第84話「地下植物園のザクロと、101匹の守護者」
地下40m。
本来ならば漆黒の闇に包まれ、冷たい岩肌が広がるはずのこの深度は、地上のどんな場所よりも眩しく、そして生命力に満ちた光に溢れていた。
大家さんが壱拾六軒町内会の地下ネットワークに組み込んだ、トンデモ発明インフラの1つ『超集光型光ファイバー採光システム』がフル稼働しているからだ。
地上の太陽光を特殊なレンズでダイレクトに取り込み、植物の葉焼けの原因となる有害な紫外線のみを精巧にカットした上で、地下空間へと拡散させる。その極上の光のシャワーは、野菜や果樹にとって最高の栄養源となる。
ここは、サッポロカイギュウ広場の奥、ビリー君専用の個室である『白亜紀ジオ・フロント』に整備された『ボタニカル・ガーデン区画』。ゼオライトで調湿された空間は、常に湿度60%、気温24度の完璧な常春を維持している。
その人工太陽の下で、私の相棒であるヴェロキラプトルのビリー君は、1本の小さな苗木と真剣に向き合っていた。
お隣の佐藤さんに「恩返し」としてプレゼントするために育て始めた、ルビー色の実をつけるザクロの木だ。
このザクロの種は、我が家の影の女司令塔・アダンソン先輩( ハエトリグモ)が、かつてビリー君のアンズ色の羽毛に付着していたものや、どこからか集めてきた種を古い巣の中に隠し持っていた「秘蔵コレクション」の1つである。
カチン、チン。
カチン、チン。
静かな地下室に、微かな金属音がリズミカルに響く。
ビリー君が、首から下げた真鍮の鍵をピンセットのように器用な前脚で持ち、ザクロの細い幹を優しく叩いているのだ。
お気に入りのオレンジ色の迷彩ダウンを着込み、足元には小樽の老舗・第一ゴム製の山吹色の長靴。その出で立ちで、ビリー君は職人のような真剣な顔をして植物に「チューニング」を施している。まるで、不調なヴィンテージ・エンジンを直す熟練のメカニックのようだ。
(……ビリー君。君の熱意と気持ちは痛いほど分かるが、植物は機械じゃないんだぞ)
私は極太の腕を組みながら、心の中でそっと苦笑した。
大家さん曰く、ザクロが実をつけるまでには、通常3年以上の長い歳月がかかるそうだ。だがビリー君は、この魔法の鍵で刺激を与えれば、育つ時間を短縮できると本能的に信じ込んでいるらしい。
「Vamoose……( 起きろ〜、飯の時間だぜ。早くデカくなれ)」
低く優しく唸りながら、ビリー君は幹を撫でる。その瞳は、白亜紀の荒野で獲物を狙う冷酷なヴェロキラプトルの「金色」ではなく、愛しい家族を見つめるつぶらで穏やかな黒のシマエナガ風だった。
その時、私の背後にふわりと人の気配を感じた。
振り返ると、そこには大家さんが音もなく立っていた。
いつもの作業着の腕には『壱拾六軒町内会長』の腕章が誇らしげに光り、シワの刻まれた額には玉のような汗が浮かんでいる。雪が降る前の激務の合間を縫って、地下インフラの点検に来てくれたらしい。
大家さんは、一心不乱にザクロへ祈りを捧げるビリー君のオレンジ色の背中を見て、瞬時に状況を理解したようだ。
「……あ、大家さん。お疲れ様です」
私が50代の低い声で挨拶をしようとすると、彼は人差し指を口に当てて「しーっ」と合図をした。
そして、鋭い眼光を細めて優しく微笑むと、忍者のような足取りでビリー君の背後へと回り込んだ。白衣のポケットから見慣れない小さなスポイト瓶を取り出し、ビリー君が全く気づかない一瞬の隙を突いて、ザクロの根元の黒土へポチョンと1滴、透明な液体を垂らしたのだ。
大家さんは素早く私の隣に戻ると、耳元で早口に囁いた。
「……アキラさん、あれは私が長年開発してきた特殊活性剤『ミノリ・マックス(時空短縮カスタム)』です」
「特殊活性剤、ですか?」
「ええ。高濃度の鉄分と、植物の成長に不可欠な微量要素を分子レベルで濃縮してあります。もちろん完全無農薬・人畜無害ですし、恐竜さんの体調にも一切影響はありません」
「それは凄いですね。効果のほどはあるんでしょうか?」
「劇的ですよ。通常3年から5年かかるところを、たった1年で結実まで持っていけますよ。……ふふ、あの子は今、一生懸命チューニングしてくれているでしょう? だからこれは内緒にして、ビリー君の手柄にしてあげてくださいねぇ」
大家さんは穏やかに微笑むと、決してビリー君の深い集中を乱さないよう、足音一つ立てずに静かに踵を返した。
「では、私は地上の作業に戻ります。急に寒暖差が激しくなりましたから、アキラさんもお体には気をつけてくださいね。精密画の描きすぎで、立派な肩がガチガチに凝っているようじゃありませんか」
