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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第6章:恐竜的、あまりに人間的
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第68話「ウソタンナイの潜水夫」

 完璧な42度の湯加減。硫黄の微かな香り。

 私は静かに、防寒着のジッパーを下ろし……ようとして、ピタリと手を止めた。


 いかん。ここで温泉に浸かってしまえば、50代の肉体は完全に「オフモード」へと切り替わり、二度とマイナス25度の吹雪の中へは戻れなくなるだろう。壱拾六軒町内会じゅうろっけんちょうないかいの未来を、この一時の快楽で棒に振るわけにはいかない。


「……ふぅ。あぶない、あぶない」


 私は未練を断ち切るようにジッパーを上げ直し、外していた分厚い手袋をギュッと装着した。

 そして、湯の中で「温泉親父」と化している白亜紀の相棒の首根っこを、ドウェイン・ジョンソン級の極太の腕で容赦なく掴み上げた。


Namoose(ナムース)Namoose(ナムース)Namoose(ナムース)……( おいATM( パパ)、何をする! 僕ちゃんはまだ芯まで温まって……)」


「ビリー君、極楽はここまでだ。仕事の時間だよ」


 私は抗議するビリー君を小脇に抱え、温泉洞窟を後にして猛吹雪の吹き荒れる外の世界へと飛び出した。

 その瞬間である。

 マイナス25度の世界で暴力的な冷気が、濡れそぼったビリー君の体を包み込んだ。その体感温度は軽くマイナス30度を下回っていたであろう。


Namoose(ナムース)!?( 寒ぃぃぃぃッ!?)」


 ビリー君の悲鳴とともに、水を含んでいた彼のアンズ色(オレンジ)の羽毛が、文字通り「一瞬」で凍りついた。バサバサだった羽毛は鋭い氷柱(つらら)のようにカチカチに固まり、彼はさながらオレンジ色の氷の彫像のようになってしまった。


「うわっ、まずい! ビリー、そのままじっとしてろよ! 砕けたら大変だ!」

 映画『ターミネーター2』で俳優ロバート・パトリックが演じた「T-1000」が液体窒素で凍りついた所を、かの有名な「T-800」に、地獄で会おうぜベイベーと砕かれてしまうシーンを思い出す。


 しかし、ビリー君はたとえ砕けても解ければ元の姿に戻れる液体金属ではない、ただの炭素生命体だ。私は氷漬けの恐竜を抱えたまま、絶好調の脚力で雪を蹴立ててベースキャンプへと走った。


「ハヤテ君! ブロアだ! エンジンブロアを! ゆっくり融かすんだ!」


「うおっ、ビリー君が冷凍食品みたいになってる! 了解っす!」


 雪鯨号(ユキクジラ)の荷台で待機していたハヤテ君が、除雪用の強力なエンジンブロアのスターターロープを力強く引いた。


 ゴォォォォォォッ!!


 轟音とともに、雪鯨号(ユキクジラ)のエンジン熱を利用した程よい温風が吹き付けられる。風を全身に浴びたビリー君の表面からもうもうと水蒸気が上がり、カチカチだった羽毛がみるみるうちにフワフワに乾いていく。


Gyau(ギャウ)〜( 良い風だぜ〜)」


 ビリー君は目を細め、オレンジ色の巨大なタンポポのように膨らみながら、満更でもない顔で温風を受け入れていた。


「よし、完全に乾いたな。次はこれだ」


 私は、大家さんがこの遠征のために密かに新調してくれていた『ダウンジャケット・マークII』を取り出し、ビリー君に着せた。以前のモデルよりも宇宙服のような高機能断熱材が強化され、表面には川の泥や氷を弾く特殊な防水・防汚加工が施されているオレンジの迷彩柄ドライスーツだ。

 さらに、仕上げは足元である。


「これもお前の足の形に合わせて作ってもらった、特注の長靴だぞ。色も、お前が好きな『山吹色( やまぶきいろ)』だ」


Vamoose(ヴァムース)!( おお、いい色じゃんか! ゴキゲンな色だぜ!)」


 ビリー君は金色の瞳を輝かせた。

 北海道が誇る老舗メーカー「第一ゴム」が、ラプトルの脚力に耐えうるよう再構築した至高の逸品。鮮やかな山吹色のボディは吹雪の中でもひときわ目立ち、底には氷を削る「金剛砂( こんごうしゃ)」を練り込んだ伝統の『ゴールド底』を採用。今回はさらに、タングステン製の屈強なスパイクを増量した最強の防滑仕様へと進化している。


 もちろん、私の手によって、彼の足の立派な鉤爪が長靴の先から自然に飛び出すミリ単位の加工も完璧に引き継いである。これなら、凍った川底の岩肌も今まで以上に自由自在に掴めるはずだ。


