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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第7章:永遠の抜け殻とアナムネーシス
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第74話「くしゃみとプリズムの向こう側」

 札幌の4月下旬は、残酷な季節だ。

 路肩の雪山はようやく完全に消滅し、アスファルトが乾いて春の陽気が満ちる。だが、それと引き換えに「白い悪魔」が舞い降りるのだ。


 シラカバ花粉である。

 スギ花粉のない北海道において、シラカバは最強にして最悪のアレルゲンだ。


 そんな「粉っぽい」ある日の午後。

 我が家の地上階、茶の間(ちゃのま)のテーブルの上には、大家さんの特製スプレーで巨大化した『古代ハオルチア』が鎮座していた。


 日中はクリスタルのような透明な緑色で光を浴び、夜になると青白く発光して高濃度の酸素を供給する。この「光る空気清浄機」のおかげで、部屋の中だけは完全に清浄な空気が保たれている。

 だが、私の視線はそのテーブルの横、ホットカーペットの上に注がれ、深い溜息をついていた。


「……ビリー君。土間(どま)で大人しく待っていなさいと言ったはずだが?」


Vamoose(ヴァムース)……( スースー……カーペットあったけぇ……)」


 今日の彼は、裏山の麓で春の泥んこ遊びを心ゆくまで堪能して帰ってきた。その結果、アンズ色(あんずいろ)の美しい羽毛は泥にまみれ、全身が「チョコフォンデュされたドーナツ」のような惨状になっている。

 私がタオルの準備をしている隙に茶の間(ちゃのま)へ上がり込み、あろうことか泥だらけのまま腹を出して爆睡しているのだ。50代の几帳面な男にとって、この後の掃除を想像するだけで頭が痛い。


 叩き起こして風呂に放り込んでやろうと腕まくりをした矢先、ピンポーンとインターホンが鳴った。


 玄関を開けると、大家さんがスーパーのレジ袋を提げて立っていた。


「やあ、アキラさん。……ズズッ。今日は黄砂とシラカバのダブルパンチですねえ。目も鼻もグズグズですよ」


「わかります。私も朝からアレグラ漬()けです。……どうぞ上がってください。ハオルチアのおかげで、茶の間(ちゃのま)は天国ですから」


 大家さんは目を赤く腫らしながらも、穏やかに微笑んで靴を脱ごうとした。

 その瞬間だった。

 大家さんの鼻腔に、生理現象という名の暴風警報が発令されたのは。


「……ハ、ハックションッ!!」


 玄関から茶の間(ちゃのま)まで振動するほどの、豪快なクシャミが炸裂した。


 シュバッ!!


 茶の間(ちゃのま)のテーブルに置いてあったハオルチアが、音速で反応した。


「えっ……!?」


 透き通るようなエメラルドグリーンだった窓(葉の先端)が、瞬時にしてディープ・レッドの毒々しい「警戒色」に染まり、葉全体がギュッと硬く縮こまったのだ。

 まるで、危険を察知したイソギンチャクのように、じわっと赤い色素が滲み出ている。


「……あわわ、ごめんよ! 驚かせちゃいましたかね?」


 大家さんが慌てて口元を押さえる。

 その真っ赤な変化を見て、泥だらけで寝ていたビリー君が弾かれたように飛び起きた。


Namoose(ナムース)!?( なんだ!? 僕ちゃんへの敵襲か!?)」


 彼は即座に戦闘態勢に入り、真っ赤になった植物を遠巻きに見つめながら、「シャーッ」と低い声で喉を鳴らして威嚇している。


「……すごい反応速度ですね、ハオルチアも、ビリー君も……」


 私はルーペを取り出し、赤く染まった葉脈を観察した。


「どうやらこの古代種は、特定の周波数の振動に防衛本能を起こすのかもしれませんね。瞬時にアントシアニンを生成して赤く変色することで、『僕は美味しくないよ、毒があるよ』とアピールしているんでしょう」


「なるほどねぇ。私の花粉症のクシャミが、腹ペコの恐竜の鼻息に聞こえちゃったわけですか。……悪いことをしましたねぇ」


 大家さんが、しょんぼりと眉を下げて、ハオルチアの葉をそっと指先で撫でた。


「ごめんね、怖くないですよ。ただの老人のアレルギー反応ですよ」


 大家さんの優しい声と、発明家特有の温かい指先が伝わったのだろうか。

 カチカチに縮こまっていた葉がゆっくりと緩み、毒々しい赤色は、じわじわと元の穏やかなエメラルドグリーンへと戻っていった。

 ハオルチアが安全を示したのを見て、ビリー君もピンと立てていた尻尾を下ろした。


「ふふ、まるで信号機ですね。赤は『止まれ』、緑は『安全』。……さてアキラさん、お詫びと言ってはなんですが、特売のイチゴを買ってきましてね」


 大家さんがレジ袋を持ち上げたが、私は首を横に振った。


「お心遣いありがとうございます、大家さん。ですが、優雅なイチゴタイムの前に、まずはこの泥だらけの怪獣を綺麗にしないと、茶の間(ちゃのま)が大変なことになりますから」


「おや、それは確かに。では私も手伝いましょう」


Namoose(ナムース)( めんどくせぇ。舐めれば落ちるだろ、僕ちゃんは)」


「文句を言わない。……ほら、ビリー君。今日は特別に『ピコバブール・モード』全開でちゅよ〜」


 私は、カーペットに泥の足跡を残した恐竜をガラス張りの専用シャワーブースへと誘導した。

 ビリー君は「お?」と期待に満ちた顔で中に入り、大人しくお座りをしてシャワーヘッドの前で待機した。大家さんも防水仕様のツナギに着替え、ニコニコとその様子を見守っている。


