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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第7章:永遠の抜け殻とアナムネーシス
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第78話「とうきびと黄金の夢、待ちきれない番人」

 あの「恐怖のバイオボックス( 生ゴミ処理機)事件」から数日。

 ビリー君は、すっかり植物という存在に対して臆病になっていた。


 強烈なアルコール蒸気を放つ古代の毒花を、大家さんが笑顔でバクテリアの餌食にしたトラウマがよほど深かったのだろう。

 地下の白亜紀エリアに行くのも嫌がり、茶の間(ちゃのま)の熱帯エリアに置かれたパキラがエアコンの風でカサッと揺れただけで、「Namoose(ナムース)……!( ヒィッ、敵だ! 僕ちゃんが食われる!)」と情けない声を上げて、私の太い脚の後ろに隠れてしまう有様だ。


「困りましたねぇ。彼には早く、園芸の健全な楽しさを思い出してほしいんですがね」


 大家さんが、使い込まれた麦わら帽子を被って庭から縁側に顔を出した。手にはスコップと、カラフルなパッケージの種袋をいくつか持っている。


「アキラさん、ちょっと手伝ってくれませんか? 今日は『とうきび』を植えるのに絶好の日和なんですよ。リラ冷え( ライラックが咲く頃の冷え込み)も終わって、ようやく外の土も温まりましたからね」


「とうきび、ですか。もうそんな時期なんですね」


 私が庭履きのサンダルを突っ掛けて外に出ようとすると、ビリー君が私のズボンの裾をガシッと掴んで、潤んだ瞳で不安そうに見上げてきた。


Namoose(ナムース)……( 外の草はマジでヤバい……僕ちゃんを独りにしないでくれ……)」


 私はしゃがみ込み、彼の硬い頭を大きな手で優しく撫でた。


「大丈夫だよ、ビリー君。今日大家さんと植えるのは、変な匂いもしないし、巨大な触手が伸びてきて君を襲ったりもしない。秋になれば綺麗な黄金色になって、茹でると甘〜い、最高の『おやつ』になる植物なんだぞ」


「……Vamoose(ヴァムース)?( ……甘い?)」


 「甘い」という単語に、ビリー君の金色の瞳孔がスッと開き、耳の穴がピクリと反応した。相変わらず、食い気に関してはとてつもなく現金な男である。


 大家さんの家の裏手にある、広々とした家庭菜園。

 たっぷりと雪解け水を含んで栄養を蓄えた黒ぼく土は、初夏の日差しを吸ってふかふかと温かい。


「本州の方ではね、とうきびのことを『トウモロコシ』って気取って呼ぶんですってねぇ。……札幌の初夏といえば、大通公園のとうきびワゴンですよ。焦げた醤油のいい匂いが風に乗ってきてねぇ。……まあ、私は高くて買ったことありませんけど、実はね」


 大家さんが楽しそうに、そして少し悲しそうに語りながら、種袋を開けた。品種は北海道民が愛してやまない甘味の強い『恵味(めぐみ)』か『ゴールドラッシュ』だろう。中に入っているのは、鳥害や病気を防ぐために赤くコーティングされた種だ。


 ビリー君は恐る恐る鼻を近づけ、フンフンと匂いを嗅ぐ。

 ……うん。あのラッパ花のような、脳を焼く危険な甘い香りはしない。土と、穀物の乾いた、ただの「ご飯」の匂いだ。


「さあ、まずは土を深く耕さないといけませんね。……おや、今日は私の出番( 自家製小型トラクター)はいりませんね」


 大家さんがニコニコと笑った。

 ビリー君が、愛用の『第一ゴム製・山吹色の長靴』を不器用に脱ぎ始めたからだ。


 彼は脱いだ長靴を、「絶対に泥で汚さないぞ」とばかりに綺麗に揃えて畦道(あぜみち)の安全地帯に置くと、「ここからは野生の仕事だ」と言わんばかりに身軽になり、本来の『肉食恐竜』の穴掘り衝動を解放した。


 ザッ、ザッ、ザザーッ!!


