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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第8章:山悟荘のエピファニー
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第88話「軟石のベンチと、白い羽の記憶」

 地下40m。『サッポロカイギュウ広場』。

 飴色に輝く巨大な肋骨の柱に見下ろされながら、私はベンチに深く腰を下ろしていた。


 このベンチとテーブルは、この空間のために大家さんが『札幌軟石』を削り出して作ってくれた特注品だ。札幌の開拓時代から建材として使われてきたその凝灰岩は、触れるとひんやりとしていて、しかしどこか柔らかな温かみがある。

 私は、50代の男特有の重い息をひとつ、長く吐き出した。


 目の前には、太古の海を支配したカイギュウの全身骨格化石。その圧倒的な「死」と「途方もない時間」の象徴を前にすると、ふとした拍子にどうしても考えてしまうのだ。

 私の相棒である、ビリー君の『命』について。


 ビリー君は今のところ、驚くほど健康だ。モリモリと食べ、よく走り、よく寝る。

 だが、彼は生き物だ。いつか病気になるかもしれないし、怪我をするかもしれない。


 人間なら主治医を見つければいい。犬や猫なら動物病院がある。だが、ヴェロキラプトルを診てくれる獣医が、この現代の札幌にいるだろうか? もしもの時は、私が土下座してでも円山動物園の獣医か鳥の病院の先生に頼み込むしかないのだが……。


 そんな私の憂鬱などよそに、当の本人は至って気楽なものだ。


「……ビリー君、一般的なペットなら腹を壊すようなハーブを束で食って、本当に平気なのかい?」


 私の呆れた視線などどこ吹く風で、ビリー君は先ほど地上の幌見峠で刈り取ってきたばかりのラベンダーの束を、ムシャムシャと美味そうに頬張っている。彼にとって無農薬のラベンダーは芳香剤などではなく、極上のハーブサラダ(おやつ)であり、その白亜紀の強靭な胃袋はちょっとやそっとのことではビクともしないのかもしれない。


 口の周りを紫色の花粉だらけにして、彼は満足げに喉を鳴らした。


Vamoose(ヴァムース)……( 美味い……これぞ僕ちゃんの極上ハーブだぜ……)」


 彼の大きな口から漏れる吐息は、普段の肉食獣らしからぬ、爽やかなフローラルの香りがした。


 お腹を満たしたビリー君は、日課のパトロールに向かった。

 ボタニカル・ガーデン区画の警備隊である「101匹ハエトリグモ軍団( チビアダンソン)」の元へ行き、スポイトで1滴ずつご褒美の栄養ドリンクを配っていく。隊員たちはシャキーン! と前脚を上げ、ビリー君に向かって一斉に敬礼(しているように私には見えた)。


 その後、ビリー君は部屋の片隅にある彼専用の「宝物コーナー」へ向かった。

 そこには未整理のままのアダンソン先輩の抜け殻コレクションや、美しい六花亭の缶が並んでいる。


 ビリー君はまず始めに、摩周湖で出会ったアイヌの守り神、シマフクロウの『コタンコロカムイ』から受け取った羽根『銀のしずく』に向かって、うやうやしく手を合わせた。そして今日、彼が手に取ったのは1番奥に隠すように置いてあった、小さなクリアケースだった。


 彼はハンド・クロー(前脚の爪)を器用に使って、壊れ物を扱うようにそっと蓋を開けた。

 中から取り出したのは、ふわふわとした真っ白な、たった1枚の羽だった。


 それは、以前私たちが冬の羊蹄山(ようていざん)へ遠征した際に、野生の群れと共に飛び去って行ったシマエナガの『毛玉ちゃん』が残していったものだ。


 雪の妖精と呼ばれたあの小さな丸い友人は、ビリー君にとっても特別な存在だった。

 私の部屋のカーテンレールで首を傾げていた姿。ビリー君のオレンジ色のフードの中で、安心しきって丸まって眠っていた温もり。

 そして、極寒の羊蹄山(ようていざん)の麓で、同じ体温を持つ仲間の群れ(シマエナガ団子)の中へすっぽりと収まり、野生の空へと帰っていったあの真っ白な別れの夕暮れ。


 あの時、ビリー君は寂しさを必死に飲み込み、「Vamoose(ヴァムース)!( 達者でな! 僕ちゃんは忘れないぜ!)」と、旅立ちを祝うエールを送ったのだ。


 ビリー君は、その小さな白い羽を顔に近づけ、寂しそうにつぶらな黒い目を細めている。


(元気にしてるか、毛玉ちゃん。そっちの空は寒かろう……)


 彼は羽をマズル(鼻先)にスリスリと優しく押し当て、遠い空の下にいる友人を想っているようだ。

 その背中は小さく丸まり、見ているこちらの胸が締め付けられるほど切ない。


 命の長さも、生きる世界も違う。出会いがあれば、必ず別れがある。それでも、彼の中に残った記憶は決して消えることはないのだ。

 次の瞬間、ビリー君はふっと表情を緩めた。


 口元から漂うラベンダーの香りと、白い羽の柔らかな感触。

 寂しさの中にも、確かに「一緒にいて幸せだった」という温かい記憶が鮮明に蘇ったのだろう。


 彼は満足そうに深く頷くと、羽をケースに戻し、壁の飾り棚へそっと置いた。


 ――そこからが、ひたすらに長かった。


 彼はクリアケースをミリ単位で動かし、隣にあるアダンソン先輩の抜け殻ケースとのバランスを確かめ、また少し動かし……と、真剣な眼差しでディスプレイの微調整を始めたのだ。

 少し右か? いや、あと0.5mm左か?

 まるでルーブル美術館の学芸員のような異常なこだわりようだ。


 数分後。

 ようやく彼の中で、完璧に納得のいく黄金比の配置が決まったらしい。

 ビリー君は満足げに短い腕を組み、深く、力強く頷いた。


Vamoose(ヴァムース)。( 僕ちゃんの完璧なコレクションだぜ)」


 そして、張り詰めていた気が抜けたのか。


 プッ。


 静寂に包まれたカイギュウ広場の地下空間に、極めて間の抜けた音が響き渡った。

 しかも、食べたばかりの大量のラベンダーの香りがほんのりと漂う、フローラルでハーバルな恐竜のオナラだ。


 さっきまでの感傷的なムードは、きれいに吹き飛んでいた。

 ビリー君は「こりゃ、失敬」といった表情で照れたように尻尾を振り、またいつもの巡回に戻っていく。


 私は札幌軟石のベンチに腰を下ろし、呆れと少しの安堵を交えながら、その背中をぼんやりと見送ったのだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

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