第59話「無慈悲なトラクタービーム」
グォォォン……。
深夜の茶の間を真昼のように照らす青白い光の柱の中で、完全に重力が狂い始めていた。
しまむらのクッションも、ちゃぶ台もフワリと浮き上がり、飲みかけのコーヒーが無重力空間の水滴のように、茶色い玉となって空中に漂っている。
まさか、これはトラクタービーム!? あの『スタートレック』ばりの展開ではないか!
だが待て、カーク船長やピカード艦長なら、生命体の回収にはスマートな『転送装置( トランスポーター)』を使うはずだ。人間( と恐竜)をUFOクレーンゲームのようにつり上げるなんて、連邦艦隊のレギュレーション違反じゃないのか!?
そんな私の魂のツッコミをよそに、私の足元にいたビリー君が、見えない巨大な手に引かれるように、ゆっくりと、だが逆らえない力で宙へ浮き上がった。
「Vamooseーー!!( 離すなよ、世話焼きなATM( パパ)ーー!!)」
「ビリー君!!」
私は毎日の雪かきで鍛え抜いた極太の右腕で、彼のか細い足首をがっしりと掴んだ。そして左腕は、山悟荘の太い大黒柱にガッチリと回してしがみつく。
昨日の地下岩盤浴のおかげで、今日の私の腰椎( L4・L5)はすこぶる調子が良く、全身の筋肉がかつてないほどパンプアップしていた。
アダンソン先輩も私の肩から飛び立ち、「Let's rock!( やってやるぜ!)」とばかりに八つの瞳を光らせて強靭な糸を吐き出した。
その白く太い糸は、まるでトビー・マグワイア版の『スパイダーマン』が暴走列車を食い止めた時のように、ビリー君と柱を強固に結びつけていく。
大家さんも宙に浮きながら、追加のアンカーとなるべく私の腰ベルトに両手で必死にしがみついた。
ドウェイン・ジョンソン並みの私の腕力と大黒柱、大家さんの体重、そして歴戦の海兵隊員のスパイダーウェブ。
だが、未知の引力光線( スタートレック風に言えばトラクタービーム)にとって、我々の昭和のど根性など、マキタの掃除機に吸い込まれるホコリのようなものだった。
ミシミシミシッ……!
家の古い木材が軋む音と共に、絶好調だったはずの55歳の私の肩関節が限界を超えてメキメキと悲鳴を上げる。
「くっ、ダメだアキラさん……! このままだと、大黒柱ごと家が引っこ抜かれますよ!」
私のベルトにぶら下がる大家さんが苦悶の表情で叫ぶ。
「嫌だ! 絶対に渡さない!」
「……Akira……」
その時、ビリー君が私を見た。
恐怖に震える、金色の縦長の瞳。だが、彼はふと、私の腕の筋肉が限界を迎え、肩の関節が外れかかっていることに気づいたようだった。
彼は小さく「Kururu……( 僕ちゃんはもういい、無理するなよATM……)」と喉の奥で呟くと、私の親指をザラリとした舌で優しくペロリと舐めた。
「え?」
私の力が抜けたその一瞬、ビリー君は自ら脚を鋭く捻り、私の右手を振り解いたのだ。
「ビリー君!!」
私の手が空を切る。アダンソン先輩の強靭な糸も無情に引きちぎられた。
ストッパーを失ったビリー君は、ふわりと天井の方へ――いや、物理法則を完全に無視して屋根を通り抜け、夜空へと一気に吸い上げられていった。
なぜだ! なぜトラクタービームなんだ!
