腕で鍋底から休みなく混ぜ続け、水分を飛ばしていく。
勢いよく混ぜていると、刻んだ人参の欠片が一つ、ポロリと床に落ちてしまった。
私は足元でくつろいでいた、体長13ミリのアダンソン先輩に声をかける。
「先輩、悪いけどそれ、投げといて」
「投げる」。
もちろんボールのように投擲するわけではない。「ゴミ箱へ捨てる」という意味だ。
生粋の道産子である先輩は心得たもので、落ちた人参を二本の前脚でひょいと抱えると、弾薬を運搬する兵士のような、一切の無駄がないタクティカルな動きでゴミ箱の方へトコトコと運んでいった。
そうして完成した、山盛りの卯の花。
火を止めて一息つくと、窓の外はすっかり暗くなっていた。私が台所の電気を消すと、茶の間は一瞬にして「幻想的な空間」へと変わった。
どういう訳か、暗闇の中でビリー君とスズメたちが、エメラルドグリーンに発光しているのだ。彼らが動くたびに、空中に淡い光の軌跡が残る。
それは、大家さんのどんなオーバーテクノロジーな発明品よりも美しく、そして少し笑える、一夜限りのプライベート・プラネタリウムというところか。
「Vamoose!(へへっ、最高に綺麗だろ! 僕ちゃん光り輝いてるぜ!)」
暗闇の中で、全身を発光させた恐竜が得意げにポーズを決める。
私はその美しい光景に一瞬見惚れたが、56歳の主夫として、現実的な仕事が残っていることを思い出した。
この大量に作りすぎた熱々の卯の花を、安全に冷やさなければならない。今は食中毒が怖い真夏だ。
だが、山悟荘には秘密兵器がある。
私はタッパーの山を抱え、玄関の土間から通じる納戸を改造した「地下水循環型・保冷納戸」へと向かった。
私と大家さんが共同設計した、広さ10畳ほどの間取りだ。分厚い断熱材入りの重厚な木の扉を開けると、ひんやりとした冷気が全身を包む。
壁の中には、地下水脈から汲み上げた極冷の地下水を循環させるパイプが張り巡らされており、室温は常に大型冷蔵庫と同じ5度くらいに保たれているのだ。
電気代ゼロ、完全エコな巨大冷蔵庫である。
私はタッパーを木製の棚に並べた。これで一晩じっくりと冷やせば、出汁の味が中までしみて最高のおかずになるはずだ。
茶の間の方からは、まだ楽しげな鳥たちの声と、引き戸の隙間から漏れ出る淡い緑の光が見える。
彼らのサイバーな夜はこれからが本番のようだが、私の本日の調理業務はこれで終了だ。
静寂と冷気。そして、出汁のよく染みた卯の花の匂い。
私は56歳の疲れた腰をトントンと叩きながら、納戸の重い扉を静かに閉じた。




