第87話「ラベンダーの丘と、幸せの黄色いお尻」
ビリー君がお隣の佐藤さんのために昨年の夏に植えたザクロの種。大家さんの魔法の一滴とビリー君のかいがいしいお世話が実を結び、地下40mのボタニカル・ガーデンでは、可憐な朱色の花がポンポンと咲き始めた。
そして花びらが落ちると、ビリー君が「何だか違う感じがするんだよ」という目で私を見上げてきた。
無理もない。残った萼の部分はヒトデのように不気味に膨らんでいるし、受粉できずに落ちてしまった花は、まるで干からびたゾンビのような様相だからだ。
それでもビリー君は、毎日のお世話を欠かさない。結実を諦めて土に落ちてしまったゾンビ花を、震える爪先で慎重につまみ上げ、大家さん特製のスペシャル・コンポストへ入れてオサラバする。その真面目な清掃活動のおかげで、ザクロの木の周りは常に清潔そのものだ。
地下でそんな静かな生命の営みが続く一方。
地上の札幌には、爽やかな紫色の風が吹き始めていた。
北海道でラベンダーと言えば富良野、というのが観光客の定説だ。だが、私は知っている。わざわざ何時間も車を走らせて遠出をせずとも、この街を見下ろす峠に、誰にも教えたくない極上の紫の絨毯が広がっていることを。
私たちは今、札幌市街を一望できる中央区の山の上、幌見峠のラベンダー園に来ていた。
眼下には札幌の街並みがミニチュアのように広がり、彼方にはタワーが針のように突き出ている。周囲はむせ返るような、濃厚で爽やかなラベンダーの香りに包まれていた。
私たちは入園料とは別に「刈り取り料金」を支払い、専用のハサミと筒を受け取って畑に入った。筒に入る分だけ自由に持ち帰れる、道民には嬉しいシステムだ。
夏仕様ということで、今日のビリー君はあのオレンジ色の特注ダウンジャケットを脱ぎ捨てている。豊かなアンズ色の羽毛を夏の風になびかせ、足元には第一ゴムの山吹色の長靴だけを履いた、実にワイルドで身軽なスタイルだ。
良さそうな株を選んで刈り取ろうとしたその時、ビリー君の手がピタリと止まった。
彼はラベンダーの紫色の壁の一角にしゃがみ込み、微動だにせず何かを凝視している。
何かと思えば、ラベンダーの茂みの中に頭を突っ込んで休んでいる、1匹のマルハナバチだった。
しかも、頭を花の中に完全に突っ込んで、丸いお尻だけを外に出してピタッと止まっている。死んでいるのではない。よく見ると、モフモフした黄色いお尻が、健やかな寝息に合わせて規則的に小さく上下している。
いわゆる、働き者のマルハナバチによる「おサボり(お昼寝)」タイムである。
「Pikobabool……( なんて極上の尻なんだ……)」
ビリー君の喉が、うっとりと嬉しそうに鳴った。
どうやらウチの恐竜は、丸くて可愛いもの(シマエナガなど)にはとことん目がないらしい。
ビリー君が、そっと右手を伸ばした。
2本の指と、鋭利な『ハンド・クロー(手の爪)』の先端を、まるで時計職人が扱う精密なピンセットのように使い、その無防備なモフモフの黄色いお尻を、ツンと優しくつまもうとしている。
花弁からはみ出したそのお尻は、プリッとしていて実に愛らしいが、さすがに熟睡中のハチをつまむのはマナー違反だ。
私は慌てて、しかし大声を出してハチを驚かせないよう、静かにビリー君の肩を掴んだ。
「……こら、ビリー君。ダメだよ」
ビリー君が「Namoose?( なんだよ、ケチだな。僕ちゃん、ちょっと触るだけだぞ)」という不満顔で私を見上げる。
「彼女は今、休憩中なんだ。一生懸命働いた合間のお昼寝を、邪魔しちゃ悪いだろう? そっとしておいてあげなさい」
私が50代の低い声で優しく諭すと、ビリー君は名残惜しそうに、しかし素直にハンド・クローを引っ込めた。
白亜紀の最強の捕食者である彼が、小さな虫の昼寝に気を使う。そのギャップが何ともおかしくて、私は口元をほころばせた。
その時、私の肩に乗っていたハエトリグモのアダンソン先輩が、石像のようにカチコチに固まっているのに気がついた。
見ると、8つの単眼がすべて白目をむいている(ように見える)。あまりの恐怖に発狂寸前のようだ。
彼女は今や体長12mmの立派な巨体だが、クモにとって一部の狩り蜂( ベッコウバチなど)は、自らを麻酔で眠らせて幼虫の生きた餌にするという、最も恐ろしい天敵だ。相手がいくらモフモフだろうが熟睡中だろうが、DNAに深く刻み込まれた恐怖のシルエットは拭えないらしい。
「先輩、こいつはクモを狩る蜂じゃない。花粉を集めるだけの温厚なマルハナバチだ。何もしなければ襲ってこない。大丈夫だよ」
私が極太の指先で彼女の背中の漆黒のタキシード柄を優しく撫でてやると、彼女はハッと我に返り、「べ、別にビビってねぇし」とばかりに恥ずかしそうに触肢をこすり合わせた。
ましてや、相手は無防備なお尻を晒して爆睡中だ。危険なはずがない。
ビリー君は、最後にもう一度だけその「幸せの黄色いお尻」をつぶらな黒い瞳にしっかりと焼き付けると、満足げに立ち上がった。
私たちは、その愛らしい働き者たちを決して起こさないように、少し離れた場所のラベンダーを静かに刈り取ることにした。
帰り道。
私たちの腕には、筒の限界まで詰め込まれた抱えきれないほどのラベンダー。
車内には濃厚な花の香りと、ほんの少しの優しさが満ちていた。
ビリー君は窓の外の札幌の街並みを眺めながら、時折思い出し笑いをするように「クルル……」と鼻を鳴らしている。
あの触れることが許されなかったモフモフお尻の極上の感触を、空想の中で存分に楽しんでいるのかもしれない。
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