第54話「猛吹雪と地下の奇跡」
今日の札幌は、朝からとんでもないことになっていた。
茶の間の窓の外は真っ白な闇。いわゆるホワイトアウトというやつだ。テレビのニュース速報が、けたたましいアラーム音と共に石狩地方へ「暴風雪警報」が出たことを告げている。JRは全線運休、高速道路も通行止め。一歩外に出れば数分で方向感覚を失い、遭難するレベルの、数年に一度の大荒れ天気だ。
「……よかった。この前の夜、ビリー君が無事に帰ってきていて」
私は窓ガラスに叩きつけられる雪を見ながら、心底安堵した。もしあのトロゲートからの帰還が数日違っていたら、彼は間違いなく、この白い地獄の中で文字通りカチコチに凍りついていただろう。
「うむ。今日の地上はまさに地獄ですが、我々には安全で快適な楽園がありますよ。さあ、行きましょうか」
大家さんは外の嵐などどこ吹く風で、地下へ続く縦坑のエレベーターのドアを開けた。鉄格子と蛇腹の扉がついた、どこかレトロで味わい深い手動式エレベーターである。
このエレベーターは、大家さんの手によっていつの間にか改修されており、地下10メートルの第1基地を抜け、一気に目標深度である地下40メートル地点へと我々を運んでくれる (もちろん手動で)。
ガチャン、と重い金属音と共にエレベーターの扉が開くと、そこは星のように瞬く黄鉄鉱 (パイライト)と巨大な白い肋骨がアーチ状に連なるクジラの回廊 (ホエール・コリドー)だ。
我々はこの幻想的な太古のエントランスを抜け、最終目的地へと足を踏み入れた。
地下40メートルの巨大ドーム、サッポロカイギュウ広場。
地上のような鼓膜を破る暴風音は一切聞こえない。あるのは太古から続く圧倒的な静寂と、地熱システムによる安定した温かさだけだ。
今日は、この最強の引きこもり要塞 (男のサンクチュアリ)の居住性を完成させる日だ。
「まずは床の仕上げですね。アキラさん、頼みますよ」
「ええ、任せてください」
私たちが用意したのは、上ノ国町産の「ブラックシリカ (黒鉛珪石)」、馴染みの建材店で大量に買い付けた「オリビンサンド (様似産かんらん岩の砂)」、そして調湿効果に優れた「ゼオライト」。基本の消石灰とにがり、そしてベントナイト (粉末の粘土)。これらを絶妙な配合で混ぜ合わせた白亜紀ブレンドを、広場の床に敷き詰めていく。
と、言いたいところだったが、希少なブラックシリカを大量に用意する事は難しかったため、混合材を均した後に、表面に散布することにした。そしてその工法がよりブラックシリカの効果を発揮できるのではないかという結論に行き着いた。混合素材も第1基地とは少々変更を加えた。名付けて「白亜紀三和土ブラックシリカ散布工法ライト仕上げ」だ。ライト仕上げとしたのは、ブラックシリカを極限まで節約するためである。
ネタを敷き込み一時叩きした後、ブラックシリカをサラ〜っと散布し、ブラックシリカがベース層に沈み込むまで全力で叩き込む。ここで活躍したのが、排気ガスと爆音を撒き散らすエンジン式ではなく、改良版の『充電式タコス・タンパー』だ。大家さんが地下深くまで張り巡らせた送電網のおかげで、充電スポットも完璧に用意されている。
大量の木槌が乱れ打つ狂気のヴィジュアルはそのままに、静音かつパワフルな振動で、特殊な砂がガッチリと押し固められていく。ブラックシリカもきっちりと表面に収まっていく。
完成した「白亜紀三和土ブラックシリカ散布工法ライト仕上げ」は、岩盤浴のように遠赤外線を放射し、地下特有の陰鬱な湿気を完全にシャットアウトしてくれることだろう。
「Vamoose…… (極楽だぜ……僕ちゃん、完全に溶けちまうよ〜)」
ビリー君が完成したばかりの床に腹ばいになり、手足をだらしなく投げ出して完全に液体と化している。現場監督のアダンソン先輩も、温かい床の上で「最高のキャンプだ」とばかりに八つの瞳を細めていた。
私も試しに、ビリー君の隣にゴロンと仰向けに寝転んでみた。
「……おお、これは」
思わず、おっさんのような声が漏れた。
今朝の緊急雪かきで悲鳴を上げていた私の腰――特に腰椎のL4・L5あたりに、岩盤浴のような熱がじんわりと深く浸透してくるのだ。使い捨てカイロなど比ではない、芯から筋肉の強張りがほぐされる感覚。
「大家さん、これ、野菜を育てるより先に、私の腰が完全に生き返りますよ。これぞ究極の福利厚生だ」
私は寝そべりながら大家さんに言った。
「今回はブラックシリカを節約しましたけど、あっちのほうは散布量を多めにしてありますからね。75歳の身体には、地熱の優しさが一番の特効薬ですしねぇ。楽しみですよ」
「それは楽しみですね」と大家さんがニコニコしながら広場の脇にある工事中のトンネルをのぞき込んだ。
「さて、広場の環境は整いました。いよいよメインイベントですよ」
大家さんが持ち出したのは、循環型農業システム『アクアポニックス』の巨大なセットだ。
