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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第1章:山悟荘の不条理 ―― シシュフォスの幸福と茶の間
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第8話「ジャングルの王と、中華スープの謎」

この古民家は、外見こそ雪に埋もれた築数十年の日本家屋だが、内部のシステムは私の手によって徹底的に「スマートホーム化」されている。


照明の調光から室温管理、玄関の施錠にコーヒーメーカーの予熱まで、すべて自作サーバーと音声コマンドで制御可能だ。指一本動かさず、声だけで万事が片付く環境。ここには、私が理想とした未来的な隠れ家がある。


さらに、茶の間のジャングル化に伴い、「生物的セキュリティ」も導入した。


モウセンゴケ(ドロセラ)だ。


葉の表面にネバネバした粘液を輝かせる食虫植物を各所に配置し、湿気を好むコバエなどの害虫を自動的に排除する。キラキラと光るその姿は、ジャングルの宝石のようで実に美しい。


しかし、たった一つだけ、私が意固地になってシステムから外している家電がある。テレビだ。正確には、テレビのリモコン操作だけは絶対に自動化したくない。


私は映画が好きだ。週末の夜、照明を落として長椅子に深く腰を沈め、リモコンの電源ボタンを親指で押し込む。あの「カチッ」という物理的な手応えこそが、現実から物語の世界へダイブするための厳かな儀式(イニシエーション)なのだ。


「OK Google、テレビをつけて」なんていう軽い言葉で済ませていいものではない。


だが、そのこだわりが仇となった。茶の間が植物で溢れかえってから、私は毎日その「聖なる鍵」を探して彷徨う羽目になったのだ。


「……ない。儀式が始められない」


モンステラの巨大な葉をかき分け、モウセンゴケの粘液に袖がつかないよう畳の上を這いつくばっていると、茂みの奥からカサカサと音がした。


ビリー君だ。彼は今、部屋の隅に形成された「気根(きこん)のトンネル」をパトロールしている。


「ビリー君、お前知らないか? 黒くて細長い、私の大事な棒だ」


問いかけると、彼は茂みからひょいと顔を出した。その口元には、銀色に光る小さな小袋をくわえている。


……あれは、「やきそば弁当」の付属中華スープの粉の袋?


北海道民のソウルフード「焼き弁」。捨て湯で作るあの中華スープは美味いが、急いでいる時などに取っておいた粉末スープが、台所の引き出しに無限に溜まっていくのは道民の不治の病だ。


(まさか、あれをコレクションしていたのか……カサカサする音が気に入ったのか?)


「……それはあげるから。リモコンだ、リモコン」


私が四角い形をジェスチャーで見せると、彼は大事そうにスープの粉を足元に隠し、深く考え込むように首をかしげた。


そして、彼は「ジャングルの王」としての威厳を持って動き出した。


ビリー君はジャングルの中を、音もなく移動する。3本の爪を浮かせ、巨大な葉を一枚も揺らすことなく、緑の海を泳ぐように進んでいく。


何もない板張りの床では滑って転ぶこともある彼だが、この複雑な障害物に満ちた環境では、驚くほど合理的で美しい動きを見せる。さすがは白亜紀のハンターだ。


ビリー君は冷蔵庫の横に置かれた大きな鉢の裏、私のサーバー機の排熱で暖かい特等席に鼻先を突っ込み、何かを器用に引っ張り出した。


「……あ、それだ!」


彼の鼻先の上には、紛れもなくテレビのリモコンが乗っていた。暖を求めて潜り込んだ際、私が置き忘れたリモコンも一緒に「巣作り」の材料にしていたらしい。


彼の手柄はそれだけではなかった。リモコンと一緒に、先週失くしたタッチペンと、いつの間にか落ちていたゆで卵の殻、さらに3袋ほどの「焼き弁の中華スープ」も発掘されてきた。


「……ありがとう。助かるよ」


私がリモコンを受け取ると、ビリー君は満足そうに胸を張り、あの渋い声で言った。


「Vamoose(ヴァムース)(へへっ、執事の探し物は僕ちゃんにお任せだぜ! この黄金の粉末スープは成功報酬として頂いとくからな!)」


どうやら、ハイテク機器で管理されたこの家の中で、物理的な「モノ」の管理権限は彼に移りつつあるようだ。


だが、彼の活躍はこれだけでは終わらなかった。


その日の午後、私は台所で一匹の大きなハエを見つけた。ハエはモウセンゴケの粘液に近づいた。


(よし、そのまま捕まれ……!)


だが、ハエはあざ笑うかのように葉をかわして飛び去ろうとした。植物の罠は、受動的すぎるのだ。


その時、緑の影が弾けた。


ビリー君だ。


彼は茂みから弾丸のように飛び出すと、空中で一回転。電光石火の早業で、ハエを空中で……仕舞った。


「あ……」


着地した彼は、何事もなかったかのように口をもごもごさせている。私と目が合うと、少しだけ気まずそうに目を逸らし、再び茂みの奥へと消えていった。


探し物を見つけてくれる名探偵。食虫植物より高性能なガーディアン。そして、中華スープの粉を溜め込む小さな収集家。


「……まあ、いいか」


私はリモコンを手に取り、その程よい重みを掌で愛でてから、親指で電源ボタンを深く押し込んだ。


カチッ。


心地よい感触と共に、緑の葉の隙間から映画のオープニングが流れ始める。


最高の映画鑑賞だ。茂みの奥では、ジャングルの王が私の靴下とスープの粉を枕にして、満足そうに寝息を立て始めていた。

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