第65話「有給休暇と雪鯨号(ユキクジラ)」
氷点下10度。吐く息は白を通り越して、もはや物理的な質量を持った煙のようだ。
私は分厚い防寒着に身を包み、愛用の赤いママさんダンプを押して庭の雪を掻き出していた。ザクッ、ザザーッという心地よい音と共に、大量の重い雪が軽々と宙を舞う。
あの地下の岩盤浴と白樺樹液のデトックス効果のおかげで、長年私を苦しめていた腰椎( L4とL5の爆弾)の痛みは、すっかり完治していた。
痛みや不安は微塵もなく、むしろ全身の筋肉がかつてないほどパンプアップし、体の内側から底知れぬ力がみなぎっているのを感じる。ドウェイン・ジョンソンを彷彿とさせるこの極太のこの腕、今ならヒグマと素手で取っ組み合えそうだと錯覚するほどだ。
「……ふふっ、絶好調だ」
50代にして手に入れた無敵の肉体を実感しながら、私がママさんダンプを軽やかに押し進めていると、スタッドレスタイヤ特有の柔らかい雪踏み音をさせて、見慣れた軽バンが庭先に入ってきた。
うちの壱拾六軒町内会の10軒目の住人であり、このエリアの飛脚配達員であるハヤテ君だ。
「ちわーっす、アキラさん。雪かきお疲れ様っす!」
「やあ、ハヤテ君。ちょうど良かった。少し上がって、温かいコーヒーでも飲んでいかないかい? 君に折り入って相談があるんだよ」
私は彼を茶の間に招き入れ、熱いドリップコーヒーをマグカップに注いだ。
足元では、特注のアンズ色迷彩ダウンを着込み、第一ゴム製の山吹色の長靴( 金剛砂入りゴールド底・スパイク付き仕様)を履いたビリー君が、出かける気満々で尻尾を揺らしている。
「……というわけでね、ハヤテ君。君も一緒に、天北まで来てくれないかなぁと……」
私が神主さんからの回覧板の件――北の果てにあるという天然の砂金のナゲット探し――を説明してそう切り出すと、ハヤテ君はコーヒーを一口飲み、黒縁眼鏡を中指でクイと押し上げた。
「天北まで砂金掘りに、ですか? ぶっちゃけ、この時期の北見峠や天北の道は、僕らプロのドライバーでも冷や汗ものっすよ。地吹雪でホワイトアウトしたら、文字通り一巻の終わりですからね」
「そこなんだ。実は今、私のPCに入っている見守りAI『AKR-55 Gen2( エーケーアール ゴーゴー ジェンツー)』に、旧天北線沿いのルートをマッピングさせている。プロの君の目で、このルートの安全性を確認してもらえないかと思ってね」
私が愛機であるThinkPadの画面を見せると、ハヤテ君は身を乗り出して複雑な地形データと等高線を見つめた。
「……へえ、このAI、旧道の廃線跡から林道の勾配まで、よく拾ってますね。これなら、今の雪でもなんとか抜けられる道筋が見えますよ。……アキラさん、このAIのナビゲーションと僕のドラテクがあれば、たぶん行けます」
「本当かい! だが、実家のお父さんの手伝いもあるし、配達の仕事は大丈夫なのかい?」
私が心配して尋ねると、ハヤテ君はニヤリと笑って、ポケットからスマホを取り出した。
「実はちょうど昨日、支店長に呼び出されたんすよね。『ハヤテ、お前まだ今年の有給、3日しか消化してないだろ。労働基準法で年5日は絶対休ませなきゃいけないんだ。悪いけど、来週1週間、強制的に休んでくれ』って」
「……労働基準法が味方した!」
「支店長にしてみれば、大雪で配送がパンクする前に休みを取らせて、繁忙期に備えたいんでしょうけど、僕にしてみれば好都合っす。壱拾六軒町内会の仲間が困ってるなら、僕のハンドルさばき、お貸ししますよ」
「最高だ、ハヤテ君! 感謝するよ」
「Vamoose!!( よく言った眼鏡! 飯を食いに行くぞヒャッハー!)」
ビリー君が歓喜の声を上げ、ハヤテ君の膝に重たい顎を乗せた。相変わらず「遠出=美味い肉が食える」という脳内直結の思考回路である。
メンバーが決まれば、次は旅の準備だ。
私は台所に立ち、冷蔵庫から特大のタッパーを取り出した。中には、私が漬け込んだ自家製の「ニシン漬け」がたっぷり入っている。冬の北海道の保存食にして、最高のビタミン源だ。
それから、道中の非常食として鮭トバの束と、大量の塩おにぎり、そして段ボール箱で買ったみかんをクーラーボックス( この時期の北海道では、凍結防止のための『保温ボックス』として機能する)に詰め込んだ。
「あら、随分と遠出のようね。男だけのむさ苦しい道中になるのかしら」
勝手口からふらりと現れたのは、隣人の佐藤さんだった。ミツウマの上質な長靴に、エレガントなカシミヤのコート。雪国のマダムとしての完璧な装いだ。
「佐藤さん。ええ、ちょっと北の果てまで野暮用ができまして」
「ふふ、野暮用ね。神主様の回覧板の件でしょう? 相変わらずあなたたちは、世界の危機だの時空だの、物騒なことばかり引き受けるのね。……はい、これ。道中の足しになさいな」