「それじゃあ、スイッチオン!」


 シュワワワワワ……。


 ノズルから噴き出すミクロの泡、大家さん発明の『ピコバブール洗浄水』が、ビリー君の羽毛に絡みついた頑固な泥汚れを優しく包み込み、根こそぎ浮き上がらせていく。

 温かいお湯と、毛穴の奥まで届くくすぐったい泡の感触。ビリー君の金色の瞳はとろりと垂れ下がり、至福の表情が最高潮に達した。


 そして、彼は浴室の天井に向かって、あの決め台詞を高らかに叫んだ。


「|Pikobaboooolピコバブーーールッ!!( 僕ちゃん、極・上だーーっ!!)」


 浴室のタイルに反響して、いつもより高く、突き抜けるような澄んだ「喜びの咆哮」が家中に響き渡った。


 ビリー君を洗い終え、タオルで拭く準備をするために、私と大家さんが一時的に茶の間(ちゃのま)へと戻った、その時だった。


「あっ! 大家さん、見てください!」


 私が指差した先――茶の間(ちゃのま)のテーブルの上で、信じられない現象が起きていた。

 テーブルに置かれたままだった古代ハオルチアが、浴室から響いてきたビリー君の声に呼応するように、激しく明滅していたのだ。


 大家さんのクシャミの時は毒々しい「赤」だった葉の色が、今は内側から七色のプリズムを放ち、茶の間(ちゃのま)の天井や壁を、まるで極彩色のオーロラのように美しく照らし上げている。

 透明な「窓」の中で光が乱反射し、部屋中に映し出された虹が、ミラーボールのようにゆっくりと回っていた。


「……うわぁ、綺麗ですねぇ」


 大家さんが、感嘆の声を漏らした。


「さっきのビリー君の『シャーッ』という低い威嚇音には反応しなかったのに……どうやら、あの突き抜けるような高音域の『歓喜の周波数』が、ハオルチアの細胞内の水分とぴったり共振して、光の屈折率を劇的に変えたみたいです。……いや、難しい理屈は野暮ですね」


 そこへ、シャワーを終え、濡れたフワフワの羽毛をブルブルと震わせながら、ビリー君が茶の間(ちゃのま)へと入ってきた。

 彼は、自分の声の余韻で部屋中がキラキラと虹色に輝いているのを見て、キョトンと首を傾げた。


Vamoose(ヴァムース)?( 僕ちゃんの声で光ったのかい?)」


 自分の歓喜の咆哮がこの光を生み出したのだと理解したビリー君は、おもむろにテーブルに近づくと、鼻先で透き通る葉をツンツンと突っついた。

 するとハオルチアは、くすぐったそうに淡いピンク色にポウッと灯り、また元の静かなエメラルドグリーンへと戻っていった。


「……気に入ったみたいですね」


 私がバスタオルで彼の体を拭こうとすると、ビリー君は「Namoose(ナムース)( 気安く触るな、僕ちゃんのだぞ)」と私の手を避け、ピンセットのように器用な前肢でガシッとハオルチアの鉢を抱え込んだ。

 まるで、一番のお気に入りの宝物を誰にも渡すまいとする子供のようだ。


「おや、ビリー君。それはアキラさんの茶の間(ちゃのま)の……」


Vamoose(ヴァムース)……( 僕ちゃんの部屋に置く……)」


 ビリー君は鉢を大事そうに抱えたまま、地下へと続くエレベーターの方へスタスタと歩き出した。

 向かう先は、地下40メートル地点。

 飴色に輝くサッポロカイギュウ広場の一画にある、彼専用の個室兼、私たちの憩いの場でもある『白亜紀ジオ・フロント』だ。


「あーあ、奪取して持って行っちゃいましたね」


「ふふ、まあ良いではありませんか。あの場所は地熱システムのおかげで年間を通して暖かいし、植物にとっても居心地が良いはずですよ」


 私たちは苦笑しながら、オレンジ色の恐竜の背中を見送った。


 静かになった茶の間(ちゃのま)に、プリズムの淡い虹色がまだ少しだけ残っている。

 大家さんは安心したように笑い、持参した袋からパック入りの真っ赤なイチゴを取り出した。


「さて、一仕事終えたところでお詫びのイチゴです。練乳をたっぷりかけて食べましょう」


「ありがとうございます。……でも大家さん、シラカバ花粉症の時期に、バラ科の果物は大丈夫ですか? 口の中が痒くなる口腔アレルギーが出やすいでしょう」


 シラカバ花粉症とバラ科(リンゴ、サクランボ、イチゴなど)のアレルギーはセットで発症しやすい。交差反応というやつだ。


「ええ、知っていますとも。ですがね、アキラさん」


 大家さんは、チューブの練乳をたっぷりとイチゴに絞りかけながら、いたずらっぽくウィンクした。


「こうやって練乳で完全にコーティングしてしまえば、アレルゲンも粘膜に届かない……という気がしませんか? 病は気から、ですよ」


「……それは天才科学者としてあるまじき理論ですね」


 私が苦笑しながらイチゴを口に放り込むと、大家さんも嬉しそうにそれに続いた。


「それにしても、練乳って昔は缶入りで、底の方をスプーンでほじくったものですがね。いつの間にこんな便利なチューブになったんでしょうかねぇ」


 昭和生まれの男2人が、甘いイチゴを頬張りながら春の味覚に挑む。


 地下40メートルにあるビリー君の部屋の枕元には、今日からあのハオルチアが鎮座することになった。

 彼が寝言で「Pikobabool(ピコバブール)……( 僕ちゃん、極上……)」と幸せそうに呟くたび、暗い太古の地下深くで、彼のためだけの小さな虹が掛かっていることだろう。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次話も、山悟荘でお待ちしております。

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