第4話「鏡の中のラプトル」
大晦日の朝。
台所からは、甘辛い醤油とショウガ、それに野性味あふれる肉の香りが立ち上っていた。
私は寸胴鍋の前に立ち、エゾシカのチャーシューが踊る火加減をじっと見守る。
これは、かつて仕事で世話になった食通の支店長が、酒の肴にと教えてくれた秘伝のレシピだ。鹿肉は脂気が少なくて扱いが難しいが、弱火でじっくりと時間をかけてやれば、驚くほど柔らかく、深い滋味が宿る。
支店長はもうこの世にいないが、彼の遺したこの味だけは、こうして私の手元で生き続けている。
ふと足元に視線を落とすと、ラプトルが神妙な面持ちで座っていた。
鍋を見上げ、わずかに首をかしげる。その目は、単なる食欲を超えて「この家の主は今、何をしようとしているのか」を真剣に見極めようとしているようだった。
そろそろ、彼を呼ぶための名前が必要だな。いつまでも「お前」や「君」じゃ、これからの共同生活に締まりが出ないし、で、ついつい出てきたのがこれだ。
「……ビリー君、でどうだい」
最初に覚えたのが西部劇のVamooseなら、名前の由来も開拓時代の荒野から持ってくるのが筋だろう。
ビリー・ザ・キッド。伝説のアウトローだ。この小さくも食えない相棒には、おあつらえ向きの名前ではないか。
それに、このどこか憎めない同居人には、君付けくらいの距離感がちょうどいい気がした。
「ビリー君」
改めて呼ぶと、彼は一瞬だけまばたきをした。それから、誇らしげにノルディック柄のセーターの胸を少しだけ張ったように見えた。(名前が気に入ったか。それとも、私の手編みセーターが気に入ったのか?)
「今日からお前さんは『ビリー君』だ。よろしくな」
確認するように言うと、彼は小さく喉を鳴らした。
「Vamoose(僕ちゃん、今日からビリー・ザ・キッドってわけ? 悪くない、最高にクールな名前だぜ!)」
コンロの火を落とし、味を落ち着かせるために鍋を休ませる。
その隙に、新年を迎える儀式として奥の座敷の掃除に取りかかった。
ビリー君も、鉤爪が畳を傷つけないよう爪先を浮かせた忍び足で、私の後をついてくる。
この部屋は陽当たりが良く、冬場はモンステラたちの格好の避難場所だ。
その隅に、この山悟荘に元々置かれていた古い姿見がある。
掃除のついでに、私がその姿見にかけられた布をめくった時だった。
ビリー君の動きが、ぴたりと止まった。
鏡の中に、自分と瓜二つのラプトルがいる。
しかも、自分と同じ「幾何学模様のノルディックセーター」を着た、得体の知れないヤツだ。
古い鏡が映し出すわずかな歪みが、相手の表情をより不気味に、より挑発的に見せているのかもしれなかった。
ビリー君は石像のように固まった。
重心を低く落とし、じっと鏡の奥を睨みつける。
ゆっくりと顎を上げた。それは明らかな挑発だ。鏡の中のライバルも、寸分狂わず同じ角度で顎を跳ね上げた。
「……喧嘩はやめておけ。それは自分だ」
忠告したが、今の彼に私の言葉は届かない。
彼は鏡の中の自分を、一対一の決闘相手として完全にロックオンしていた。
一度だけまばたきをし、わずかに間を詰める。鏡のラプトルも、同様に迫ってくる。
ビリー君の喉の奥から、低く鋭い唸り声が漏れた。
(まずいな。これはやる気だ。暴れられる前に止めなければ)
だが、私の手が届くよりも早く、ビリー君は弾丸のように鏡へ向かって跳んだ。鉤爪は隠したままの、鼻先をぶつけるような捨て身の一撃。
――コン。
乾いた音が、静かな座敷に虚しく響いた。
古い木枠がガタッと震え、冷たいガラスの感触だけが彼の鼻先に残る。
畳の部屋に、耐えがたいほどの気まずい沈黙が降りてきた。
ビリー君は、鼻先を鏡に押し付けたまま、数秒間フリーズした。
確かな手応えのなさと、鼻の奥を抜ける冷気。
ようやく状況を把握した彼は、ゆっくりと体を離し、上目遣いで私を見た。
その顔には、隠しようのない「羞恥」が浮かんでいる。
知能が高いからこそ、自分の失態を客観的に理解してしまったのだろう。
「……ビリー君?」
彼は私の視線を避けるように、畳の上の大きなモンステラの鉢植えの陰へと滑り込んだ。
大きな葉の裏に鉤爪を折り畳み、丸まって石のようになる。
そして、固く目を閉じた。
――寝たふりか。
(なかったことにしたいんだろうな。OSを再起動してメモリーを消去するように)
規則正しい寝息の演技は完璧だが、畳に放り出された尻尾の先が、「今のナシ! 今のナシ!」と叫ぶようにパタパタと小刻みに震えている。
私は鏡に映る自分の顔を見た。ニヤニヤするのを抑えようとして、ひどく歪な表情になっていた。
「……まあ、いいさ。夜にはご馳走が届くからな。そうクサるなよ」
夕方。インターホンが鳴った。
届いたのは、予約しておいた御料理仕出し大丸のおせちだ。
奮発して頼んだ、最高ランクの「松」。
札幌の老舗である大丸のおせちは、地元民の信頼を背負った重みがある。ずっしりと中身の詰まった風呂敷包みを受け取ると、指先から年末の訪れを実感した。
北海道の大晦日は、賑やかで早い。
本州とは違い、ここでは「大晦日の晩」におせちやご馳走を並べて盛大に祝うのが古くからの習わしだ。少なくとも私の家ではそうだった。
テーブルには、大丸の三段重、大家さんからお裾分けされた「飯寿司」、色鮮やかな「口取り菓子」、そして私が仕上げたエゾシカのチャーシューが並んだ。
ビリー君は、昼間の失態など遠い過去のことのような顔で、テーブルの特等席に陣取っていた。
色とりどりの海の幸と、湯気を立てる鹿肉。その豪華なコントラストを前に、彼の瞳孔は極限まで開いている。
私は厚く切ったチャーシューを、彼の皿に乗せた。
「恩人の秘伝だ。心して食えよ」
ビリー君は一度だけ鼻を鳴らすと、それを一口で頬張った。
鹿肉の力強い旨味と、煮込まれたタレの甘辛さが、口の中で見事に調和する。
彼は静かに目を閉じ、天を仰ぐようにしてその味を噛みしめた。
「……Vamoose(僕ちゃんは今、天国の階段を全力疾走してる気分だよ……)」
それは、これまでで一番、深い満足感の籠もったヴァムースだった。
続いて、おせちの主役「伊勢海老」を殻ごとバリバリと音を立てて平らげていく。
窓の外は荒れ狂う吹雪だが、家の中は穏やかで温かい。
こうして、一頭のヴェロキラプトルは「ビリー君」という名を得て、私たちの新しい物語が静かに幕を開けた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。
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次話も、山悟荘でお待ちしております。




