第6話「ラプトル、アンズ色の弾丸と静電気」
朝、二重窓の分厚いカーテンを開けると、世界が物理的に一段階、底上げされていた。
一晩で50センチ。札幌の山間部である壱拾六軒では珍しくないが、朝の絶望を誘うには十分すぎる積雪量だ。
外の気温はマイナス15度を下回っているだろう。空中の水分すら凍りつく、いわゆる「しばれる」朝だ。
(……やれやれ。まずは家を掘り出す作業からスタートか)
私は気合を入れ直し、フリースの上に防寒着を着込み、ニット帽を目深に被って玄関へ向かった。
ビリー君も当然のように、自分専用のオレンジ迷彩の特注ダウンジャケットを口にくわえて持ってきて、「着せろよ」とせがんでくる。彼にとって、この大量の雪は生活を脅かす障害物ではなく、最高にエキサイティングなアトラクションらしい。
玄関フードで、私は小樽の名門「第一ゴム」の長靴を履き、ビリー君にも山吹色の特注長靴を履かせた。長靴の先から鋭い鉤爪が突き出ているのを確認し、フードのサッシを開けた。
そこには、完全に白い壁と化した世界が待ち構えていた。
玄関フードで長靴に履き替えるのは土間が雪で濡れるのを防ぐためであり、外扉が引き戸なのは積雪でドアが塞がれるのを防ぐためだ。北国の理にかなった構造だが、この絶望的な白い壁を前にしてはため息しか出ない。
私は物置から、北海道の家庭における最強の近接兵器を取り出した。
巨大なプラスチック製のソリに、頑丈な鉄パイプの持ち手がついたもの。通称「ママさんダンプ」だ。
私の体格なら、より大型の「パパさんダンプ」でも良かったが、この雪の重さを考えると腰への負担は尋常ではない。
私が赤いダンプを雪山に突き刺し、丸太のような腕と体重をかけてググッと押し込むと、横で見ていたビリー君の瞳が爛々と輝いた。
「Gua...(おお……執事、そいつは新しい召喚獣か?)」
真っ赤な巨大プラスチックの塊が雪を食い破る姿が、彼の目には新たな「獲物」か、あるいは頼もしい「相棒」にでも見えたのか。
私がダンプいっぱいに雪を積み、凍った雪面を滑らせて崖の下へザザザーッと豪快に投棄する。そのダイナミックな動きと雪煙に、彼の興奮スイッチは完全に振り切れた。
二往復目。
私がダンプを押していると、横からアンズ色( オレンジ)の弾丸が突っ込んできた。
ビリー君が、ダンプの中の雪山に頭からダイブしたのだ。
「おい、重い!」
雪の重量に、筋肉の塊であるラプトルの体重。私の腰にパキッと嫌な激震が走る。
だが、彼はお構いなしだ。ダンプの中で雪を掘り返し、尻尾を振り回して大喜びしている。動くソリの上に乗るという行為が、彼のスピード本能を強烈に刺激するらしい。
「……そんなに乗りたいなら、専用のを出してやるよ」
私は物置の奥から、もう一つの「神器」を引っ張り出した。
青いプラスチック一体成型の、ただの舟のようなソリ。「ボブスレー」だ。
ブレーキもなければハンドルもない。あるのは左右の取っ手と、引っ張るための黄色い紐だけ。止まりたければ自ら雪に突っ込んで転ぶしかないという、乗り手の技量と勇気が試されるスパルタな乗り物である。
雪坂の上にソリを置くと、ビリー君は「これだ!」と言わんばかりに飛び乗った。サイズはあつらえたようにぴったりだ。彼は巨大な後ろ足で姿勢を整え、長い尻尾を舵のように後ろへ流して完璧なバランスを取った。
「Vamoose(……ヒャッハーー! 地獄の果てまで全速前進だぜ!)」
私が背中を強く押した。
シューーーッ!
硬く締まった雪面を、青い船が滑走していく。
重力に従って加速する一方のソリの上で、彼は巧みに重心を傾け、尻尾を使って見事にコースを修正していく。風を切るその顔は、獲物を追うハンターそのものだった。
「Kyarururu!(僕ちゃん最高ーー!)」
奇声を上げ、雪山のコブで大ジャンプを決めた彼は、そのまま新雪の壁の中へと突っ込んでいった。
真っ白な雪煙が上がり、青いボブスレーだけがポンッと宙を舞う。
雪まみれになって顔を出した彼は、キラキラした瞳で叫んだ。
「Vamoose(……もう一回! おかわり、おかわりだ執事!)」
除雪が終わる頃には、私は汗だく、彼は遊び疲れて大満足という状態だった。
家の中に入ると、ストーブの熱気で室温は25度近い。
外の氷点下の空気を暖めると、湿度は砂漠並みに低下する。私のフリース、彼のナイロン製ダウン、そして豊かな羽毛。すべてのフラグは、最悪の形で揃っていた。
私が彼のダウンのジッパーを下ろした瞬間、「パチパチ……」と嫌な音が静かな土間に響いた。
ダウンを脱ぎ捨てたビリー君の全身を覆うアンズ色の羽毛は、摩擦による静電気を限界まで溜め込み、見事なまでに逆立っていた。まるで巨大なオレンジ色のタンポポの綿毛だ。元の体積の1.5倍には膨れ上がっている。
「Namoose(なんだこれ……僕ちゃん、浮いてる? 体がフワフワするぞ……?)」
彼が不思議そうに首を傾げたその時、乾いた破裂音と共に、青白い閃光が走った。ラプトルの尻尾が、金属製の傘立てに触れてしまったのだ。
バチィッ!!
「Gyaa!!(ぎゃあああ! 敵襲だ!敵襲だー!)」
再び飛び上がるラプトル。
彼が恐怖の涙目で私を見つめたその時、私が差し出した指先からも「パチッ」と小さな閃光が走った。
「Vamoose(嘘だろ……信じてたのに! お前も敵の仲間だったのかよ!!)」
絶望の表情を浮かべ、もっふもふに膨らんだまま玄関の隅で震え始めるビリー君。
「ち、違うぞビリー君。これは物理現象だ!」
必死に弁解したが、疑心暗鬼の塊となった綿毛恐竜には、どんな言葉も届かなかった。
その日一日、彼が私の半径1メートル以内に近づくことはなかった。
私はそ〜っと部屋の隅の加湿器を最大出力で稼働させた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。
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次話も、山悟荘でお待ちしております。




