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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第1章:山悟荘の不条理 ―― シシュフォスの幸福と茶の間
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第3話「ラプトル、宅配便に対応する」

インターホンが鳴った。


私は台所で、知人の猟師から分けてもらったエゾシカの肉を下処理している最中だった。手は血と脂でひどく汚れている。


(タイミングが悪いな。質量を持ったタンパク質の精査は、一瞬の油断も許されないというのに)


「ちょっと待ってくれ」


ラプトルにこちらの言葉がどこまで通じているのかは分からないが、つい声をかけて急いで手を洗う。その間にも、もう一度、急かすような電子音が響いた。


ここ、札幌市南区にある壱拾六軒(じゅうろっけん)は、明治の開拓期に入植した16の家族が起源だと言われている。同様に八軒や二十四軒といった地名もある。


そんな歴史ある土地の、これまた歴史ある古民家に、まさか白亜紀のハンターが居座っているとは、当時の開拓使の面々も夢にも思わなかっただろう。


茶の間の方を見ると、彼が立っていた。首はかしげていない。真っ直ぐだ。獲物を捕捉したハンターの姿勢である。


――まずい。


「出なくていいからな。大人しくしてろ」


念を押すが、彼は一瞬だけこちらを振り返ると、玄関ホールの方へ向き直った。嫌な予感がする。私の警告を、彼は「バックアップが必要か?」と好意的に解釈した可能性がある。


「待て」


その声が届く前に、彼は見覚えのある所作で、カツンと床を叩き、喉を鳴らした。


「Vamoose(ヴァムース)(オッケー! 僕ちゃんが相手してやるよ!)」


なぜ、今それを使う。しかも妙に自信満々だ。


私はタオルで手を拭きながら、玄関へ走った。


廊下に出ると、彼はモニター親機の前にいた。そして、よいしょ、と後ろ足で伸び上がり、画面に映る配達員を爛々と輝く瞳で覗き込んでいる。


次の瞬間、器用にハンドクローを伸ばして通話ボタンを押した。


「Vamoose(ヴァムース)(失せろ! メガネ! ここは僕ちゃんのナワバリだぞ!)」


ドア越しに、深い沈黙が落ちた。


数秒後、外から震えるような、困惑した声が漏れてくる。


「……えっと、どちらさまでしょうか。今の、自動音声……ですか?」


私は深く息を吸った。


「すみません! 今出ます!」


慌てて玄関へ向かう。


我が家には「玄関フード(風除室)」がある。外の猛吹雪を防ぐためのガラス張りの小部屋だ。配達員はそのフードの中に入り、内側の玄関ドアの前で待っていた。


ガチャリ、と私が内側のドアを開ける。


すると、配達員の視線は自然と私の足元へ吸い寄せられた。


そこにいるのは、変装のダウンもゴーグルもない、ありのままの姿のラプトルだ。正確には、雪の結晶模様が編み込まれた可愛らしい手編みのノルディックセーターを着た、体長1.5メートルの羽毛恐竜が、きちんとお座りをして、じっと配達員を見上げている。


「うぉっ!?」


配達員がのけぞった。背中のリュックが、玄関フードのガラス戸にガンッと当たる。半歩下がって荷物を抱え直し、ラプトルの顔を見て、鋭い鉤爪を見て、絶望的にミスマッチな手編みのセーターを見た。


ラプトルもまた、配達員をじっと見つめ返し、小さく挨拶した。


「Vamoose(ヴァムース)(よう、ご苦労さん。中身はプリンかい?)」


その瞬間。


配達員の目から、スッ……と「光」が消えた。


人間が、許容量を超えた現実を目の前にした時、脳を守るためにシャッターを下ろす瞬間を、今、私は見た。


北海道の冬の配達員はタフだ。吹雪でも、坂道でも、ヒグマが出るような山奥でも荷物を届けるプロフェッショナルである。


だが、恐竜への対応マニュアルは持っていないらしい。


配達員は視線をラプトルから強引に引き剥がし、虚空の一点を見つめ、何事もなかったかのように機械的な声を出し始めた。


「……お荷物、お届けにあがりました。こちらに印鑑かサインをお願いします」


(あ、現実逃避した……!)


配達員は今、「見なかったこと」にしたのだ。セーターを着た恐竜がいるという事実よりも、この荷物を置いて1秒でも早く立ち去るという業務遂行を優先した。自己防衛の極みである。


「あ、はい……ありがとうございます。お疲れ様です」


私も空気を読んで、余計なことは言わずにサインをした。


その間、ラプトルは興味津々で配達員の防寒靴(スノトレともいう)の匂いを嗅ごうと鼻を近づけたが、配達員は石像のように微動だにしなかった。心頭滅却すればラプトルもまた無なり。


「……ありがとうございましたー」


配達員は伝票を受け取ると、逃げるような素振りすら見せず、あくまで「通常の業務」のテンポで、しかし競歩のような速さでトラックへと戻っていった。一度も振り返らなかった。


ドアを閉める。鍵をかける。私はその場に立ち尽くした。


なんともシュールな光景だ。現実のバグを目の当たりにした気分である。


「……出なくていいって言っただろう」


彼は首をかしげた。


どうやら、自分より大きな荷物を持った侵入者を、言葉だけで思考停止に追い込んだことに手応えを感じているのか、はたまた番犬としての役割を果たしたつもりなのか。


「何を守るつもりだったんだい?」


そう言うと、彼はセーターの幾何学模様を、ほんの少し張ってみせた。


荷物を開ける。中身は、ネットで頼んだ画材と、日用品と、卵だ。


「ありがとう。だけどさ……」


言葉を探していると、彼は玄関の方を見て、ぽつりと言った。


「Vamoose(ヴァムース)(へへっ、今日は僕ちゃんの勝ちだな!)」


「いや。もう来ないよ。彼はもう、ここに来た記憶を消しただろうし」


そう伝えると、彼は考え、納得したようにうなずいた。どうやら彼の中で、「Vamoose(ヴァムース)」は“相手を困惑させ、思考停止に追い込む魔法の言葉”としても認識されたらしい。


(あながち間違ってはいないのが怖い)


私は荷物を持って立ち上がる。台所からは、煮込み始めたエゾシカ肉の良い匂いが漂ってきていた。


「次は、隠れててくれよ。みんながみんな、あんなにタフなわけじゃないからさ」


彼は、今度ははっきりと首を縦に振った。……たぶん。


卵は、一つも割れていなかった。それだけで、今日は十分なのだ。

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