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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第7章:永遠の抜け殻とアナムネーシス
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第80話「白亜紀サラダと、ルビー色の約束」

 その日の夕方。チャイムの音と共に、隣の佐藤さんがニコニコと上品な笑顔でやってきた。


「アキラさん、これ。親戚から届いたお裾分けなんですけどね。お茶請けにどうぞ」


 彼女が差し出したのは、筆文字が力強い真っ赤なパッケージ。苫小牧(とまこまい)の老舗菓子店・三星(みつぼし)の看板商品『よいとまけ』だった。

 北海道特産のハスカップジャムをふんだんに使ったロールケーキで、その強烈な甘酸っぱさと、何より「日本一食べにくいお菓子」として道民に恐れられ、そして愛されている、アレだ。


 表面にたっぷりとジャムが塗られているため、手で掴むと容赦なくベタベタになる。一応オブラートで包まれてはいるが、それでも指のベタつきは避けられない。だが、その食べにくさを補って余りあるほど美味いのだ。


「おお、よいとまけですか……! 久しぶりですよ。ありがとうございます」


「ふふ、これ、美味しいんですけど切るのが大変でしょ? 昔は包丁がジャムまみれになりましたけど、今は最初から切れているタイプの方ですから、安心して召し上がってね」


 佐藤さんが帰った後、私たちは夕食のテーブルについた。

 パッケージを開けると、確かに等分にスライスされている。この「最初から切れている」という企業の努力という名の進化は、我々道民にとっての偉大な福音だ。デザートの準備は完璧である。


 さて、大家さんも交えて、今夜の夕食は豪快なポークソテーなのだが、その主役を食うほどの存在感を放っているのが、地下の白亜紀エリアで収穫された『アイスプラントの山盛りサラダ』だ。

 葉の表面に水滴のような結晶をまとった不思議な多肉植物は、茶の間(ちゃのま)の明かりを受けてキラキラと小樽ガラスのように輝いている。


「さあ、仕上げですね。私特製の『白亜紀ブレンド・ドレッシング』をかけましょう」


 大家さんが、褐色の瓶を取り出した。中には、怪しげな沈殿物と、琥珀色の液体が層を成している。


「……大家さん、その『白亜紀ブレンド』って、まさか成分まで白亜紀のヤバい植物とかじゃないでしょうね?」


「ふふ、安心してください。ベースは上質なバルサミコ酢とオリーブオイルなんですよ。そこに『アンモナイトの化石から抽出した……ような気分になれるミネラル岩塩』と、数種類のスパイスを漬け込んであるんです」


 大家さんが茶目っ気たっぷりにウインクし、ドレッシングを回しかけると、酸味の効いた香ばしい香りが食卓に広がった。

 ビリー君は、自分の専用取り皿( 特大のボウル)の前で、肉だけでなく謎のキラキラした草にもよだれを垂らしながら行儀よく「待て」をしている。


「いただきます!」


 私が一口食べると、プチプチッとした食感と共に、アイスプラントの自然な塩味と、ドレッシングの深いコクが口の中で弾けた。

 美味い。見た目はSFチックだが、味は極上のイタリアンレストラン級だ。ポークソテーの脂っこさを完璧に中和してくれる。


Vamooooose(ヴァムォォォォス)〜♪( 美味いぜ〜♪)」


 ビリー君もシャクシャクといい音を立ててサラダを完食し、ボウルを鼻先で押しておかわりを要求している。絶妙な塩気が、彼の野生の血を心地よく騒がせるらしい。


 食後のコーヒータイム。

 肉とサラダで満腹になったはずのビリー君は、テーブルの上に置かれた『よいとまけ』の箱と、窓の外に見える佐藤さんの家を、交互にじっと見つめていた。


 佐藤さんは、度々ミカンや柿、お庭で採れた林檎、そして今日はこんなに甘いハスカップのお菓子を「ビリーちゃんに」とお裾分けしてくれる。


「……どうしたんだい、ビリー君?」


 私が尋ねると、彼は地下室の方を指差し、次に佐藤さんの家を指差して、「Kururu(クルル)……」と少し寂しげに鳴いた。


( 僕ちゃんの畑( 地下)でも、佐藤さんにあげられるような、美味しい果物は作れないのか?)


 そう言っているのだ。

 アイスプラントのサラダも美味しいけれど、佐藤さんの上品な笑顔へのお返しにするには、ちょっと「華やかさ」や「甘さ」が足りないと思っているらしい。


「なるほど、恩返しか。義理堅いね。……でも、地下にあるビリー君の白亜紀ランドは乾燥地帯だからなぁ。普通の瑞々しい果物は育ちにくいかもしれないぞ」


 私が55歳の頭を悩ませて極太の腕を組むと、大家さんが眼鏡をキラリと光らせた。


「いえいえ、ありますよ。乾燥に強くて、ビリー君の地下室にぴったりな、とびきりユニークな果物がね」


 大家さんはニッコリと笑った。その顔は天才発明家の顔であり、新たな実験を楽しむ少年の顔でもあったが、語り口はどこまでも穏やかだった。


「これは『ザクロ』。その実の中には、透き通ったルビーのような粒がぎっしり詰まっているんですよ」


 大家さんが持ってきた植物図鑑のページを開くと、ビリー君は食い入るようにその赤い果実の写真を見つめた。

 パカッと割れた実から溢れる、鮮血のように鮮やかで、宝石のように輝く粒。白亜紀の殺伐とした荒野にはなかった、洗練された現代の「美」がそこにあった。


「それにね、このザクロは『女性の果実』とも呼ばれていて、美容と健康にとってもいいんですよ。いつもお肌がツヤツヤで上品な佐藤さんには、ぴったりのお返しだと思いませんか? ビリー君」


