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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第5章:壱拾六軒の存在と時間
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第60話「返品理由『凶暴につき』」

ビリー君が夜空の彼方へ連れ去られてから、2日が過ぎた。

札幌の雪はまだ降り止まない。


 家の中は、まるで死んだように静かだった。

 私は完全に仕事に手がつかず、茶の間のソファーで膝を抱えていた。


 視線の先には、ビリー君が不思議そうに眺めるのが好きだった阿寒湖産マリモの水槽と、脱ぎ捨てられたオレンジ色の特注ダウンジャケットがある。主のいない迷彩柄のダウンは、まるで抜け殻のようにぺちゃんこになっていた。


「……広すぎるなぁ、この家」


 独り言が、吸音材のように雪の静寂に吸い込まれる。

 大家さんも、あの一件以来、地下の書斎にこもりきりだ。「ワームホールの座標と、あの宇宙船の航跡を特定するんですよ」と徹夜で躍起になっているが、それが私の気を紛らわせるための、彼なりの優しいパフォーマンスだということは分かっていた。


 ピンポーン。


 玄関のチャイムが鳴った。

 私は重い体を引きずって土間へ向かった。佐藤さんだろうか。慰めとお裾分けを持ってきてくれたのかもしれない。


 だが、重い引き戸を開けると、そこに立っていたのはご近所の神主さんだった。

 この「壱拾六軒町内会じゅうろっけんちょうないかい」の3Dマップの中心にある小さな神社――その宮司さんで、普段はあまり交流のない、厳格そうな白髭の老人だ。


「……ああ、神主さん。雪の中、何かご用でしょうか」


「……アキラさん。お主、大丈夫か?」


 神主さんは、酷く沈痛な面持ちで私を見た。そして、驚くべきことを口にした。


「あの夜……わしも見たんじゃよ。空飛ぶ巨大な影と、青白い光の柱を」


「えっ」


「そして、その光の中を、『龍神様』がクルクルと見事な水平回転をしながら、ゆっくりと昇天されるお姿をな……」


「……り、龍神様?」


 神主さんは目頭を熱くして押さえた。


「あの、美しいアンズ色の御使い(みつかい)じゃよ。実はな、あのお方は最近、よく境内に遊びに来ておられたんじゃ。賽銭箱の上で気持ちよさそうに日向ぼっこをしたり、わしが正月に供えた鏡餅を食……いや、美味しそうに召し上がったりしておられた」


「……あいつ、そんなところまで出歩いていたんですか」


 私は脱力した。

 どうやらビリー君は、私の目を完全に盗んで近所の神社に入り浸り、神主さんに「小さな龍神様」として崇められていたらしい。しかもカチカチの鏡餅を盗み食いしていたのか。恐るべき顎の力と図太さだ。


「あのような神々しいお姿で天へ帰られるとは……。この町内会は、尊い守り神を失ってしまった」


「……そうですね。私も、大切な家族を失いました」


 神主さんと私は、玄関先で降りしきる雪を見ながら、共に深いため息をついた。


 隣の奥様 (佐藤さん)には可愛いペットとして愛され、神主さんには龍神として崇められ、大家さんには最高の研究対象として可愛がられる。

 あいつは本当に、愛すべき、とんでもない恐竜だった。


   ◇


 その日の夕方。

 喪失感がピークに達していた頃だった。


 私は無心で庭の雪かきをしていた。ただひたすらにプラスチックのスコップを動かしていないと、頭がおかしくなりそうだったからだ。


 ふと、視界の隅で光が走った。

 庭の隅にある、雪に埋もれた石灯籠 (トロゲートの出口)だ。


「……え?」


 カァァァン……。


 あの真鍮の鍵の、高く澄んだ共鳴音が、微かに雪の底から聞こえた気がした。

 まさか。私はスコップを放り出して駆け寄った。


 灯籠の火袋(ひぶくろ)の部分が、青白く発光する。そして。


 ポンッ!


 気の抜けた、トースターから焼き上がったパンが飛び出すような音と共に、雪山の中に「オレンジ色の塊」が弾き出された。


Gyau(ギャウ)ッ!? (冷たッ! 僕ちゃんのお尻が凍るぜ!)」


 聞き覚えのある、憎らしいほど元気な声。

 雪の中からひょっこりと顔を出したのは、首にアクションカメラとクロムハーツの鎖をぶら下げた、ヴェロキラプトルだった。


「……ビ、ビリー、君?」


Vamooooose(ヴァムォォォォス)!! (よぉATM (パパ)! 飯だ! 僕ちゃん腹が減って死にそうだぜ!)」


 彼は私の顔を見るなり、感動の再会もへったくれもなく、強烈な餌の要求と共に私の胸に飛びついてきた。

 私は50代の反射神経でなんとか彼を受け止め、その温もりに涙する……暇もなかった。


「おい、なんだそれは」


 彼の首元に、見慣れない「銀色のタグ」が付いていたのだ。

 未来的なホログラムペーパーのような質感。そこには、私にも読める記号と、見事な日本語に翻訳された文章が明滅していた。


 【 返品通告書 】


 私は震える極太の指でそれを読み上げた。


対象: 生体サンプル B-1107

理由:

・船内での極めて凶暴な破壊活動 (クルー3名が重軽傷)。

・備蓄食料 (特に希少糖分・スイーツ類)の壊滅的な消費。

・性格上の完全な制御不能。

判定:

管理コスト過多により、当サンプルへの学術的興味および回収を永久に断念します。

現地 (過去)の管理者にて、責任を持って飼育してください。

追記:二度と回収には行きません。

時空生体管理局


「…………」


 私はホログラムのタグを見つめ、それから極太の腕の中のビリー君を見た。


 彼は「Kururu(クルル) (あそこの飯は最悪だったぜ。お詫びにセコマのプリンを出せよ)」とでも言いたげに、不満そうに鼻を鳴らしている。


 どうやら彼は、未来の超科学を持った宇宙船の中で大暴れし、乗組員を物理的にぶっ飛ばし、食料を食い尽くし、高度な文明を持つ未来人を心底うんざりさせて、「完全なる厄介払い」として文字通り放り出されたらしい。


「……はは、はははは!」


 笑いがこみ上げてきた。涙など完全に引っ込んだ。

 未来のUFOすらもサジを投げて手放すほどの暴君。それが私の相棒だ。


「お前ってやつは……ついに未来の宇宙船からも『出禁』を食らったのか」


Vamoose(ヴァムース)? (何のことだ? 細けぇこたぁいいから、早く肉を焼けってば)」


 私は雪まみれのビリー君を抱き上げ、強く、強く抱きしめた。

 今度は、もう絶対に手を離したりはしない。


 というか、向こうの未来人が「頼むから引き取ってくれ、二度と行かないから」と泣きを入れているのだ。これほど安心なことはない。宇宙人による誘拐の心配は、永遠になくなったのだから。


「帰ろう、ビリー君。今日は極上のニジマスの刺身だ」


Vamoooose(ヴァムォォォォス)!! (マジで~!!)」


 こうして、数日間にわたる「ビリー君消失事件」は、まさかの「時空レベルの公式返品 (クーリングオフ)」という形で幕を閉じた。


 これでもう、夜空を見上げて怯える必要はない。

 彼は、正真正銘、この時代の、私のかけがえのない家族になったのだから。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


これにて、第5章「壱拾六軒の存在と時間」は完結となります。

次回、第6章「恐竜的、あまりに人間的」でまた皆様とお会いできるのを楽しみにしております。

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