 鋭い鉤爪( シックル・クロー)が唸りを上げる。

 冬の間に重く固まっていた黒土が、ビリー君の強靭な脚力であっという間に細かく粉砕され、空気をたっぷりと含んだ最高の畝( うね)が出来上がっていく。絶好調の私が極太の腕で重いクワを振るうよりも、遥かにスピーディーで効率的だ。


「すごいすごい! 最新の耕運機より優秀ですよ、ビリー君!」


Vamooooose(ヴァムォォォォス)!!( どうだ! 僕ちゃんの爪は世界一だろ!)」


 大家さんに手放しで褒められ、すっかり調子を取り戻したビリー君は、私の指示に従って等間隔に開けた穴へ、赤い種を3粒ずつ器用に落としていく。

 今度は「早く育て」と無理やり引っ張ったり、大家さんの怪しいオーバードーズ栄養剤( メブキ・マックス)をかけたりはしない。優しく土を被せ、短い前脚でポンポンと土を鎮圧していく。


「よし、これで種まきは完了ですね。夏になれば、背丈がビリー君よりずっと高くなって、フサフサの髭が生えた美味しい実がなりますよ」


Gyau(ギャウ)?( 髭……?)」


 ビリー君は首を傾げたが、大家さんの「茹でると甘いですよ」という魔法の言葉を信じ、満足げに鼻を鳴らした。


 作業を終え、泥だらけの手足を洗い、再びピカピカの山吹色の長靴を履いた後。

 ビリー君は、台所(だいどころ)の窓からじっと裏の畑を見つめていた。


 彼の中にもう、植物への恐怖はない。そこにあるのは、「自分の労働が、いずれ甘くて美味しいおやつに変わる」という極めて健全な期待だけだ。

 その真剣な背中を見て、アダンソン先輩も安心したように、窓枠の上で日向ぼっこを始めた。どうやら、影の女司令塔の厳しいセキュリティ・チェックリストにも、『とうきび=安全・食料推奨』と記載されたらしい。


 カァ、カァ。


 ふと、近くの電線の上で、札幌名物の「異常に太ったハシブトガラス」が、植えたばかりの種を狙って不敵に鳴いているのが見えた。札幌のカラスは知能が高く、ゴミステーションのネットの隙間を巧妙に突く、空のギャングだ。

 その瞬間。

 ビリー君の黒くつぶらな瞳が、一瞬だけスッと細まり、鋭利な『金色』に光った。


Namoose(ナムース)……( 僕ちゃんの極上おやつには、爪先一つ触れさせねぇぞ……)」


 喉の奥で「グルル……」と低く恐ろしい唸り声を上げ、窓ガラス越しに強烈な殺気を飛ばす。空のギャングもたまらず、そそくさと別の電柱へと飛び去っていった。

 こうして、ビリー君の『とうきび畑の絶対的番人』としての日々が始まった。


 しかし、それから3日後の朝。

 ビリー君は、まだ朝の5時だというのに庭の畑の前にドカッと鎮座していた。


 迷彩柄のダウンを着込み、長靴を履いたその姿は、まるで重要施設を警備する特殊部隊員のようだ。だが、彼が血走った目で監視しているのはテロリストではなく、沈黙を守る「ただの黒土」である。


「……ビリー君、そんなに親の仇みたいに睨みつけても、植物には植物のペースってもんがあるんだよ」


 私が窓越しに珈琲のマグカップを持ちながら声をかけると、彼は不満そうに「Namoose(ナムース)……( 遅すぎるぞ。いつになったら食えるんだ)」と鳴き、太い尻尾でバンバンと地面を叩いた。

