第60話「返品理由『凶暴につき』」
ビリー君が夜空の彼方へ連れ去られてから、2日が過ぎた。
札幌の雪はまだ降り止まない。
家の中は、まるで死んだように静かだった。
私は完全に仕事に手がつかず、茶の間のソファーで膝を抱えていた。
視線の先には、ビリー君が不思議そうに眺めるのが好きだった阿寒湖産マリモの水槽と、脱ぎ捨てられたオレンジ色の特注ダウンジャケットがある。主のいない迷彩柄のダウンは、まるで抜け殻のようにぺちゃんこになっていた。
「……広すぎるなぁ、この家」
独り言が、吸音材のように雪の静寂に吸い込まれる。
大家さんも、あの一件以来、地下の書斎にこもりきりだ。「ワームホールの座標と、あの宇宙船の航跡を特定するんですよ」と徹夜で躍起になっているが、それが私の気を紛らわせるための、彼なりの優しいパフォーマンスだということは分かっていた。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
私は重い体を引きずって土間へ向かった。佐藤さんだろうか。慰めとお裾分けを持ってきてくれたのかもしれない。
だが、重い引き戸を開けると、そこに立っていたのはご近所の神主さんだった。
この「壱拾六軒町内会」の3Dマップの中心にある小さな神社――その宮司さんで、普段はあまり交流のない、厳格そうな白髭の老人だ。
「……ああ、神主さん。雪の中、何かご用でしょうか」
「……アキラさん。お主、大丈夫か?」
神主さんは、酷く沈痛な面持ちで私を見た。そして、驚くべきことを口にした。
「あの夜……わしも見たんじゃよ。空飛ぶ巨大な影と、青白い光の柱を」
「えっ」
「そして、その光の中を、『龍神様』がクルクルと見事な水平回転をしながら、ゆっくりと昇天されるお姿をな……」
「……り、龍神様?」
神主さんは目頭を熱くして押さえた。
「あの、美しいアンズ色の御使いじゃよ。実はな、あのお方は最近、よく境内に遊びに来ておられたんじゃ。賽銭箱の上で気持ちよさそうに日向ぼっこをしたり、わしが正月に供えた鏡餅を食……いや、美味しそうに召し上がったりしておられた」
「……あいつ、そんなところまで出歩いていたんですか」
私は脱力した。
どうやらビリー君は、私の目を完全に盗んで近所の神社に入り浸り、神主さんに「小さな龍神様」として崇められていたらしい。しかもカチカチの鏡餅を盗み食いしていたのか。恐るべき顎の力と図太さだ。
「あのような神々しいお姿で天へ帰られるとは……。この町内会は、尊い守り神を失ってしまった」
「……そうですね。私も、大切な家族を失いました」
神主さんと私は、玄関先で降りしきる雪を見ながら、共に深いため息をついた。
隣の奥様 (佐藤さん)には可愛いペットとして愛され、神主さんには龍神として崇められ、大家さんには最高の研究対象として可愛がられる。
あいつは本当に、愛すべき、とんでもない恐竜だった。
◇
その日の夕方。
喪失感がピークに達していた頃だった。
私は無心で庭の雪かきをしていた。ただひたすらにプラスチックのスコップを動かしていないと、頭がおかしくなりそうだったからだ。
ふと、視界の隅で光が走った。
庭の隅にある、雪に埋もれた石灯籠 (トロゲートの出口)だ。
「……え?」
カァァァン……。
あの真鍮の鍵の、高く澄んだ共鳴音が、微かに雪の底から聞こえた気がした。
まさか。私はスコップを放り出して駆け寄った。
灯籠の火袋の部分が、青白く発光する。そして。
ポンッ!
気の抜けた、トースターから焼き上がったパンが飛び出すような音と共に、雪山の中に「オレンジ色の塊」が弾き出された。
「Gyauッ!? (冷たッ! 僕ちゃんのお尻が凍るぜ!)」
聞き覚えのある、憎らしいほど元気な声。
雪の中からひょっこりと顔を出したのは、首にアクションカメラとクロムハーツの鎖をぶら下げた、ヴェロキラプトルだった。
「……ビ、ビリー、君?」
「Vamooooose!! (よぉATM (パパ)! 飯だ! 僕ちゃん腹が減って死にそうだぜ!)」
彼は私の顔を見るなり、感動の再会もへったくれもなく、強烈な餌の要求と共に私の胸に飛びついてきた。
私は50代の反射神経でなんとか彼を受け止め、その温もりに涙する……暇もなかった。
「おい、なんだそれは」
彼の首元に、見慣れない「銀色のタグ」が付いていたのだ。
未来的なホログラムペーパーのような質感。そこには、私にも読める記号と、見事な日本語に翻訳された文章が明滅していた。
【 返品通告書 】
私は震える極太の指でそれを読み上げた。
対象: 生体サンプル B-1107
理由:
・船内での極めて凶暴な破壊活動 (クルー3名が重軽傷)。
・備蓄食料 (特に希少糖分・スイーツ類)の壊滅的な消費。
・性格上の完全な制御不能。
判定:
管理コスト過多により、当サンプルへの学術的興味および回収を永久に断念します。
現地 (過去)の管理者にて、責任を持って飼育してください。
追記:二度と回収には行きません。
時空生体管理局
「…………」
私はホログラムのタグを見つめ、それから極太の腕の中のビリー君を見た。
彼は「Kururu (あそこの飯は最悪だったぜ。お詫びにセコマのプリンを出せよ)」とでも言いたげに、不満そうに鼻を鳴らしている。
どうやら彼は、未来の超科学を持った宇宙船の中で大暴れし、乗組員を物理的にぶっ飛ばし、食料を食い尽くし、高度な文明を持つ未来人を心底うんざりさせて、「完全なる厄介払い」として文字通り放り出されたらしい。
「……はは、はははは!」
笑いがこみ上げてきた。涙など完全に引っ込んだ。
未来のUFOすらもサジを投げて手放すほどの暴君。それが私の相棒だ。
「お前ってやつは……ついに未来の宇宙船からも『出禁』を食らったのか」
「Vamoose? (何のことだ? 細けぇこたぁいいから、早く肉を焼けってば)」
私は雪まみれのビリー君を抱き上げ、強く、強く抱きしめた。
今度は、もう絶対に手を離したりはしない。
というか、向こうの未来人が「頼むから引き取ってくれ、二度と行かないから」と泣きを入れているのだ。これほど安心なことはない。宇宙人による誘拐の心配は、永遠になくなったのだから。
「帰ろう、ビリー君。今日は極上のニジマスの刺身だ」
「Vamoooose!! (マジで~!!)」
こうして、数日間にわたる「ビリー君消失事件」は、まさかの「時空レベルの公式返品 (クーリングオフ)」という形で幕を閉じた。
これでもう、夜空を見上げて怯える必要はない。
彼は、正真正銘、この時代の、私のかけがえのない家族になったのだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これにて、第5章「壱拾六軒の存在と時間」は完結となります。
次回、第6章「恐竜的、あまりに人間的」でまた皆様とお会いできるのを楽しみにしております。