腰痛が完治して無敵の肉体を手に入れたとはいえ、50代の疲労と職業柄の肩こりだけは誤魔化せない。図星を突かれて苦笑する私を残し、好々爺は粋な魔法をかけて去っていった。
そんな裏のドラマなどつゆ知らず、ビリー君は「よし、完璧な調整完了だ!」とばかりに満足げに鼻を鳴らしている。
ビリー君が振り返ると、ザクロの瑞々しい葉の陰から、一斉に無数の視線が現れた。
101匹のハエトリグモたちだ。
彼らはアダンソン先輩の優秀な子孫であり、この地下植物園をアブラムシやコバエなどの害虫から徹底的に守り抜く、最強の警備隊である。
ビリー君は、不眠不休でパトロールをしてくれる彼らの労をねぎらうため、部屋の小型冷蔵庫からとっておきの小瓶を取り出した。人間用の栄養ドリンクだ。
かつて、これをペロリと舐めたアダンソン先輩が異常覚醒し、黒い稲妻となって部屋中を飛び回ったのを覚えているのだろう。ビリー君は極細のスポイトを使い、葉の上に黄金色の液体を1滴ずつ、均等に垂らして回った。
「Pikobabool。( ピコバブールの報酬だぜ。これ飲んでガンガン働けよ)」
チビクモたちがそれを舐めた瞬間、シュバババッ! と目にも留まらぬ超スピードで葉の裏へ散り、パトロールを再開する。
(カフェインの過剰摂取で倒れないか心配だが、まあ、彼らはあの先輩の血を引く特殊な一族だから大丈夫か……)
ふと、ビリー君がザクロの一番高い枝の先端に、何かを見つけた。
彼はしゃがみ込み、腰につけたポーチからある物を取り出した。
それは、『六花亭』の銘菓、「六花のつゆ」が入っていた小さな丸缶だ。坂本直行画伯の描く可憐な野の花があしらわれた、大人の掌にすっぽりと収まる薄型の美しい缶である。
実を言うと、私はこの「六花のつゆ」――薄い砂糖の殻で包まれ、中に香り高いお酒が入った大人のボンボン――が大好物なのだ。お隣の佐藤さんはそれをよくご存じで、事あるごとに「アキラさん、季節の缶の柄が変わっていましたよ」と上品に差し入れてくれる。
中身の色とりどりの美しい宝石( ボンボン)は、私が夜のコーヒーと共に美味しくいただき、残った美しい空き缶は、ビリー君が『専用トランスポーター(持ち運び用)』としてせっせと再利用しているというわけだ。
枝先に残されていたのは、彼らの「神」であるアダンソン先輩が脱ぎ捨てたばかりの『真新しい抜け殻』だった。
目測で10ミリは優に超えているだろうか。脱皮を繰り返すたびに厚みを増し、普段その辺で見かけるハエトリグモとしては異様な、恐怖すら覚える巨大さに成長している。
ビリー君は、自慢の前脚の爪( ハンド・クロー)を、まるで時計職人が使う精密なピンセットのように極めて器用に使ってその巨大な抜け殻を摘み上げると、一切の型崩れを起こさずに、そっと缶の中へ納めた。繊細な先輩の抜け殻を地上のアクリルケースまで安全に持ち運ぶには、この絶妙な薄さと密閉性が最適だと判断したのだろう。
光ファイバーの真っ白な光に透けて、半透明に輝くその力強い抜け殻を見て、ビリー君は嬉しそうに喉を鳴らした。
(アダンソン姐御……また一段とデカくなったな。だがしかし、まだまだ僕ちゃんの方が強いぜ)
ビリー君は宝物の入ったミニ缶を大事そうに胸に抱えた。これを後で、アクリルケースの右端に誇らしげに追加するのだ。その姿を見ながら、私は極太の指でチマチマとテプラで作った日付シールを彼に手渡した。
「ほら、回収日を忘れないようにな。記録は収集家にとって命だぞ」
「Vamooooose!( 分かってるよ! 細けぇATM( パパ)だな!)」
ビリー君はシールを受け取ると、少し面倒くさそうに、しかしどこか誇らしげな顔つきで缶の縁へピシッと真っ直ぐに貼り付けた。
大家さんの粋な魔法によって、1年後に向けてすくすくと育つ(予定の)ルビーのザクロ。
脱皮のたびに着実に巨大化していく、壱拾六軒町内会最強の女守護神。
そして、それらを温かく見守る101匹の小さな命と、1人の50代の男。
外の世界では初雪が舞い始めているだろう。だが、ここ地下40mの時間は、地上のどこよりも濃密に、そして優しく流れているのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。これにて、第7章「永遠の抜け殻とアナムネーシス」は完結となります。
次回、第8章でまた皆様とお会いできるのを楽しみにしております。




