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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第8章:山悟荘のエピファニー
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第86話「雪の下の約束と、琥珀色の夢」

 しんしんと、世界から全ての音が吸い込まれていく。

 2月の札幌。分厚い二重窓の外は、天気予報通り、視界を奪うほどの真っ白な雪景色に変わっていた。


 けれど、重い雪雲の隙間から奇跡的に柔らかい陽光が差し込み、灯油ストーブの輻射熱に満ちた茶の間の一角に、ぽかぽかとした小春日和のような黄金色の日だまりを作っていた。

 その心地よい暖かさに誘われて、私とビリー君は長椅子でぴったりと身を寄せ合い、深い午睡(ひるね)に落ちていった。


 ――夢を見た。


 【アキラの夢:30年後の昼下がり】


 85歳になった私は、頭は相変わらずのスキンヘッドだが、立派なロマンスグレーの髭を蓄え、度の強い老眼鏡をかけて、窓際のロッキングチェアに深く座っていた。

 膝の上には重たいウールの毛布。そして足元には、アンズ色の羽毛にすっかり白羽が混じり、穏やかな老犬のような顔つきになったビリー君が丸くなっている。


「……いい天気だねぇ、ビリー君」


 私がしわがれた声で語りかけると、彼は「Kuru(クル)……」と掠れた声で鳴き、ゆっくりと太い尻尾を1度だけ振った。

 若い頃のように、家の中をドタドタと走り回ったり、生ゴミ処理機を恐れておならを暴発させることはもうない。


 でも、私に寄り添う彼の体温は、あの頃と全く変わらず温かい。

 私はシワの増えた太い手で、彼の少し痩せた背中を優しく撫でる。

 共に長い長い時間を生き抜いてきた2つの命が、静かに寄り添っている。それはとても穏やかで、満ち足りた「老後」の光景だった。


 ――同じ頃、ビリー君もまた、夢を見ていた。


 【ビリー君の夢:とある未来の最強の守護者】


 そこには、すっかりヨボヨボのひ弱なお爺ちゃんになって、杖をつきながらプルプル震えているアキラがいた。

 極太だった丸太のような腕はすっかり細くなり、まるで干し柿のようにシワシワで、歩くのもやっとだ。


 対して、ビリー君はどうだ。

 オレンジ色の羽毛はダイヤモンドのようにツヤツヤと輝き、筋肉は鋼のバネのように張り詰め、あの頃と全く変わらない――いや、むしろさらに若々しい『完全無欠の最強』の姿のままだ。

 恐竜の時間は、ひ弱な人間とは違うのだ。


Vamooooose(ヴァムォォォォス)!( おいおい、しっかりしろよ執事! 膝が笑ってるぜ!)」


 ビリー君は、ヨボヨボのアキラの周りを、目にも止まらぬ超スピードでグルグルと走り回り、つまずきそうになる彼の体を、強靭な鼻先でグイッと下から支えてやる。

 人間という生き物は、すぐに古くなって壊れてしまう。だから、いつまでも最強でピチピチな僕ちゃんが、ずっと面倒を見てやらなきゃいけない。


(安心しな、おじいちゃん執事。お前が土に還るその日まで、この僕ちゃんがずっと遊んで、守ってやるぜ)


 ビリー君は誇らしげに胸を張り、干し柿のように小さくなったアキラを庇うようにして仁王立ちをした。


 ――そして、夢の外側でも。


 窓の外では、いまだに現役を退かない大家さんが、真っ赤な壱拾六軒町内会じゅうろっけんちょうないかいのハッピを着て、雪かきの陣頭指揮を執っていた。


「さあ皆さん! ここが雪捨て場の境界線ですよ! 排雪車が来るまでに道を広げて空けましょう!」


 自作の『ジェット・ママさんダンプ』を片手に、吹雪の中で町内活動に忙しく駆け回る大家さんの声は、分厚い二重窓のおかげで、遠い映画のBGMのようにしか聞こえない。

 部屋の天井付近では、12mmの巨体に成長したアダンソン先輩もまた、ストーブが生み出した温かい上昇気流の層に包まれて、静かに静止していた。8つの瞳を閉じた(ように見える)彼女がどんな夢を見ているのか、それは彼女だけの秘密だ。


「……ん」


 目が覚めると、茶の間はまだ琥珀色の優しい光に包まれていた。

 隣で寝ているビリー君は、何かいい夢を見たのか、寝言で「Vamoose(ヴァムース)……( 僕ちゃんに任せろ……)」と得意げに呟き、私の腕に硬い頭をグイグイと押し付けてきた。


 夢の中の未来がどうなるかは、誰にも分からない。

 人間の私が先に逝くのか、それとも白亜紀の恐竜を見送ることになるのか。……いずれにせよ、あの地下で目覚めたばかりのザクロの芽が、大家さんの魔法のおかげで、来年にはルビーのような実をつける頃も、きっと私たちは変わらずに一緒にいるだろう。


 私はビリー君を起こさないようにそっと体を離すと、濃いめの熱いコーヒーを淹れ、仕事用のデスクに向かった。

 製図ペンを握り、細かい化石や鉱物のディテールを黙々と描き出す孤独な作業。その傍らにはいつも、日向ぼっこをするヴェロキラプトルと、立派な巨体に成長したハエトリグモの姿がある。


 外は厳しい厳冬、室内は琥珀色の常春。

 ストーブの上のやかんがシュンシュンと鳴る音だけが、静かに満ち足りた時間を刻んでいた。


   ◇


 ――それから季節はあっという間に雪を溶かし、一気に初夏の日差しが降り注ぐ6月。

 地下40mのボタニカル・ガーデン区画では、ポカンと、ザクロの美しい朱色の花が咲いていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

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