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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第1章:山悟荘の不条理 ―― シシュフォスの幸福と茶の間
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第2話「ラプトル、留守番を覚える」

結論から言うと、ラプトルを一人で留守番させるという判断は、いささか楽観的すぎたかもしれない。


(冷静に考えれば、リスクの方が高いな。相手は知能の高いハンターなんだぞ?)


外出の準備を整えた私は、茶の間の窓際で、手に持った小さなリモコンを庭の方へ向けた。傍らには、何が始まるのかと興味津々のラプトルがいる。


「見てろよ?」


リモコンのボタンを長押しすると、電子音が「ピロリ」と鳴った。数秒後、窓の外で雪に埋もれるように駐車していた私の四輪駆動車が、突然「ボォォォォン!」と唸りを上げた。マフラーから真っ白な排気ガスを盛大に吐き出す。


あえて言わせてもらえれば、外気温が低いせいで普通の「排気ガス」がより白く見えるわけで、私は汚染物質を垂れ流しにしているのではない。あれは湯気なのだ。たぶん。


車のエンジンがかかると、ラプトルは飛び上がった。目を剥き、尻尾を逆立て、窓ガラスに張り付く。誰も乗っていない鉄の塊が、私の遠隔操作によって突如として呼吸を始めたことに戦慄しているようだ。


「……あれは『エンジンスターター』だ。こうやって暖機(だんき)しておかないと、車が凍えて壊れてしまうんだよ。もちろん、人間も寒いしな」


北海道の冬、特に我々のような車社会の住人にとって、エンジンスターターは神器だ。極寒の中でオイルを循環させてエンジンの調子を整えるため、そして人間が氷の棺桶のような車内で震えないためにも、出発前の儀式として欠かせない。


彼は納得いかない顔で唸る車を凝視していたが、やがてある一点に気づき、首をかしげた。フロントガラスから空に向かって突き出している、二本の黒い棒。ワイパーだ。雪国では駐車中、ワイパーがガラスに凍りついてゴムが千切れるのを防ぐために「立てておく」のが常識である。


だが、彼にはそれが別の意味に見えたらしい。窓越しに、自分も両腕を高く上げて真似をし始めた。


(……降参のポーズだと思っているのか? それとも、あの車が万歳して威嚇しているとでも思っているのだろうか)


「挨拶しなくていいよ。行ってくるからね」


私が玄関に向かうと、彼は当然のように着いてきた。


引き戸の横には、一枚板に力強い筆致で彫られた【山悟荘(さんごそう)】の看板が掲げられている。老舗の温泉旅館のような重厚な趣だ。外から見ればあくまで昭和の古民家なのだが、中に入ると、なんだか外観の印象よりも空間が広く感じる。建付けが良いせいか、あるいはただの気のせいだろうか。


広い土間で、彼は例のダウンジャケットを着せろと無言で訴えてくるが、あいにく今日は連れて行くわけにはいかない。


「今日は留守番たのむよ」


そう告げると、彼は一歩前に出た。「Vamoose(ヴァムース)(僕ちゃんも行くよ!)」の構えだ。


「ダメだ。今日は画材屋に行く。君が入れる店じゃないし、車の中で待たせるには寒すぎるから」


エンジンを切れば車内は数分で冷凍庫に戻る。極度の寒がりである彼を置き去りにはできない。


「留守番、できるだろ?」


彼は不満げに鼻を鳴らし、冷蔵庫の方を見た。


(またセイコーマートのプリンか……。恐竜のくせに現金なやつだ)


「いい子にしてたら、帰りに美味いものを買ってきてやる」


「美味いもの」という響きを察知したのか、彼はピクリと反応した。


私は部屋をぐるりと見回し、危険そうなものを片づけ始めた。自作PCの電源を落とし、こだわりの有線LANケーブル類は噛まれないようまとめる。


何より重要なのは、部屋中に所狭しと並んでいる観葉植物のモンステラたちだ。斑入りのボルシギアナや巨大なデリシオーサ。これらを「サラダ」だと認識されたら大惨事になる。小さな鉢植えは彼の手が届かない棚の上へ避難させたが、巨大なデリシオーサたちを避難させる術はない。


更に危険なのは、アボカドの木だ。アボカドは、命に関わる中毒を起こしやすい動物もいるので、念のためラプトルから遠ざけておくことにした。これだけは彼の目につかないよう、2階の日当たりの良い和室に移してある。


彼はその様子を、まるで作戦説明を受ける兵士のように真剣な目で見ていた。ふと気づいた。直立している彼の頭は、私の腰のあたりだ。恐竜としては非常にコンパクトだが、俊敏で機能的な体躯をしている。


「動くな。壊すな。出るな」


三つの条件を区切って言う。ラプトルは一つずつ、深く首を縦に振った。


「2階のアボカドの木には絶対触ってはダメだぞ。君の命に関わるからな」


念を押しておく。白亜紀にはなかった毒だ。現代のルールを教え込むのは、私の役目だ。


玄関を出る直前、何か言いたそうに口を開きかけたが、結局彼は何も言わなかった。ただ土間に座り、長い尻尾を体に巻き付けるように揃えた。待つ姿勢だ。


ドアを閉め、鍵をかける。正直、落ち着かない。用事は最短で終わらせた。


買い出し中も「今ごろ何をしているだろう」という不安が頭をよぎる。モンステラを食い荒らしていないか、PCに爪を立てていないか、2階の和室に忍び込んでいやしないか。


いや、信じよう。


山悟荘(さんごそう)に戻り、そっと鍵を開ける。なんだろう、静かすぎる。嫌な予感がした。静寂は、事象が起きた後の結果であることが多いからだ。


だが、ドアを開けると……彼は玄関から一歩も動いていなかった。私が出て行った時と同じ場所で、座ったまま背筋を伸ばし、こちらを見ている。


靴箱も、ドアも、床も無傷。モンステラも棚の上の観葉植物も無事だ。完璧だった。ラプトルも健康そうだ。


「……よくやったな」


思わず漏らすと、彼は安堵したように息を吐き、背筋を緩めた。私の言いつけを守るために、極度の緊張状態にあったらしい。


それから、ほんの少し誇らしげに胸を張りながら、カツカツと爪音を立てて寄ってきて、私の太ももに鼻先を押し付けてきた。羽毛の感触が温かい。


この小さな体で、彼はこの広く静かすぎる家を、どれほどの緊張感で守っていたのだろうか。


彼は私の後ろにある開いたドアの向こうを見つめ、それから私を見て言った。


「Vamoose(ヴァムース)(……僕ちゃん、寂しかったよ)」


また行くのか、それとも次は連れて行ってくれるのか、とでも言いたそうだ。


「今日はもう出ないよ」


そう言うと、彼は少し考え、納得したようにうなずいた。


(『Vamoose(ヴァムース)』の運用ルールが更新されたらしい)


「外出」だけでなく、「帰還の確認」や「甘え」にも使われるようになったようだ。


私はブーツを脱ぎ、部屋に上がる。彼も私の後ろをついてきた。一緒に暮らすというのは、こういうことなのだろう。


(予測不能な存在を抱え込みながら、日常というタスクを処理していくことだ)


私は台所に向かいながら、冷蔵庫を見た。


「……お前って、意外と小さくて、いいやつだな」


私の独り言に、彼は首をかしげる。


卵は、まだある。今日はセイコーマートの「カツ丼」の端っこでも……いや、さすがに味が濃いか。


おとなしく、ゆで卵にしておこう。

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