 以前、ハオルチアが大家さんの謎の薬品で10秒で爆速成長するのを見てしまったせいで、自然界の健全なタイムラグが全く我慢ならないらしい。


「あはは、彼は本当にせっかちですねぇ」


 大家さんが、湯気の立つ熱い緑茶を持って縁側にやってきた。


「でもね、この『待つ時間』があるからこそ、収穫して茹でた時の喜びが大きいのですよ。それに……大通公園のとうきびワゴンも、今は観光客向け価格で、手軽なオヤツという値段じゃありませんからねぇ」


「……いや本当に。私の子供の頃はもっと安かったんですけどね。屋台の味もいいですが、家で食べるのも格別ですよ」


 私は懐かしさと、昨今の物価高への恨めしさを込めて溜息をついた。


「昔はね、ビリー君。公園のワゴンでとうきびを買うと、サービスで『爪楊枝』が1本、お尻のところにちょこんと刺さってたんだ。あれは多分、食後に歯に挟まった皮をシーシーするための優しさだったんだろうけど……」


 ビリー君が「ん?」と興味深そうに耳を傾けている。私は55歳の衰え始めた歯茎の感触を確かめながら続けた。


「いざ抜いて使おうとすると、焼きたての蒸気で木がふやけてるのか、すぐ『ふにゃ〜』と折れちゃうんだよ。で、結局、歯の隙間に挟まった硬い皮が1日中取れなくてイライラするんだ。この歳になると、歯間の詰まりはマジで死活問題だからな……」


Vamoose(ヴァムース)……( 歯に挟まるのはマジで勘弁だな……)」


 ビリー君は自分の鋭いナイフのような牙を、舌でペロリと舐めた。肉食恐竜にとっても、歯のトラブルは命に関わる恐怖なのだろう。


「だからこそ、こうして庭で育てるんだよ。自家製なら採れたてを好きなだけ、しかも『タダ』で食べ放題だ。家なら洗面所に頑丈なデンタルフロスも糸ようじも完備されてるから、思いっきりかぶりつけるぞ」


Vamooooose(ヴァムォォォォス)!!( タダ! 食べ放題! これで僕ちゃんのキバに皮が挟まっても安心だぜヒャッハー!!)」


 「タダ」と「食べ放題」。この2つのキラーワードを聞いたビリー君の目は、一気に輝きを取り戻した。現金な男だ。

 彼はその場に伏せ、顎を土に乗せて、まるで種に直接エールを送るように「Kururu(クルル)……( 早く出ろ、僕ちゃんの極上のおやつ……)」と優しく喉を鳴らし始めた。


 その光景を見ていたアダンソン先輩も、『よし、食い物が絡めばこれ以上こいつが勝手に土を掘り返す心配はなさそうだな』と判断したのか、警備の手を休めて私の丸太のような肩に飛び乗り、優雅に毛繕いを始めた。


 それから数時間。

 太陽が高くなり、土が十分に温まってきたお昼過ぎ。ついに、その瞬間が訪れた。


「……あ! ビリー君、見てごらん!」


 私が指差した先。

 黒い土が、ほんの少しだけポコッと盛り上がり、そこから鮮やかな黄緑色の「槍」のような小さな芽が、ピョコンと顔を出していた。


Vamooooose(ヴァムォォォォス)!!( 出た!! 僕ちゃんのおやつの頭が出たぞヒャッハー!!)」


 ビリー君はガバッと飛び起き、その小さな芽を絶対に踏まないように、でも嬉しくてたまらないという風に、その周りをピョンピョンと小刻みに飛び跳ねて喜びの舞を踊った。


 それは、大家さんの薬品によるドーピング魔法ではない。

 太陽の光と、雪解け水と、そして「美味しいとうきびを腹一杯食べたい」というビリー君の強欲な祈りによって自力で土を押し退けた、本物の命の芽だった。


 私は珈琲を啜りながら、その小さな黄緑色の躍動を見守った。

 自分の手で土を耕し、芽吹きを待つ。北海道スローライフも悪くない。


 ただし、秋の収穫までの長い数ヶ月間、このせっかちで大食らいの恐竜をなだめ続ける苦労を除けば、だが。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

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