 私たちが身支度を整えて川岸へ向かうと、大家さんとハヤテ君の準備も完了していた。

 目の前を流れるウソタンナイ川は、厚さ30センチ以上の分厚い氷に覆われ、ただの白い道のようにしか見えない。


「さあ、アキラさんたちも本格的な準備をしましょうか」


 大家さんがニコニコしながら荷台から引っ張り出してきたのは、まるで深海探査用の潜水服のような重厚な装備だった。


「内側にメタンハイドレート由来の発熱体を仕込んだ、『電熱ドライスーツ』ですよ。これなら、氷点下の水に全身を沈めても、体温を完璧に維持できると思います。いくらアキラさんの腰が完治して絶好調だとはいえ、絶対に冷やしてはいけませんからね」


「……助かります、大家さん。さすがにこの寒さで水に入るなんて、本来なら自殺行為以外の何物でもありませんからね」


 私が分厚いゴム製のドライスーツを着込み、バッテリーのスイッチを入れると、背骨に沿ってじんわりと命の温もりが広がっていくのを感じた。


 ふと見ると、ハヤテ君が被っているヘルメットの上で、黒い小さな影がカサカサと動いていた。


「ん、ハヤテ君。その頭の上のドーム、改めて近くで見るとすごい作りだね」


「これっすか? 大家さんが作ってくれた、アダンソン先輩専用の『耐寒コクピット』ですって。アキラさん、クモと心を通わせられるなんて知りませんでしたよ。あ、これ、中は電熱線が通っててマジで快適みたいっす」


 ハヤテ君のヘルメットの頂上には、透明な強化プラスチック製の半球型ドームがしっかりと固定されていた。中は適温に保たれておりよく見ると小さな換気口とタッチパネルまで取り付けられている。アダンソン先輩が8つの瞳をギラギラと光らせて、タッチパネルでドーム内の環境を自ら操っているのだろうか。周囲を360度くまなく監視できるようになっており、先輩はドームの中で「ここなら吹雪も関係ない」とでも言うように、余裕の動作で触肢(しょくし)をせっせと手入れしていた。


「いやあ、いくら影の女司令塔とはいえ、さすがにこの極寒の天北でアダンソン君を野ざらしにするのは可哀想ですからねぇ。ちょっとした思いつきでヒーターを組み込んでみましたよ。タッチパネルで温度設定もドームからの出入りも自由です。すごいでしょ?」


 大家さんが嬉しそうに笑う。相変わらず、オーパーツレベルの発明品を「ちょっとした思いつき」で作ってしまう好々爺(こうこうや)である。


「ではハヤテ君、氷を割りますよ。ドーザーをお願いできますか」


「オッケー、大家さん! どいててください、派手にやりますよ!」


 ハヤテ君が雪鯨号(ユキクジラ)のキャビンに乗り込み、レバーを引いた。


 ズオォォォン!!


 重低音の唸りとともに、フロントに装着されたハイドロ・ドーザーが、氷の張った川面へと力強く叩きつけられた。


 バリバリバリッ!! ゴシャァァッ!!


 分厚い氷の装甲が粉々に砕け散り、その下から黒々と淀んだ、底冷えのする川水が姿を現した。

 すかさず大家さんが、その水面へ新兵器『超音波・砂金吸引機』の太いノズルを差し込んだ。


「……いいですか、アキラさん。狙うのは岩盤の深い裂け目ですよ。砂金はただでさえ比重が重いですが、時空の揺らぎを吸った『黄金のナゲット』はさらに質量を増して、一番深い底の底に溜まっているはずなんですよ」


「了解しました。底の底、ですね」


 私は意を決して、砕けた氷の隙間から、黒い川の中へ重い足を踏み入れた。

 ドライスーツ越しに、尋常ではない水圧と、万力を締め上げるような冷気の重みが伝わってくる。だが、スーツの電熱線が必死に熱を放ち、冷たい死の世界を背中から力強く押し返してくれた。


Vamoose(ヴァムース)!!( 俺が最初に見つけるぜ!!)」


 山吹色の長靴を履いたビリー君が、大きな水しぶきを上げて川底へと勢いよく飛び込んだ。

 彼は持ち前の恐るべき動体視力と、水に顔をつけたままでも周囲を見渡せるハンターの目を生かし、水中の岩陰をギョロギョロと凝視している。


 アダンソン先輩も、ハヤテ君の頭上の温かい特等席から、水面の僅かな揺らぎや氷の軋む音を完璧に監視していた。


 吹雪舞う極寒の天北、ウソタンナイ。

 かつて無数の山師たちが夢破れて消えていったこの過酷な川で。

 壱拾六軒町内会じゅうろっけんちょうないかいの未来を左右する「黄金のナゲット」を目指し、55歳の巨漢と恐竜ヴェロキラプトルの、凍てつく川底の探索がいよいよ開始された。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

無事に山悟荘へ帰るその日まで、もう少しだけ北の旅にお付き合いください。

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