第77話「バイオの棺桶」
私とビリー君は、頭蓋骨の裏側で屈強な荒くれ者が和太鼓を乱れ打ちしているような、破滅的な頭痛と共に目を覚ました。
昨夜の記憶はひどく断片的だ。だが、とんでもない醜態を晒したことだけは、55歳の脳細胞の片隅に深く刻み込まれていた。
地下40メートルの白亜紀ジオ・フロントで、ビリー君の太い首に極太の腕を回して肩を組み、「サッポロカイギュウが虹色だぁ〜」とヘラヘラ笑いながら、中島みゆきの『悪女』を熱唱していた自分の姿。思い出すたび、今すぐ玄関の土間に頭を打ち付けて記憶を消去したい衝動に駆られる。
「……さて、君たち。少し顔色が悪いようですが、この『危険指定植物』の処分について、真面目に話し合いましょうか」
我が家の茶の間。重苦しい沈黙を破ったのは、大家さんの低く、そして恐ろしく冷たい声だった。
大家さんがビリー君の方を向いて小さな子供をいさめるように語りかけた。
「今回『メブキ・マックス』で成長が早まってしまったようですが……この植物が危険であることに変わりはありません」
テーブルの中央には、昨夜我々を狂気の宴へと誘った「例のラッパ花」が、分厚いアクリルケースに厳重に隔離されている。
大家さんは腕を組み、その鋭い眼光を、さらに数段研ぎ澄ませて私たちを射抜いていた。いつもは好々爺然としている彼の、こういう時の「長」としての威圧感は、背筋が凍るほど恐ろしい。
そして、アダンソン先輩もテーブルの上に陣取り、8つの単眼をギラつかせて強烈な怒りのオーラを放っていた。昨夜、自業自得でへべれけになった巨漢と恐竜の介抱を一手に引き受けさせられた彼女は、明らかにブチギレている。
もちろん、我が子の過ちは親である私の責任でもある。ビリー君が『メブキ・マックス』をくすねたことに気づいた時点で、面白がらずにすぐに止めておくべきだったのだ。普通の食虫植物だったであろうモノを、危うく「快楽物質を撒き散らす危険ドラッグ植物」に育て上げてしまうところだった。深く反省している。
「……異議なしです。こんな危険な植物、置いておけません」
私が即答し、アクリルケースに手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「Gyauッ!!( やだっ!!)」
ビリー君が巨体を翻し、アクリルケースにガバッと抱きついて、必死の抗議声明を上げたのだ。
「Vamoose! Vamooooose!!( これ美味いんだ! 僕ちゃん、甘くて良い気分なるんだ! 捨てるな!!)」
彼は太い尻尾をブンブンと振り回し、ケースから絶対に離れようとしない。昨夜の芳醇な蜜の香りと、あのフワフワした無敵の高揚感が忘れられないのだ。薬物依存、あるいはスーパーのお菓子売り場で床に転がって駄々をこねる3歳児そのものである。
「ビリー君、わがままを言うな。それは酒じゃない、君の脳を焼く毒なんだぞ」
私はドウェイン・ジョンソンのような丸太の腕を伸ばし、力ずくで彼を引き剥がそうとした。
だが、次の瞬間。
「――シャアァァァァッ!!」
ビリー君が私の腕に向かって牙を剥き出し、背筋も凍るような低い威嚇音を漏らした。
ウッ、と私の喉が鳴る。
彼のつぶらな「黒い瞳( シマエナガ風)」が、スッと針のように収縮し、冷酷無比な『金色の瞳( 爬虫類モード)』へと変わっていたのだ。
それは、白亜紀の荒野で獲物の喉笛を掻き切る、完全なる殺戮兵器の目。絶対の信頼関係にある家族の私に対して、本気で殺意を向けて威嚇するなんて。やはりあの花のアルカロイド成分が、彼の理性をドロドロに溶かしてしまっているのだ。
「……困りましたねぇ。君たちは一度快楽に溺れると、本当に歯止めが効かないからなぁ」
大家さんが、ため息をつきながら困り顔で腕を組んだ、その時だった。
ダンッ!!
テーブルの上から、漆黒の影が弾丸のように跳躍した。
アダンソン先輩だ。
異名『黒い稲妻』の名の通り、先輩は駄々をこねて威嚇するビリー君の鼻先に音もなく着地すると、その太い前脚( 触肢)を大きく振り上げ――
パシィィィッ!!!