水槽の中で魚を飼い、その排泄物を微生物が分解して植物の栄養にし、植物が浄化した水を再び水槽に戻すという、究極のエコシステムである。広場の一角に設置された巨大水槽に放たれたのは、北海道の清流の象徴、銀色に輝くニジマスたちだった。
広場の壁に沿って水槽が繋がっており、ニジマスの泳ぐ姿を覗くことができる。まるで水族館にいるような気分である。
大家さんに「こちらへどうぞ」と案内されて入ったのは、水槽の向こう側の部屋。出入口には滅菌スペースがあり、かなり物々しい。空調もサッポロカイギュウ広場より一段と低く設定された、涼しげなクリーンルームだった。
「そして、この水で育てる作物は……これです!」
大家さんが指さしたプランターに植え付けられていた苗を見て、私は目を疑った。
ハート型の、青々とした美しい葉。
「……大家さん、これ、まさか『本わさび』の苗ですか? それも最高級の真妻じゃないですか」
「その通りですよ。よく分かりましたね」
「無理じゃありませんか? ここは北海道ですよ!?」
私は思わず声を荒らげた。
「北海道で『わさび』と言えば、あの白くて辛い『山わさび (ホースラディッシュ)』のことでしょう。それに、本わさびを育てるには清澄な湧き水と徹底した温度管理が必要な繊細な作業だときいていますよ」
道民としての「わさび観」を語り苦笑する私に、大家さんはニヤリと笑い、循環ポンプのスイッチを入れた。
チョロチョロと涼しげな水が流れ出し、ハイドロボールを敷き詰めたプランターを優しく濡らしていく。
「ふふふ、地上の常識に囚われていますね、アキラさん。ここは地下40メートル。気温も水温も、1年を通して常に13度前後で安定しているんですよ。そしてこのシステムが、絶えず水を浄化し、豊富な酸素を供給する」
(あー、それで温々したサッポロカイギュウ広場から隔離したわけか)
「……なるほど。それにしても、滅菌スペースまで設けるなんて……さすがに厳重すぎませんか?」
私が尋ねると、大家さんは植えたばかりのワサビの苗を、まるで孫でも見るように愛おしそうに撫でた。そして、突然目を見開いて熱弁を振るい始めた。
「いいですかアキラさん。私はどうしても……どうしても! この真冬の北海道で、チューブじゃない、山わさびでもない、あの『真妻』の突き抜けるような上品な辛味と甘みを味わいたかったんです! この札幌の地下深くに『伊豆の清らかな湧水地』を再現し、同時に、憎きアブラムシという害虫からこの真妻を完璧に守り抜く……! そのためだけに、このクリーンルームを作ったと言っても過言ではありません!」
(えぇぇ! この滅菌エリア、まさかのアブラムシ対策だったのか!? どんだけ食い意地張ってんだ、このジジイ!)
私は大家さんの、食に対する常軌を逸した執念に戦慄した。
だが同時に、容易に想像できてしまった。
外は警報級の大吹雪の北海道。その地下で、炊きたての土鍋ご飯に、おろしたての香り高い「本わさび」をたっぷり乗せて食べる大家さんの顔を。ツーンと鼻を抜ける、山わさびとは違う、あの突き抜けるような上品な辛味に酔いしれるおじいちゃんの姿を。
(……まあ、そこまでして食べたいなら、仕方ないか)
私は彼の狂気じみた情熱に半ば呆れつつも、大人の配慮として静かに同調してあげることにした。
「まあ……北海道の真冬に、採れたての本わさびが食べられるなんて、ちょっとした感動ですねぇ……」
私が適度に気を遣ってそう相槌を打つと、大家さんは我が意を得たりと深く頷いた。
「でしょう? ニジマスが育てたワサビで、そのニジマスの刺身をいただく。あるいはジンギスカンに乗せてもいい。これぞ大人の、究極の贅沢ですよ」
水槽の中では、ニジマスたちが悠々と泳いでいる。
その上の棚では、ワサビの苗が高密度光ファイバー採光システム (本物の太陽光を地下空間に届けられる画期的システム)の光を浴びて命の輝きを放っている。
広場の隅には、飴色に輝くサッポロカイギュウの化石と、静かに佇む非常口 (トロゲート)。
ひんやりとした大家さんの真妻ルームから、温かい広場に戻ってくると「Gyau? (おいATM (パパ)、あの草、うまいんか?)」とビリー君が床で寝そべったまま、首だけ持ち上げて聞いてきた。
「ああ、うまいぞビリー君。肉の脂をサッパリさせてくれる、極上の大人の味だ」
地上では、すべてを凍らせる猛吹雪が吹き荒れている。
だが、私たちの地下帝国には、清らかな水音が響き、緑が芽吹き始めていた。
ここはもう、ただの避難場所や化石の保管庫ではない。
命を育み、生活を豊かにし、中年の腰痛すら極上に癒やす、真の「聖域 (サンクチュアリ)」になったのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回も、山悟荘でお待ちしています。




