第85話「守護獣の脱皮と、真冬の六花亭」
ハエトリグモというクモを知っているだろうか?
巣を張る不気味なクモのイメージとは対極にいる、家の中の小さなアイドルだ。正面に並んだ真っ黒でつぶらな2つの大きな瞳は極小のジャイアントパンダのようである。
だが、彼らの本当の凄さはその「目」の数と機能にある。正面の巨大な2つの瞳は、獲物の色や距離を鮮明に捉える『超高解像度の望遠レンズ』。そして、頭部を側面から背後へと囲むように配置された残り6つの小さな瞳が、わずかな動きすら逃さない『360度広角モーションセンサー』の役割を果たしている。合計8つの目で全方位の死角を完全に消し去る、自然界が生んだ生きた光学兵器なのだ。
短い手足で大きな瞳をゴシゴシと毛繕いし、ピョンピョンと跳ねる愛らしい姿から、海外でも「ジャンピング・スパイダー」と呼ばれ熱狂的なファンを持つ、奇跡の生き物である。
季節は2月。外は1年で最も凍てつく厳冬期だが、断熱性の高い我が山悟荘は暖房のおかげで常春だ。
そんなある日の夕方。
買い出しから帰宅した私は、いつもの定位置であるルーターの上に影の女司令塔・ハエトリグモのアダンソン先輩がいないことに気づき、血相を変えて茶の間中を探し回っていた。
「い、いない! まさか換気の時に間違ってドアから出しちゃったか!? いや、外は氷点下だぞ、そんなはずは……」
私が巨体を揺らしてオロオロとウロウロしていると、長椅子の上でくつろいでいたビリー君が「うるさいな」という顔でこちらを見た。
「Vamoose( おいおい、上だ。上を見ろよ相棒)」
長椅子で寝そべっていた彼は、鋭いシックル・クローを上に向かってクイクイと動かした。
見ると、エアコンの配管カバーの隙間に、普段よりも分厚く、真っ白な糸で幾重にも頑丈に編まれた『白い繭』があった。
「あっ、あった! ……ってことは、もしかして脱皮か!?」
私は安堵でその場にへたり込んだが、すぐにまた不安になって立ち上がった。
節足動物にとって、脱皮は命がけの大事業だ。もし古い殻が引っかかって抜け出せなくなれば、それは即ち「死(脱皮不全)」を意味する。ましてや、先輩はもう若くない。体力の消耗も激しいはずだ。
「だ、大丈夫かな。ストーブ焚きっぱなしだから湿度は足りてるか? 温度は? 加湿器、もっと直接当たるように近づけるか!?」
アダンソン先輩と一つ屋根の下で生活を続けるうち、私はすっかりハエトリグモの生態に詳しくなっていた。昔の私なら「壁の隅にクモが引きこもっているな」程度で見過ごしていただろう。だが、家族として知識を身につけてしまった今の私にとって、脱皮という『クモの人生における生死を懸けた節目』のリアルな危険性が痛いほど分かってしまい、どうにも不安が募るのだ。
居ても立っても居られず、納戸から脚立を持ち出して繭に近づこうとした、その時だ。
ペチッ。
私の足元で、ビリー君が私のスリッパを前脚で叩いた。
見下ろすと、彼は呆れたような、しかしどこまでも力強い目で私を見上げていた。
「Namoose。( 落ち着けって。どっしり座ってろよ)」
そう言っているようだった。
彼は「姐御なら絶対に大丈夫だ。お前が下で騒ぐと気が散るだろ」と言わんばかりに、私のズボンの裾を引っ張り、強制的に長椅子に座らせた。
「でもなビリー君、脱皮不全って言ってね、すごく危険なんだよ……失敗したら死んじゃうことだってあるんだぞ」
「Vamoose……( フン、心配性だな)」
ビリー君は短く鼻を鳴らすと、繭がよく見える位置にどっしりと陣取り、静かに目を閉じた。
その態度は、『僕ちゃんはソウルメイトを信じて待つ。だからお前もそうしろ』という、野生のハンターとしての無言の圧力に満ちていた。
……そうか。過酷な野生の世界を知る彼の方が、よほど肝が据わっている。私は自分の狼狽えぶりが恥ずかしくなって、大人しくコーヒーを淹れた。
それから3日間。
私は気が気じゃなかったが、ビリー君は徹底して冷静だった。
私が心配のあまり脚立に乗って繭を覗き込もうとするたびに、彼が太い尻尾で私の足をペシッと叩いて制止する。「まだだ」と。
そして、4日目の朝。
冬の透き通った朝日の中で、ついに、その白い繭が破れていた。
「……ッ!!」
私は息を呑んだ。
そこには、濡れたように黒々と輝く真新しいボディを手に入れた先輩が立っていたのだが……その姿が、明らかに以前とは違った。
「で、でかい……!」
前回の秋の脱皮の時よりも、さらに一回り、いや二回りは大きい。
通常、アダンソンハエトリのメスは大きくても8mm程度だが、目の前の先輩は12mmは超えていそうだ。
堂々たる漆黒の体躯。力強く太くなった脚。それはもはや、ただのハエトリグモなどではなく、この家の『守護獣』としての絶対的な風格だった。
先輩は、驚愕する私を見下ろして「どうだい」とばかりに太い前脚を高く上げ、挨拶代わりにゆっくりと威嚇のポーズをとった。
その足元には、無事に役目を終えた『完璧な形の古い抜け殻』が落ちていた。
「すごい……アダンソン界の横綱だよ、これは」
私が感動している横で、ビリー君が音もなく近づいてきた。
彼は「ほらな? 僕ちゃんの言った通りだろ」という顔で私を一瞥すると、スッ……と右の前脚を伸ばした。
2本の指と、鋭利な鉤爪( ハンド・クロー)。
彼はその器用な「恐竜の指」を、まるで精密作業用のピンセットのように使い、そっと、本当にそっと息を殺して、巨大な抜け殻の脚1本1本を壊さないように慎重に摘み上げた。
カチッ。
微かな音と共に、完璧な状態で回収された『特大アダンソン・モデル(厳冬仕様)』。
「Vamoose♪( いただきだぜ)」
ビリー君は満足げに喉を鳴らすと、呆気にとられる私を尻目に、最高ランクの戦利品を自分の宝箱(六花亭の缶)へと大事そうにしまい込んで、「Vamoose!( ホレ、日付ラベルくれヨ)」と催促してくる。
心配して損した……いや、彼の「信頼」と、アダンソン先輩の「生命力」の完全な勝ちだったな。
しかし、圧倒的な存在感を放つ天井の守護獣を見上げながら、ふと、1つの疑問が私の脳裏をよぎった。
ハエトリグモの寿命は、普通は長くて1、2年だ。
彼女は一体いつから、この家に棲み着いているのだろうか? 謎は深まるばかりだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話も、山悟荘でお待ちしております。