山悟荘の屋根という『物質』を透過させるほどの高度な位相変換技術を持ち合わせているくせに、なぜわざわざ重力を操作して、あんなアナログかつ悠長に引き上げる!? 「転送( ビーム・アップ)完了しました」の一瞬で済ませないのはなぜなんだ。
私たちはトラクタービームから解放されて茶の間の床に落下し、すぐさま庭へと飛び出した。
マイナス15度の冷気が頬を刺す中、上空を見上げると、そこにはあまりにもシュールかつ、絶望的な光景があった。
青白い光の円筒の中を、|アンズ色の美しい羽毛を持つ小さな恐竜が、ゆっくりと空へ向かって上昇していく。
そして――回っていた。
クル〜ン……クル〜ン……。
まるで回転寿司のレーンに乗っているかのように。あるいは、コンビニのホットスナックケースの中で保温されているフランクフルトのように。
ビリー君は直立不動の姿勢のまま、ゆっくりと、厳格な一定の速度で水平回転しながら、空へと登っていくのだ。
「ま、回ってる……」
呆然とする私の横で、呑気な声がした。
「あらあら、ビリーちゃん、夜中の宇宙旅行かしら? ……でもあのあの回り方、なんだかお店のショーケースの商品みたいねぇ」
いつの間にか庭に出てきていた、隣の佐藤さんだ。
上質な防寒ちゃんちゃんこを羽織り、足元は愛用の『ミツウマ』の防寒長靴という、北海道の冬の夜の完全防備スタイルである。すべてを見透かすような眼鏡の奥の瞳は、空飛ぶ恐竜を見ても微塵も動じていない。
佐藤さんの言葉通り、あれは「誘拐」ではない。完全に「検品」だ。
空中で回転するビリー君の周囲には、無数の幾何学模様の光のリングが展開し、彼の体格、羽毛のツヤ、骨格の密度、そして健康状態を、隅から隅まで事務的にスキャンしているようだった。
「Vamoose……( 目が回る……僕ちゃん、吐きそうだぜ……足首イタイし)」
回転しながら遠ざかるビリー君の情けない声が、微かに夜空から降ってきた。
彼の首元では、クロムハーツの鎖に繋がれた『真鍮の鍵』が激しく明滅し、その横にあるGoProもどきのアクションカメラの赤い録画ランプが、虚しく、しかし確かに点滅を続けている。
ヒュンッ。
ビリー君の体が、上空の巨大な「影」の無機質なハッチへと吸い込まれた。
直後、ハッチがピタリと閉じ、庭を照らしていた青い光がフッと消えた。
【 回収完了。コレヨリ帰還軌道ヘ移行シマス 】
再び脳内に直接響く事務的なアナウンスと共に、巨大な影は音もなくさらに上空へ上昇し――。
一瞬で、星空の彼方へと消滅したのだった。
シーン……。
後に残されたのは、凍てつくように静まり返った雪の庭と、呆然と空を見上げる私たちだけ。
あまりの静寂に、私の耳の奥でキーンという耳鳴りが鳴っている。
「……行ってしまった」
私は膝の力が抜け、雪の上にガクリと膝をついた。冷たさがスウェットの生地を通して膝頭に染みてくる。
昨日の夜は一緒に鍋をつつき、地下で岩盤浴をして、アイスを食べたのに。
もう彼は、何万光年、あるいは何千万年先の未来の世界へ行ってしまったのかもしれない。私には到底手の届かない場所へ。
「ビリー君……」
私の頬を、冷たい涙が伝い、すぐに冷気で凍りついた。
これが、永遠の別れなのか。私がどんなに地下を掘り進めても、もう二度と会えないのか。
その時。
真っ暗な冬の空から、ひらひらと、1枚の紙切れが私の目の前の雪の上に落ちてきた。
私は震える極太の指でそれを拾い上げる。
それは、どこにでも売っているような感熱紙のレシートだった。そこには、信じられないほど見慣れた日本語の明朝体で、こう印字されていた。
『遺失物回収完了。ご協力感謝いたします。』
まるで、レンタカーの返却手続きか、役所の事務手続きのような、あまりにも血の通っていない文面。
いや、レンタカーの返却手続きだって、役所の事務手続きだって、もっと人情深いだろう。コインパーキングの精算機でさえ「お気をつけてお帰りください」と優しく語りかけてくれる。
その紙切れを握りしめ、私は怒りとも悲しみともつかない感情で、再び空を見上げた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回も、山悟荘でお待ちしています。




