第1話「ラプトルはかく語りき」
ヴェロキラプトルという恐竜を知っているだろうか。
ラテン語で「素早い泥棒」を意味する名を持つ、白亜紀後期のハンターだ。最新の研究では全身が羽毛に覆われていたとされ、後肢には獲物の急所を貫くための「鎌状の鉤爪」を備えている。
知能が高く、冷徹に獲物を追い詰める。それが、世間一般が抱くラプトルのイメージだ。
だが、私の枕元にいるのは、どうもその記述とは様子が違う。
体長は1.5メートルほど。淡い杏色の羽毛をふんわりと蓄え、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。
深夜3時。
FF式ストーブの燃焼音が低く響く、冷え切った古民家【山悟荘】で、私は強い視線を感じて目を覚ました。
枕元で首をかしげ、じっとこちらを覗き込んでいる。高さはゴールデンレトリバーほど。その瞳は、確かな意志を持って私を見据えていた。
(敵襲か。……いや、こいつの腹時計か)
一瞬強張った筋肉を緩め、私は小さく息を吐いた。身構える私をよそに、彼は慎重に、布団の表面を鉤爪でなぞってみせる。布を裂かない絶妙な力加減。じつに繊細な振る舞いだ。
「……どうした。朝飯ならまだ早いぞ」
声をかけてみたが、彼はもう一度首をかしげただけだった。
代わりに、彼は枕元に置いてあった私のスマホを指さした。正確には、鋭利な爪で液晶を割らないよう、距離を保ちながら。
画面にはマップアプリの履歴。赤いピンが刺さっているのは、山道を下った先にある一軒のコンビニエンスストアだ。
「……そこに行きたいのか? セイコーマートに?」
問いかけると、彼は満足そうにうなずき、鉤爪をチッチッと鳴らして、妙に渋い発音で告げた。
「Vamoose(やあ! 僕ちゃん参上! さあ、出発だ執事!)」
彼は胸を張り、なんとも誇らしげに振る舞った。
「どこで覚えたんだ、その言い方」
昨夜テレビで流れていた古い西部劇の真似だろう。私は苦笑しながら立ち上がった。
縁あって身を寄せているこの山悟荘。風変わりな大家さんから「好きに使っていい」と言われてはいるが、貴重な古民家に傷を付けるような真似はしたくない。
私は彼に、羽毛の色に合わせた特注のダウンジャケットを着せた。フードを深く被せれば、外見は「精巧な恐竜の着ぐるみ」で通るはずだ。
足元も抜かりはない。玄関から、小樽の名門「第一ゴム」製の、鮮やかな山吹色の長靴を引っ張り出した。
強力なスパイクピンを備えた北国仕様の逸品だ。私は彼のために、ミリ単位の精度でつま先を切り抜き、彼の巨大な鉤爪がスムーズに突き出るよう加工を施しておいた。
「ほら、履け」
促すと、彼は器用に足を突っ込む。切り口から鎌状の鉤爪がにゅっと突き出し、金剛砂のソールが玄関の土間をガリッと噛んだ。
引き戸を開け、玄関フード(風除室)を抜けて外へ出る。
北海道の夜気は冷酷だ。氷点下の空気がキリキリと肌に食い込む。
「静かにするんだぞ」と小声で言うと、彼はすぐに理解した。無骨な長靴を履いているにもかかわらず、膝のバネを使ってふわりと着地し、足音を消す。さすがはハンターだ。
闇の中に、オレンジ色の看板に描かれた「不死鳥」のマークが浮かび上がる。
北海道のインフラ、セイコーマート。大手チェーンが撤退するような場所でも明かりを灯し続ける、北の大地の守護神だ。
「Vamoose(僕ちゃん、セコマ大好き!)」
店内に入るなり、ウキウキなラプトルは鼻をヒクつかせた。
「ホットシェフ」から漂う、フライドチキンの暴力的な香り。彼はショーケースに張り付こうとしたが、私はダウンのフードを掴んで制止した。
「そっちは重すぎる。まだ夜中だぞ」
結局、深夜の店員に「リアルなゆるキャラっすね」と苦笑いされながら買ったのは、セコマオリジナルの「北海道牛乳ソフト」と、彼がパッケージを見て動かなくなった「カスタードプリン」だった。
店を出る前、私は試しにレジ袋を彼に持たせてみた。
彼はあの凶器であるハンドクロー(前肢の爪)を器用に使い、レジ袋の持ち手をそっと引っ掛けた。袋が地面に擦れないよう、中の「獲物」を壊さないよう、細心の注意を払って歩き始める。
その姿は、まるで爆発物を運搬する処理班のように慎重で、かつ真剣だった。
帰り道、路面はツルツルのアイスバーンだ。
私が「ペンギン歩き」でよちよち進む横で、彼は平然と優雅に歩いていた。第一ゴムのスパイクと、己の鉤爪が交互に氷を捉え、滑る予兆すら見せない。
彼は私を「なぜ二本足の哺乳類はあんなに不安定なんだい?」という憐れみの目で見上げてきた。
「……放っておけ、これでも進化の最先端なんだ」と、ペンギン歩きで帰路につく。
家に戻ると、温まった茶の間で、彼は床に座ってプリンをじっと見つめた。
一口すくって差し出す。彼は慎重に匂いを嗅ぎ、舌先で触れ、そして食べた。
カッ! と黄金色の瞳孔が収縮する。
彼が本能で知っている「生肉」とは似て非なる衝撃だったのだろう。豊富町産の牛乳と卵黄が織りなす、暴力的なまでの甘みとコク。
彼はそのまま数十秒、石像のように固まった。やがて、震える声で静かにうなずいた。
「Vamoose(僕ちゃん……、今、生まれて初めて神を見た気がするよ。……もう、これ無しじゃ生きられない僕ちゃんにされちゃった!)」
「それ、美味いってことかい?」
彼は気にせず、満足そうに尻尾を揺らし、私の布団の横にあるモンステラの鉢植えの陰で丸くなった。すぐに聞こえてくる、規則正しい寝息。
私は天井を見上げて思う。
白亜紀のハンターが、あらゆる言葉より先に習得したのが「西部劇の捨て台詞」であり、それが「セコマのスイーツへの賛辞」として定着してしまったことを、今は深く考えないことにした。
(理屈では説明がつかないが、退屈はしない冬になりそうだ)
「Vamoose(僕ちゃん、幸せ……。……執事、明日の朝ごはんはプリン3個な?)」
寝言のような声が聞こえる。
彼の中で、その言葉はもはや「幸福」の同義語として書き換えられたのかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ビリーと過ごす北海道の冬の情景が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。
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次話も、山悟荘でお待ちしております。