乾いた破裂音が、静まり返った茶の間に響き渡った。
アダンソン先輩渾身の、往復ビンタならぬ『触肢ビンタ』が、ビリー君の最も敏感なマズル( 鼻先)にクリティカルヒットしたのだ。
「……ッ!?」
ビリー君の巨体が、文字通りカチンと凍りついた。
凶悪だった金色の瞳が、一瞬でパチクリと正気の黒に戻る。
物理的に痛かったからではない。この家の「ゴミ管理責任者」であり、昨夜もっとも迷惑を被った義姉からの、言葉のない、しかし氷のように冷たく痛烈な怒りを魂で感じ取ったからだ。
先輩は、ビリー君の鼻の上で腕組みをして仁王立ちし、8つの単眼でジッと彼を見下ろして睨みつけていた。
( 目を覚ませ、大馬鹿垂れが)
( 私の寝床から勝手に持ち出した挙句、こんな危険ゴミを増やしやがって。次やったら、貴様の神経を直接切断するぞ)
言葉はなくとも、その殺気立ったメッセージは痛いほど伝わったらしい。
「Namoose……( 僕ちゃん……ごめんなさい……)」
ビリー君はシュンと首をすくめ、憑き物が落ちたような顔で、力なくケースから手を離した。
「……よし、反省したみたいですね。では、処刑( 処分)を始めましょうか」
大家さんは静かにそう言うと、持参してきた重厚な銀色のボックスの厳重な金属のロックをカチャリと外し、重い蓋を開けた。
そこには、恐ろしい硫酸や溶解液……ではなく、一見するとハムスターの寝床のような、ふわふわした茶色いチップ( おがくずとヤシ殻繊維)が敷き詰められていた。
ほんのりと温かく、発酵したような土の匂いが立ち込める。
「……あれ? 大家さん、これってただのコンポストじゃありませんか?」
私が拍子抜けして尋ねると、ビリー君も「Vamoose?( なんだ、ただの土じゃんか)」と、少し安堵したような、あわよくば後でこっそり掘り返せそうな顔をした。
その瞬間、大家さんの眼鏡の奥の瞳が、絶対零度の冷酷さでキラリと光った。
「……その油断に満ちた見た目に、騙されちゃいけませんよ、君たち」
大家さんは長い金属製のトングでアクリルケースから毒花を摘み上げると、その茶色いチップの奥底へと無造作に埋め込んだ。
「このフワフワの土の中にはね、私が長年に渡って研究し培養してきた『好気性超好熱細菌』が、何十億、何百億と潜んでひしめき合っているんですよ。彼らはね、常に飢えている。有機物であれば何でも、猛烈な勢いで群がり、分子レベルで分解し尽くしてしまうんです」
大家さんは、ビリー君の目をじっと見つめて、ゆっくりと、呪詛を吐くように続けた。
「そのすさまじい分解熱は、常に70度を超えている。……いいですか? もしこの中に、体重400キロの極めて凶暴なヒグマ――そう、あの『OSO18』クラスの巨体を丸ごと放り込んだとしても、24時間後には、骨の欠片も残さず、ただの綺麗な『土』になってしまうんですよ……」
「……!!」
ビリー君がヒッ、と息を呑んだ。
ただの生ゴミ処理機ではない。この、ふわふわした茶色のベッドは、白亜紀の捕食者さえも震え上がる、細胞を貪り食らう「透明な悪魔の胃袋」だと言うのか。
「だからね、ビリー君。もし『あとでこっそり掘り返そう』なんて愚かなことを考えて、うっかりこの中にその自慢の手を入れたら……」
大家さんは、ニッコリと微笑んだ。
優しくシワの寄った人の良い笑顔。だが、目だけが全く笑っていない。瞳の奥に広がるのは、純粋な狂気( サイエンス)の深淵だ。
「君のその可愛い前脚も、一瞬で名もなきバクテリアのご飯になっちゃうからね? ……札幌市の黄色い指定ゴミ袋に入れられるより、ずっとエコで、そして残酷な最期ですよ」
「Namoose……!!!( ヒィィッ……!!!)」
恐怖が、完全に臨界点を超えた。
ビリー君は短い悲鳴を上げ、銀色のボックスから脱兎のごとくバックステップした。
そして、命の危険を感じた極限のストレスとショックにより、彼のお腹がギュルルルルッ! と不穏な音を立てて鳴り――
ブスゥッ……シュルルルルゥゥ……。
その瞬間、茶の間の空気が、色を持った。
腐った卵と硫黄、そして真夏のヘドロを下水で3日3晩煮詰めたような、目に見えるほどの「黄色い毒ガス」が、ビリー君の臀部から勢いよく放たれたのだ。
あのヒグマをも泣いて逃げ出させたという、恐竜の強力な消化酵素が生み出す伝説の『生物化学兵器( オナラ)』である。
「うわあっ! クッサ!!」
「……ゴホッ! 目が痛い! こ、これは、コンポストの超好熱細菌より強烈だ……!!」
私と大家さんは鼻をつまみ、涙目でむせ返りながら、窓際へと必死に転がって逃げた。アダンソン先輩もたまらず、8本の脚をバタつかせて天井の換気扇へ向かって緊急避難していく。
当のビリー君は、自分の放ったガスのあまりの臭さと、大家さんの脅しによる恐怖で完全にパニックに陥り、モンステラ・デリシオーサの茂みに隠れるようにして部屋の隅でガタガタと震えていた。
「美しい花には毒がある」。
「優しそうな大家さんは、怒らせるとヒグマより怖い」。
そして、「ビリー君のオナラは、時空を超えるバイオテロ兵器である」。
二日酔いの頭に、3つの重い教訓を、消臭スプレーが全く効かない強烈なニオイと共に刻み込まれた、春の朝だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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