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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第1章:山悟荘の不条理 ―― シシュフォスの幸福と茶の間
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第5話「シマエナガとの交渉決裂」

南向きの縁側は、今や巨大なモンステラの鉢植えと、山のような洗濯物で埋め尽くされている。


北海道の冬、洗濯物を外に干すのは自殺行為だ。濡れた布が一瞬で凍りつき、板のような凶器に変わるからだ。ゆえに、この季節は「完全部屋干し」が鉄則となる。


加湿器代わりの湿気と、二重サッシ越しに差し込む柔らかな陽光。ここは極寒の札幌において、私が丹精込めて維持している貴重な亜熱帯ゾーンだった。


(二重サッシが寒冷地仕様であるということを知ったのは、初めて東京に行った20代前半の時だった)


私が換気のために、ほんの数センチだけ窓を開けた時だ。その隙間から漏れ出る室内の暖気を求めてきたのか、一羽の小鳥がサッシのレールにちょこんと止まった。


真っ白で、ふわふわの球体。そこに長い尾羽が一本。


シマエナガだ。


北海道にのみ生息する「雪の妖精」。冬になると羽毛を空気で膨らませ、真っ白な大福のようになるその姿は、写真集が出れば即完売するほどの絶対的アイドルである。


私の動きが止まった。隣にいたビリー君の動きも、同時に止まった。私たちは並んで、その小さな訪問者を凝視した。


シマエナガが首をかしげ、こちらを見る。真っ白な大福餅のような顔の中に、黒豆を二粒並べたようなつぶらな瞳。計算され尽くした「可愛さ」の暴力が、サッシ越しに炸裂していた。


(……っ! なんてことだ……!)


私は思わず胸を押さえた。おっさんの荒んだ心に、この純白のモフモフは効きすぎる。守りたい。この平穏な大福を、全力で守護したい。しかし、人間の私がこの小さな大福に触れることは叶わない……。


私はだらしなく頬を緩ませ、うっとりとため息をついた。


「……可愛いなあ、おい」


横を見ると、ビリー君も同じ顔をしていた。モンステラの葉陰から、雪の結晶模様のセーターを着た恐竜が、つぶらな『黒(シマエナガ風)』の瞳をさらに潤ませて見つめている。


口が半開きになり、喉の奥から「Gua...(かわええ……)」と漏れていた。


「仲良くできないか、交渉してこい。手は出すなよ」


そう言うと、ビリー君は音もなく立ち上がり、窓の隙間へとにじり寄った。


種族を超えて、可愛いものは正義。私たちは今、至福の時間を共有し――。


その時、ビリー君の喉が、ゴクリと鳴った。


(……ん?)


嫌な予感がして視線を走らせると、彼の目が「うっとり」から「ターゲット捕捉」へ、冷酷な『金(爬虫類風)』へとカチリと切り替わっていた。


まずい。彼にとってあの白さは、「尊い」ではなく「美味そうな大福」に見えてしまったのか!


「Vamoose(ヴァムース)(いただきッ!)」


静かな宣告だった。


シマエナガが首をかしげた刹那、ビリー君の首が電光石火の速さで突き出された。


「あーーっ!」


叫んだ時には、もう遅かった。サッシの上から、雪の妖精の姿は消えていた。


代わりにそこにいたのは、口を固く結び、頬をまん丸に膨らませたラプトルだ。


「……ビリー君」


呼びかけると、彼はゆっくりこちらを振り返った。その口元から、シマエナガの長い黒い尾羽が一本だけ、頼りなくはみ出している。


噛み砕く音はしない。飲み込む動きもない。


どうやら、気に入った「獲物」を誰にも渡さないよう、生きたまま口の中に「しまって」しまったらしい。


(ハムスターか、お前は。さっきの感動を返せ)


「出しなさい。今すぐだ」


手を差し出すと、彼は露骨に目を逸らし、洗濯物のジャングルの奥へずるずると後ずさった。そして、口をもごもごさせながら、無理やり抵抗した。


「Namoose(ナムース)(やだね! 僕ちゃんのお宝だもん!)」


「出しなさい。それは食べ物じゃない、妖精だぞ。誘拐罪で大家さんに突き出すからな」


ビリー君はしばらく私と睨み合っていたが、やがて諦めたように深く溜息をついた。


ゆっくりと口を開ける。


中から、よだれで濡れて羽毛がペタリとなり、一回り貧相になったシマエナガが弾かれたように飛び出した。


シマエナガは「ジュルルッ!!(信じらんね!)」と捨て台詞を上げ、命からがら、雪の積もった庭へと逃げていった。


ビリー君はその軌道を、黒目に戻った悲しい目で見送っている。


バツが悪そうに、口端に残っていた抜け羽を一本、ぺろりと飲み込んだ。


「次は、見るだけ。いいな?」


彼は少し考え、納得いかない様子のまま、それでも小さく首を縦に振った。


どうやら彼には、気に入ったものを「口内に格納して所有する」という、困った収集癖があるらしい。彼は名残惜しそうに、何度も舌を動かして口内の感触を確かめていた。


私は台所から、予備のゆで卵を一つ持ってきた。剥きたての、つるりとした白い卵だ。


「ほら、代わりの白いやつだ。こっちは食っていい」


ビリー君はそれを受け取ると、今度はしっかり噛み、満足そうに喉を鳴らした。


私は深くため息をつき、冷めたコーヒーを一口すすってから、改めて窓の外を見た。縁側には、もう妖精の姿はなかった。


ただ、青々としたモンステラの葉の上に、交渉の痕跡(エビデンス)として白い小さな羽が数枚、静かに落ちていた。

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