佐藤さんが差し出したのは、上品な風呂敷に包まれた高級な和牛のジャーキーと、魔法瓶に入った熱々のほうじ茶だった。
「Pikobabool!( 極上の肉だ! さすが僕ちゃんの女だよ、マダム!)」
ビリー君は金色の瞳をキラキラさせ、普段は私にしか見せないような甘え声を出して佐藤さんのコートの裾にすり寄った。
そして、誰にも奪われまいと、神の爪でひったくるようにジャーキーのパッケージを受け取ると、噛み砕くことなくハムスターのように頬袋へパンパンに詰め込んだ。
「あらあら、ビリーちゃんは本当にお利口ね。アキラさんよりよっぽど紳士だわ。……くれぐれも、気をつけて行ってきなさいな。大家さんの暴走には、あなたがちゃんとブレーキをかけるのよ」
すべてを見透かすような眼鏡の奥の瞳でウインクを残し、佐藤さんは優雅に去っていった。最強のバランサーに見送られ、私の胸に少しだけ安堵が広がる。
私たちは荷物を抱え、大家さんのガレージへと向かった。
シャッターを開けた瞬間、ハヤテ君が「マジかよ……」と息を呑んだ。
そこには、大家さんが徹夜でカスタムを施した異形の車両――『雪鯨号・天北エクストリーム』が鎮座していた。
「あ、皆さんお揃いですね。見てください」
作業着姿の大家さんが、顔に機械油をつけながらニコニコと愛車を撫でた。
「今回の遠征のために、足回りを『全地形対応型・耐寒クローラーユニット』に換装してみましたよ。これでどんな雪山も走破できると思います」
もはや軽トラの面影はキャビンにしかない。雪鯨号の下半身は、戦車のような重厚な三角キャタピラに覆われていた。
「それから、フロントには『ハイドロ・スノー・ドーザー』を付けました。ただ雪を跳ね除けるのではなく、瞬間的に熱で溶かしながら突き進むことも可能です。もちろん燃料は、地下のメタンハイドレートを精製した特製エコ燃料です」
「大家さん、これ……公道走れます?」
ハヤテ君が呆れ顔で尋ねる。
「大丈夫ですよ。一応、『特殊農耕作業車』として登録してありますから。……たぶん、お巡りさんも見逃してくれるはずです」
「……『たぶん』なんですね。まぁ、天北の旧道なら警察もいないでしょうけど」
ハヤテ君はプロの目でキャタピラやサスペンションをチェックし、「これならスタック知らずだ」と満足げに頷いた。
荷台には、砂金掘りのための道具( 大家さん特製の磁気式選別機)や1週間分の食料、そしてビリー君のための特等席( 断熱材と小型ヒーター完備の犬小屋風カプセル)が固定されている。
さらに、助手席にはテレビショッピングでお馴染みの「ゲルクッション( 卵の上に座っても割れないやつ)」が完備されていた。腰が完全回復した無敵の私にはもはや不要の長物かもしれないが、大家さんのこういう細やかな気遣いが、涙が出るほどありがたい。
「さて、と。俺たちも定位置につきましょうか」
ハヤテ君が自身のヘルメットを被ると、漆黒のタキシード柄をした1匹の小さなクモが、見えない糸をラペリング降下のように伝ってツツツーと降りてきた。
影の相棒、アダンソン先輩だ。
彼女は、大家さんがハヤテ君のヘルメット上部に後付けした透明なドーム型の『耐寒コクピット』の中に滑り込むと、まるで植民地海兵隊のタフな女兵士がスマートガンを構え、「Let's rock( やってやるぜ)!」とばかりに前脚を掲げた。彼女もまた、義兄弟であるビリー君の帰還を確固たるものにするため、8つの瞳をギラリと光らせて戦う気満々である。
「さあ、出発しましょうか。目標は、日本最北のゴールドラッシュの地・浜頓別ウソタンナイ。壱拾六軒町内会の運命を左右する黄金のナゲット、みんなで掴み取りに行きましょう!」
ハヤテ君がイグニッションキーを回すと、ズドドドドド!! という重厚なエンジン音が、札幌の雪空に響き渡った。
天才発明家の狂気的なメカニズムと、雪道のプロフェッショナルである配達員の神業的ドライビング。
そして、完全復活を遂げたハードボイルドな50代の絵本作家と、未来人から返品された食いしん坊の恐竜。おまけに頭脳派のハエトリグモ。
前代未聞の「砂金求めて三千里」が、今、ここに幕を開けた。
「……あ、そういえばハヤテ君。有給の残り、全部この旅で使い切っちゃって大丈夫なのかい?」
助手席のゲルクッションにドカッと腰を下ろしながら私が聞くと、ハヤテ君はハンドルを握りながらカラッとして笑った。
「いいんすよ。これが終わったら、また馬車馬のように働くだけっすから!」
雪鯨号は、キャタピラで新雪を粉砕しながら、白魔が待ち受ける極寒の北へと向かって力強く走り出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
無事に山悟荘へ帰るその日まで、もう少しだけ北の旅にお付き合いください。
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