↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第1章:山悟荘の不条理 ―― シシュフォスの幸福と茶の間
PR
4/120

第4話「鏡の中のラプトル」

大晦日の朝。


台所からは、甘辛い醤油とショウガ、それに野性味あふれる肉の香りが立ち上っていた。私は寸胴鍋の前に立ち、エゾシカのチャーシューが踊る火加減をじっと見守る。


これは、かつて仕事で世話になった食通の支店長が、酒の肴にと教えてくれた秘伝のレシピだ。鹿肉は脂気が少なくて扱いが難しいが、弱火でじっくりと時間をかけてやれば、驚くほど柔らかく、深い滋味が宿る。支店長はもうこの世にいないが、彼の遺したこの味だけは、こうして私の手元で生き続けている。


ふと足元に視線を落とすと、ラプトルが神妙な面持ちで座っていた。鍋を見上げ、わずかに首をかしげる。その目は、単なる食欲を超えて「この家の主は今、何をしようとしているのか」を真剣に見極めようとしているようだった。


そろそろ、彼を呼ぶための名前が必要だな。いつまでも「お前」や「君」じゃ、これからの共同生活に締まりが出ない。そこで、ついつい出てきたのがこれだ。


「……ビリー君、でどうだい」


最初に覚えたのが西部劇のVamoose(ヴァムース)なら、名前の由来も開拓時代の荒野から持ってくるのが筋だろう。ビリー・ザ・キッド。伝説のアウトローだ。この小さくも食えない相棒には、おあつらえ向きの名前ではないか。それに、このどこか憎めない同居人には、君付けくらいの距離感がちょうどいい気がした。


「ビリー君」


改めて呼ぶと、彼は一瞬だけまばたきをした。それから、誇らしげにノルディック柄のセーターの胸を少しだけ張ったように見えた。


(名前が気に入ったか。それとも、私の手編みセーターが気に入ったのか?)


「今日からお前さんは『ビリー君』だ。よろしくな」


確認するように言うと、彼は小さく喉を鳴らした。


「Vamoose(ヴァムース)(僕ちゃん、今日からビリー・ザ・キッドってわけ? 悪くない、最高にクールな名前だぜ!)」


コンロの火を落とし、味を落ち着かせるために鍋を休ませる。その隙に、新年を迎える儀式として奥の座敷の掃除に取りかかった。ビリー君も、鉤爪が畳を傷つけないよう爪先を浮かせた忍び足で、私の後をついてくる。


この部屋は陽当たりが良く、冬場はモンステラたちの格好の避難場所だ。その隅に、この山悟荘(さんごそう)に元々置かれていた古い姿見がある。掃除のついでに、私がその姿見にかけられた布をめくった時だった。


ビリー君の動きが、ぴたりと止まった。


鏡の中に、自分と瓜二つのラプトルがいる。しかも、自分と同じ「幾何学模様のノルディックセーター」を着た、得体の知れないヤツだ。古い鏡が映し出すわずかな歪みが、相手の表情をより不気味に、より挑発的に見せているのかもしれなかった。


ビリー君は石像のように固まった。重心を低く落とし、じっと鏡の奥を睨みつける。


ゆっくりと顎を上げた。それは明らかな挑発だ。鏡の中のライバルも、寸分狂わず同じ角度で顎を跳ね上げた。


「……喧嘩はやめておけ。それは自分だ」


忠告したが、今の彼に私の言葉は届かない。彼は鏡の中の自分を、一対一の決闘相手として完全にロックオンしていた。一度だけまばたきをし、わずかに間を詰める。鏡のラプトルも、同様に迫ってくる。ビリー君の喉の奥から、低く鋭い唸り声が漏れた。


(まずいな。これはやる気だ。暴れられる前に止めなければ)


だが、私の手が届くよりも早く、ビリー君は弾丸のように鏡へ向かって跳んだ。鼻先をぶつけるような捨て身の一撃。


――コン。


乾いた音が、静かな座敷に虚しく響いた。古い木枠がガタッと震え、冷たいガラスの感触だけが彼の鼻先に残る。


畳の部屋に、耐えがたいほどの気まずい沈黙が降りてきた。


ビリー君は鼻先を鏡に押し付けたまま、数秒間フリーズした。確かな手応えのなさと、鼻の奥を抜ける冷気。ようやく状況を把握した彼は、ゆっくりと体を離し、上目遣いで私を見た。


その顔には、隠しようのない「羞恥」が浮かんでいる。知能が高いからこそ、自分の失態を客観的に理解してしまったのだろう。


「……ビリー君?」


彼は私の視線を避けるように、畳の上にある大きなモンステラの鉢植えの陰へと滑り込んだ。大きな葉の裏に鉤爪を折り畳み、丸まって石のようになる。そして、固く目を閉じた。


――寝たふりか。


(なかったことにしたいんだろうな。OSを再起動してメモリーを消去するように)


規則正しい寝息の演技は完璧だが、畳に放り出された尻尾の先が、「今のナシ! 今のナシ!」と叫ぶようにパタパタと小刻みに震えている。


私は鏡に映る自分の顔を見た。ニヤニヤするのを抑えようとして、ひどく歪な表情になっていた。


「……まあ、いいさ。夜にはご馳走が届くからな。そうクサるなよ」


夕方。インターホンが鳴った。


届いたのは、予約しておいた御料理仕出し大丸(おりょうりしだいまる)のおせちだ。奮発して頼んだ、最高ランクの「松」。


札幌の老舗である大丸のおせちは、地元民の信頼を背負った重みがある。ずっしりと中身の詰まった風呂敷包みを受け取ると、指先から年末の訪れを実感した。


北海道の大晦日は、賑やかで早い。本州とは違い、ここでは「大晦日の晩」におせちやご馳走を並べて盛大に祝うのが古くからの習わしだ。少なくとも私の家ではそうだった。


テーブルには、大丸の三段重、大家さんからお裾分けされた「飯寿司(いずし)」、色鮮やかな「口取り菓子」、そして私が仕上げたエゾシカのチャーシューが並んだ。


ビリー君は、昼間の失態など遠い過去のことのような顔で、テーブルの特等席に陣取っていた。色とりどりの海の幸と、湯気を立てる鹿肉。その豪華なコントラストを前に、彼の瞳孔は極限まで開いている。


私は厚く切ったチャーシューを、彼の皿に乗せた。


「恩人の秘伝だ。心して食えよ」


ビリー君は一度だけ鼻を鳴らすと、それを一口で頬張った。鹿肉の力強い旨味と、煮込まれたタレの甘辛さが、口の中で見事に調和する。


彼は静かに目を閉じ、天を仰ぐようにしてその味を噛みしめた。


「……Vamoose(ヴァムース)(僕ちゃんは今、天国の階段を全力疾走してる気分だよ……)」


それは、これまでで一番、深い満足感の籠もったヴァムースだった。続いて、おせちの「エビの旨煮」を殻ごとバリバリと音を立てて平らげていく。


窓の外は荒れ狂う吹雪だが、家の中は穏やかで温かい。


こうして、一頭のヴェロキラプトルは「ビリー君」という名を得て、私たちの新しい物語が静かに幕を開けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。