第83話「偏光レンズの向こう側」
ザッ、ザッ、ザッ。
豊平川の上流、札幌市南区の河川敷に、私の重い足音と、ビリー君が愛用する『第一ゴム製・山吹色の長靴(極限チューンナップ版)』のスパイクが石を噛む重厚な音が響く。
吹き抜ける晩秋の風は、まるで研ぎ澄まされた氷の刃物のように50代の頬を容赦なく切り裂くが、今日の私たちは本気だ。雪に閉ざされる前の、今シーズン最後の石漁り、オシャレに言うとリバーコーミング中なのである。
「よしビリー君、最終兵器(装備)の装着だ」
私が合図すると、ビリー君はオレンジ色の迷彩ダウンのフードを少し持ち上げ、私が子供用の雪山ゴーグルを改造して作った特製の『偏光サングラス』を、器用にマズル(鼻先)へと装着した。
その瞬間、彼の世界は劇的に一変したはずだ。
――【ビリー君の視界】――
今まで水面でギラギラと白く乱反射して視界を妨げていた光が、偏光レンズの魔法によって嘘のように消え失せた。
彼にとって、豊平川の冷たい水はもう「反射する水面」ではない。まるで『透明な空気の層』だ。川底に転がる無数の砂利、揺れる水草、そして身を潜める魚の影までが、手に取るようにクリアに浮かび上がっている。
さらに、鳥類の直接の祖先である彼の目は、我々人間には感知できない「紫外線」の領域や、ごく僅かな波長の違いをも識別する。
人間の私から見れば、ここはただの灰色の石が転がる殺風景な河原だ。
だが、偏光レンズと恐竜の視覚が融合した彼の目には、紫外線を反射してぼんやりと青白く発光する石英や、毒々しいほど深い紫色に脈打つ流紋岩が、くっきりと見えているのだ。ここは、無数の宝石が転がる『極彩色の荒野』なのである。
その極彩色の視界の中で、ひと際強烈な「信号」を放つものがあった。
「Vamooooose……( あそこに……極上の肉があるぜ!)」
ビリー君の金色の瞳孔が、スッと細く収縮した。
彼の目には、冷たい水流の底に、『鮮血のように赤く、内側から燃えるように発光する塊』が見えていた。ハンターの本能が、それが高カロリーな食料、あるいは重要なエネルギー源だと激しく告げている。
バシャッ!!
彼は本能の赴くまま、迷わず川の中へ飛び込んだ。
だが、その0.5秒後。
「Namooseッッ!?( 冷たッ!? 痛ッ!? なんだこれ氷河期かよ!?)」
極度の寒がりである彼は、雪解け水にも等しい晩秋の豊平川の暴力的な冷たさに、文字通り飛び上がって悲鳴を上げた。
ガタガタと全身を激しく震わせながらも、意地で鋭い爪先を川底へ突っ込み、その「獲物」を正確にキャッチして、命からがら岸辺へと逃げ帰ってくる。
「……だから言わんこっちゃない。秋の北海道の川を舐めちゃいけないよ」
私が呆れながら大きなバスタオルを被せると、彼は「ガチガチガチ……」と牙を鳴らしながらも、誇らしげに咥えていた獲物を私のプラスチックのバケツにカラン、と落とした。
「おおっ! これは見事な『赤ジャスパー(碧玉)』じゃないか!」
水に濡れて艶めく、握り拳ほどの真っ赤な石。
人間の私が見ても美しい鉱物だが、ビリー君の目には、それが最高級の霜降り肉か、あるいは凝縮された炎の結晶のように見えているらしい。
その後も、白亜紀のスーパーハンター(陸上限定)によるハントは続いた。
ふと、ビリー君は、私にはただの崩れかけた泥岩の壁にしか見えない場所で、ピタリと足を止めた。
彼の目には、その殺風景な灰色の崖の中に、不自然なほど完璧な『球体』が埋まっているのが見えていたのだ。
――獲物の卵だ。
彼のハンターとしてのDNAが、そう静かに囁いた。自然界の岩石に、完全な球体など滅多に存在しない。
「Vamoose( ATM( パパ)よ、ここを掘るんだぜ)」
彼が短い前脚で示した場所へ、私は丸太のような極太の腕を振り上げ、地質調査用のハンマーを力強く打ち込んだ。
ガツン! ゴロン。
脆い泥岩が崩れ、転がり出てきたのは、見事な真ん丸のノジュール(石塊)だった。
「すごいなビリー君、よく分かったね。……割ってみるかい?」
パカーン!
私がタガネを当てて石を綺麗に2つに割ると、中から現れたのは、美味しそうな卵の黄身……ではなく、白く輝く『2枚貝の化石』だった。数百万年前、ここ札幌がまだ深い海の底だった頃の、古い古い記憶だ。
「Namoose……( なんだよ、ひからびてんのかよ)」
ビリー君は少し残念そうに鼻を鳴らしたが、その石から漂う「太古の匂い」は嫌いではないようで、フンフンと鼻先で執拗に匂いを嗅いでいる。
バケツの中には、燃えるような赤ジャスパーと、海の記憶を閉じ込めた美しい化石。
現代の光学機器( サングラス)と、古代のハンターの目が勝ち取った、素晴らしい秋の戦利品だ。
「さて、流石に体が冷え切ってしまったね。温まって帰ろうか」
水浴びで濡れたビリー君の羽毛も、付き添っていた私の体も、芯まで冷え切っていた。
私たちが向かったのは、豊平川の上流沿いにある名湯・小金湯温泉だ。
私たちは事前に予約済みの『貸切風呂』へと直行した。いくら南区界隈で彼の存在が認知されつつあるとはいえ、公衆浴場のマナーと他のお客さんへの配慮を欠かすわけにはいかないのが大人の事情というものだ。もっとも、その特別な枠を確保するためには、大家さんの強力なコネが必要不可欠だったわけだが。
ザブゥゥゥン……。
少し熱めのお湯が、冷え切った50代の肩コリと、手足の先までジンジンと染み渡る。ほんのりとした硫黄の香りが心地よい。
「Vamoose……( 極楽……極上だぜ……)」
ビリー君は、偏光サングラスを外したつぶらな「黒い瞳(シマエナガ風)」で、湯船からポカーンと空を見上げた。
さっきまでの、金色の瞳をした『スーパーハンター』の獰猛な顔はどこへやら。今はお湯に浮かぶ黄色いゴムのアヒルのように、顎までお湯に浸かって完全に脱力している。
ふと、貸切風呂の窓の外を見ると、白い妖精――『雪虫』が、フワフワと頼りなく舞い始めていた。
お尻に白い綿のような分泌物をつけたこの小さなアブラムシの仲間が飛び始めると、1週間以内に必ず初雪が降る。それは、北海道民にとって絶対的な冬のサインだ。
もうすぐ、札幌に長く厳しい冬が来る。
でも、あの燃えるような赤い石と、こうして並んで浸かる温かいお湯があれば、きっと今年も、底抜けに楽しいスローライフな冬になるはずだ。
風呂上がりに、腰に手を当てて冷たいフルーツ牛乳を2人で一気に飲み干し、私たちはホカホカと湯気を立てる体で、壱拾六軒町内会への帰路についた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次話も、山悟荘でお待ちしております。




