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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第1章:山悟荘の不条理 ―― シシュフォスの幸福と茶の間
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第7話「冬のジャングルと、見えざる捕食者」

北海道の冬。


外は極寒の氷雪世界だが、断熱気密のしっかりした家の中は、実は本州の家よりも遥かに暖かい。我が家の設定温度は25度。人間にとっても、恐竜にとっても、そして彼らにとっても、ここは楽園だ。


――茶の間を占拠する、観葉植物たちである。


私は霧吹きを手に、モンステラの巨大な葉にシュッシュッと水を吹きかけていた。いわゆる「葉水(はみず)」だ。


北海道の冬の室内暖房は強力だが、その分、空気が異常に乾燥する。湿度計を見れば30%を切ることもザラだ。この乾燥は植物にとって最大の敵で、葉が丸まり、ハダニなどの害虫が湧く原因になる。だからこうして、毎日葉っぱに潤いを与えてやる必要がある。


「……気持ちいいか?」


モンステラに話しかけていると、葉の陰からビリー君がぬっと顔を出した。


霧吹きのミストが顔にかかると、彼は目を細めてうっとりとした表情を見せる。


「Vamoose(ヴァムース)(……ああ、最高。砂漠の喉が潤うようだぜ、執事)」


どうやら彼も乾燥肌が気になっていたらしい。私はついでに、彼のアンズ色の羽毛にも軽くミストを浴びせてやった。


その時だった。


ブォン……という、重たくて不快な羽音が静寂を破った。


私とビリー君の動きが止まる。視線を巡らせると、天井近くの白い壁に、茶色くて平べったい、五角形の虫がへばりついていた。


カメムシだ。


カメムシ。それは北海道民にとって、ある意味でヒグマ以上に厄介な冬の同居人。わずか数センチの体に、神経を逆撫でする羽音と、一撃必殺の化学兵器(悪臭タンク)を搭載した、最悪の越冬者だ。ゴキブリのいない北海道において、彼らこそが室内害虫の頂点に君臨する「魔王」なのである。


運悪く家の隙間に入り込んだ個体が、室内の暖かさで勘違いして冬眠から覚めてしまったらしい。


ビリー君が即座に反応した。狩人の目になり、壁に向かってジャンプしようと腰を落とす。


「待て! やめろ!!」


私は叫んだ。もし彼が噛みついたり、爪で潰したりしたら、この家は数日間、腐ったパクチーと古雑巾を煮込んだようなバイオハザード状態になる。


「そいつは食べ物じゃない! 毒ガス兵器だぞ!」


必死の制止に、彼は「毒ガス」という物騒な響きを警戒したのか、動きを止めた。その隙に、私は捕獲用のガムテープとティッシュを取りに走った。


目を離したのは、ほんの10秒ほどだ。


戻ってくると、壁に魔王の姿はなかった。


「……あれ?」


飛んだのか。私は床を這いつくばり、長椅子の下やカーテンの裏を探した。ビリー君も一緒になって、クンクンと匂いを嗅いで探してくれる。


だが、いない。あの不快な羽音も消え、臭いもしない。つまり、暴発もしていないということだ。


「……どこ行った?」


ふと見ると、ビリー君がモンステラの鉢植えの奥、葉が密集して暗くなっている一点をじっと見つめて固まっていた。近づこうとしない。むしろ、一歩下がって警戒している。


私は懐中電灯を持って近づき、その葉の裏を照らした。


「……うわ」


そこには、カメムシがいた。モンステラの気根(きこん)に引っかかるようにして、ぶら下がっている。


だが、様子がおかしい。私はピンセットで、そっとその体を摘まんでみた。


――カサッ。


あまりにも軽い。まるで紙細工か、枯れ葉のようだ。光にかざしてみると、五角形の体の輪郭はそのままなのに、中身が透けていた。


完全な空洞。


さっきまで元気に飛び回っていた魔王が、わずか数分で、内臓や筋肉をきれいに抜き取られて「ミイラ」にされていた。


ぞわり、と背筋が寒くなった。


獲物に消化液を注入し、ドロドロのスープ状に溶かして残さず啜(すす)る……「体外消化」の痕跡。


音もなく忍び寄り、一瞬で急所を突き、悲鳴を上げる間もなく中身を飲み干す。そんな凄腕の暗殺者が、この緑のジャングルのどこかに潜んでいる。


ビリー君は、そのカメムシの残骸を遠巻きに見つめ、微かに震えながら鼻を鳴らした。


「Namoose(ナムース)(……ヤバいぜ。執事、この家には僕ちゃんよりヤバい殺し屋が潜んでる)」


彼は本能で理解したらしい。自分よりもはるかに小さく、しかし自分にはない「凶悪な手口」を持つ捕食者が、すぐ近くにいることを。


「……味方だと思いたいね」


私は残骸をティッシュに包んだ。指先で潰すと、パリパリと乾いた音がした。


モンステラの葉が、わずかな空気の流れで揺れる。


その奥の暗闇から、得体の知れない何かがこちらを静かに見据えているような気がして、私は思わず身震いをした。

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