第9話「雪まつりと、ジャングルの小さな先輩」
私は虫眼鏡を片手に、台所の隅に置いた水槽を眺めていた。ガラスの表面には、この秋に生まれたばかりのマルタニシの赤ん坊たちが張り付き、あるものは水面に浮かんでゆっくりと流れている。その小さな命の鼓動を観察するのが、最近の私の密かな日課だ。
茶の間のテレビからは、賑やかなファンファーレが流れてきた。画面には、札幌の大通公園に並ぶ巨大な雪像たちが映し出されている。
『今日から「さっぽろ雪まつり」が開幕です! 陸上自衛隊が制作した大雪像は、今年も圧巻の迫力です――』
華やかなニュースを耳にしながら、私は去りし夏の苦い記憶を反芻していた。外に置いておいたメダカのビオトープ。ある朝、無残に荒らされ、泥水だけが残ったあの光景。そこには噛み砕かれたマルタニシたちの無残な残骸が転がっていた。
犯人は間違いなくラスカルだ。愛くるしい外見とは裏腹に、非常に凶暴で、在来種を捕食して生態系を破壊する「北の侵略者」アライグマ。あの虐殺の現場で、たった一匹、奇跡的に生き残った雌のマルタニシの繋いだ命が、今、この水槽の中で平和な時を刻んでいる。
私はコーヒーを片手に、テレビの前に座った。画面の中では、自衛隊員が削り出したティラノサウルスの雪像が、圧倒的な威容を誇っている。ビリー君は最前列でそれを食い入るように見つめ、喉の奥で「Guu...」と唸った。
「大丈夫だ、あれは雪の塊だよ。本物じゃない」
解説してやっても、彼は納得いかない様子で首をかしげるばかりだ。
外は氷点下の祭りだが、我が家は設定温度二十五度の常夏である。平和な午前中、ふとビリー君の動きが変わった。モンステラの鉢植えの方へ、音もなく顔を向ける。瞳孔が針のように収縮した。「ロックオン」の目だ。
(……またカメムシか?)
私は緊張した。最近、この家には正体不明の何かが潜んでいる確信があったが、その姿を捉えたことはまだない。ビリー君は匍匐前進の姿勢でモンステラに近づく。私も息を殺し、その後ろから覗き込んだ。
巨大な葉の上。そこに、「彼女」はいた。
わずか七〜八ミリの、黒い小さな体。頭部には三日月のような白い模様。そして、正面にある二つの大きなつぶらな瞳。アダンソンハエトリグモだ。その成熟した風格と堂々たる佇まいからして、おそらくビリー君が来るずっと前から、この家を守ってきた先住者に違いない。
彼女の姿をじっと見つめていると、昨夜観た映画『エイリアン2』の女性兵士、バスケスが脳裏をよぎった。自分の何倍もある化け物を相手に、バンダナを巻き、巨大な重火器を抱えて最前線に立つ、あの恐れ知らずの古参兵だ。目の前の小さなハンターも、自分より何万倍も巨大な恐竜を前に、一歩も退く気配がない。
ハエトリグモはパッ、パッと両方の前脚(触肢)を掲げてみせた。
「よう、新入り。暴れるんじゃないよ。秩序を乱すなら、私が相手だ」
まるでバスケスが新兵を検閲するように、冷徹で気高い挨拶だった。
その時、一匹のコバエが迷い込んできた。ハエトリグモが身を沈める。
次の瞬間、彼女のスイッチが入った。
ただの虫の捕食ではない。私の脳裏に「Let's rock!(やってやるぜ!)」という野太いシャウトが響いた気がした。
腰だめに構えたスマートガンをぶっ放すような、血湧き肉躍るロックでハードボイルドな制圧機動だ。視認不可能な速度で弾丸のように跳躍し、空中で標的を粉砕( キャッチ)。そのまま反動を殺すように安全確保の糸( ドラッグライン)を引き、重装甲の海兵隊員のようにドスンと下の葉へ着地する。
アライグマのような野卑な暴力ではない、仲間と家を守るために磨き上げられた「職人」の暗殺術だった。
「Vamoose(ヒャッハー! すげぇや! あの姐さん、マジモンの殺し屋じゃん! バンダナ巻いたバスケスみたいに超クールだ! 僕ちゃん、すっかり痺れちゃったよ!)」
ビリー君が興奮のあまり感嘆の声を漏らす。あざとい生意気さを吹き飛ばすほどの、強者への純粋なリスペクトだ。
「ビリー君。多分、彼女はお前よりずっと前からこの家に住んでいたんだろうな。だから……『アダンソン先輩』で決まりだな。敬意を払えよ」
私が諭すと、ビリー君は激しく同意するように喉を鳴らし、深く頭を下げて一歩下がって座り直した。先輩は一度だけ八つの瞳を我々に向け、それから何事もなかったかのように、茂みの奥へと消えていった。
この家のヒエラルキーが書き換えられた瞬間だった。
アダンソン先輩 > ビリー君 > 私……。
テレビでは雪まつりの熱気を伝えているが、この暖かい茶の間のジャングルでも、種族を超えた二匹のハンターによる、静かで熱い「戦友の誓い」が交わされていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。
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次話も、山悟荘でお待ちしております。