Vamoose(ヴァムース)……( 佐藤さんに、ルビーを……)」


 ビリー君は、窓の外の佐藤さんの家をチラリと見た。

 いつも美味しいものをくれる優しいマダム。あのお返しに、僕ちゃんが育てたこの最高の宝石を食べさせてあげたい。彼は力強く頷いた。


「ただね、ビリー君。1つだけ問題があるんですよ」


 大家さんは、影の女司令塔・アダンソン先輩の膨大な「コレクション( ゴミ)」の中から回収された、小さな赤い種を手のひらに乗せた。それはビリー君が持ち込んだ古代種ではなく、先輩がこの家の中( おそらく私が以前食べた果物のおこぼれ)から拾い集めていた、現代の種だ。


「この種から育てると、実がなるまでに最低でも3年、長ければ5年はかかるんです。とうきびみたいに、ひと夏で結果が出るわけじゃありません」


「……!」


 3年。

 生まれてからまだ数年も経っていない( と推定される)彼にとって、それは永遠にも近い途方もない時間に感じられるはずだ。


 私は心配になって彼を見た。また「待てない! 早く食わせろ!」って癇癪を起こすだろうか?

 しかし、ビリー君は静かだった。


 彼はじっと手のひらの種を見つめ、次に佐藤さんの家を見つめ、そして自分の足元を見た。鋭い鉤爪には、以前佐藤さんに施してもらったお洒落なネイルアートの跡が、まだ微かに残っている。


 この家に来て、名前をもらい、家族になった。神主さんには崇められ、佐藤さんは可愛がってくれるし、ハヤテという人間のダチもできた。彼はすでに、この壱拾六軒町内会じゅうろっけんちょうないかいの立派な一員なのだ。

 彼はもう、どこにも行くつもりはない。


Vamoose(ヴァムース)( 僕ちゃん、やるぜ)」


 彼は短く、力強く鳴くと、私の手から小さなスコップを受け取った。

 その目は、白亜紀のハンターの目ではなく、1匹の家族の目だった。


( 僕ちゃんはずっとここにいる。佐藤さんもずっと元気だ。だから3年なんて、昼寝みたいなもんだろ?)


 そう言っているようだった。


 地下40メートルの白亜紀エリア。

 大家さんの自動調光システムが作り出す、人工の穏やかな夕暮れの中。一番日当たりが良く、地熱で暖かい特等席に、ザクロの種は丁寧に植えられた。


「……気が長い話だけど、楽しみだね」


 私がジョウロで水をやると、ビリー君は満足げに鉢の縁を前脚でポンと叩いた。


 それは、ただの園芸ではない。

 『3年後も5年後も、自分と佐藤さんは、変わらずここで笑い合っている』という、未来への確信に満ちた、ルビー色の約束の種まきだった。


 地下室に、しんみりと美しい空気が流れる。

 ……はずだった。


 ガサガサッ。


 背後から、無粋なビニールの音が響いた。

 私が振り返ると、そこにはいつの間に準備したのか、オリビンサンドの砂の上に1人用のレジャーシートを広げ、すっかりピクニック気分で鎮座している恐竜の姿があった。

 ビリー君だ。


 彼は感動的な種まきという儀式を終え、とりあえずは安心したのだろうが、ちゃっかりと地上のテーブルから持ち込んでいた『よいとまけ』の箱を、この地下40メートルで広げだしたのだ。


 彼は王様のようにふんぞり返り、厳かな手つきで箱を開けた。そして、ピンセットのように器用な鉤爪をフォーク代わりに使い、スライスされたロールケーキを1切れ私に、もう1切れを大家さんにスッと差し出した。


Vamoose(ヴァムース)( よく手伝ったな。僕ちゃんからの褒美だ、有り難く食え)」


 偉そうな態度だが、一応彼なりの「労働への労い」なのだろう。

 だが、問題はその直後だった。


 私たちが苦笑いしながらそれを受け取るや否や、彼は箱に残った『よいとまけ』全切れに向かって、顔ごと思い切り突っ込んだのだ。


 もちろん、よいとまけの表面に巻かれたオブラートは、剥がさずに「そのまま食べる」のが正解だ。

 だが、それはあくまで人間が1口サイズで上品に食べる場合の話である。恐竜の異常な体温と大量のよだれ、そして豪快すぎる食いっぷりの前では、薄いオブラートになど何の防御力もなかった。


 その結果。


 瞬時に溶けたオブラートとハスカップジャムが最悪の形で融合し、『最強の粘着物質』となって彼の顔面全体を覆っていた。

 口の周り、鼻先、そして自慢の迷彩ダウンの襟元までもが、鮮やかな紫色のジャムでネッチャネチャのドロドロになっていた。


「……ビ、ビリー君!?」


 私が悲鳴のような声を上げると、彼は「ん?」と満足げに顔を上げた。


 甘すぎるジャムと溶けたオブラートで上下の顎がくっついてしまったのか、彼はいつものように「ヴァムース!」と吠えることもできず、顎をモチャモチャと動かして間の抜けた音を漏らした。


Pupiiii(プピィィ)……( あめぇぇ……)」


 口の周りを紫色の泥棒髭のようにした、白亜紀の頂点捕食者の情けない声に、大家さんが耐えきれずに吹き出した。


 3年後のルビー色の美しい約束と、今現在の紫色のベタベタな悲劇。

 これだから、彼との北海道スローライフはやめられないのだ。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

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