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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第5章:壱拾六軒の存在と時間
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第53話「鍋とインフラと非常口」

北海道の冬は、物理的な距離ではなく「雪の壁」が外界との境界線になる。


 外は視界数メートルの猛吹雪だ。地吹雪が容赦なく窓ガラスを叩く音を聞きながら、断熱改修を完璧に施した山悟荘(さんごそう)の茶の間で過ごす時間は、道民にとって何物にも代えがたい最高の贅沢である。


 私は一旦ホットカーペットから立ち上がり、庭の雪に埋めてあるポリ樽へと向かった。

 表面の氷を割り、お玉を差し込んで、シャリシャリ氷がトッピングされた自家製の「ニシン漬け」をボウルにすくい取る。身を切るような寒さで極太の指先が痛いほど冷えるが、冬の北海道ではこれが一番の御馳走と言っても良いだろう。


 親から子へと受け継がれていくこのニシン漬けは、その家ごとにレシピの違いがあったりして、家庭の味、お袋の味、と言っても過言ではない。


 茶の間に戻ると、卓上コンロの上では土鍋がグツグツと心地よい音を立て、味噌と魚介出汁の香ばしい匂いが部屋中に充満していた。


「お待たせしました。少し凍っていますが、これが旨いんですよね」


「おやおや、わざわざありがとうございます。ニシン漬けは、氷のシャリシャリ感が良いんですよ!」


 向かいに座る大家さんが、ワンカップの日本酒を片手に目尻を下げて微笑む。

 私の横では、湯気越しに目を輝かせるアンズ色の羽毛の恐竜が、今か今かと大きな口を開けて待機していた。


Vamoose(ヴァムース)! (肉を! 早く僕ちゃんに肉くれ!)」


「はいはい、ビリー君。まずはこれでも食べて落ち着きなさい。火傷するぞ」


 私はふーふーと息を吹きかけて少し冷ました豚肉を放り込んでやった。ビリー君は「ハフハフ」と幸せそうに咀嚼し、そのままこたつの奥へと潜り込んでいった。

 つい数時間前、地下40メートルのワープゲートから転送され、極寒の雪の中に全裸 (羽毛のみ)で放り出されて凍死しかけていたとは思えない、見事な切り替えの早さだ。


「さて、大家さん。例のゲートの件ですが……」


 私は箸で熱々の白菜をつつきながら、本題を切り出した。

 地下で見つけた、あの巨大なクジラの化石が眠る回廊の先にある石の輪。精密画家としての性分か、あの幾何学的な美しさが脳裏から離れない。


「うむ。私の見立てでは、あのゲートは一方通行ですね」


 大家さんは豆腐を小皿に取りながら、教え子に語りかけるような優しい口調で解説を始めた。


「地下から飛び込めば地上の灯籠(とうろう)に出ますが、逆に灯籠から地下へ入ることはできないようです。言わば、地下の圧力を逃がすための排出弁のようなものですよ」


「つまり、行ったら帰ってこられないと?」


「ええ。ですが、使い道は大いにあります。地下で火災や落盤などの緊急事態が起きた時の『非常用脱出路』として機能します。地下40メートルから一瞬で自宅の庭に避難できるなんて、ちょっとした安心材料だと思いますよ」


「なるほど……。じゃあ、封鎖せずに『非常口』として残しておきましょうか」


 問題はその名前だ。私は少し考え、ニシン漬けを一切れシャリッと噛みしめてから口を開いた。


「庭の灯籠に出るゲートだから……単純に『トロゲート』でどうでしょう?」


「おっと……ふふ、それはいいですね。実に親しみやすい。採用ですよ」


 こうして、800万年前の地層に埋まっていた神秘のオーパーツは、町内会の備品のような脱力感あふれる名前で呼ばれることになった。


 鍋の具材が締めのうどんに突入したところで、話題は現実的な「地下ライフライン」へと移った。


 55歳にもなれば、SF的なロマンよりも先に、トイレや水回りといったインフラのメンテナンス性に気づくべきだったのに。

(……しまった。掘り進めることばかり考えて、生活インフラの設計をすっかり忘れていたぞ)


 私は内心焦りつつも、顔には出さず、とっさに口から出任せを吐き出した。


「安心してください! そのあたりは、私なりに完璧な工夫を考えてみましたよ! ……バイオトイレです!!」


 すると、大家さんは少年のように瞳を輝かせ、作業着のポケットからタブレットを取り出した。


「さすがアキラさん! 目の付け所がいい。私も一応考えて、すでに発注しておいたんですよ、バイオトイレ」


 さすが大家さん。私のハッタリを優しくカバーしつつ、完璧な計画を立てていた。


「これは一切水を使わない最新式のバイオトイレです。おがくずと特殊なバクテリアの力で、排泄物を水と二酸化炭素に分解し、最終的には良質な堆肥に変えてくれるんです。匂いもしませんし、冬場の配管凍結の心配もありませんよ。ちょっと便利だと思いませんか」


「なるほど、山小屋や環境配慮型のシステムと同じですね。それなら地下でも安心だ」


 私はお隣の佐藤さんからもらったミカンの皮をむいて、半分をビリー君の口に放り込んでやった。おや、ビリー君がとろけるような顔をしている。


「ネット環境も抜かりありませんよ。ジェル・コクーンの壁の中に光ファイバーを通し、各階層に『メッシュWi-Fi』を設置しました。これで地下40メートルでもアキラさんのPC作業が進みますし、ビリー君もタブレットで動画が見放題ですよ」

 

 地熱システムにバイオトイレ、そしてメッシュWi-Fi。大家さんの発明とインフラ設計は、常に最先端でありながら、どこか「北海道の過酷な冬の暮らし」への優しさと実用性に満ちている。


「完璧じゃないですか……」


 私はミカンの残りを自分の口にも放り込んだ。今まで味わった事のない美味さだ。糖度16度はあるだろう。程よい酸味と相まって甘いながらも後味はスッキリとしている。


 ふと見ると、部屋の隅のモンステラの葉の上で、アダンソン先輩が八つの目のうちいくつかを閉じて休んでいた。地下工事の総監督、女軍曹として指揮を執り続けてくれた彼女も、さすがに限界だったのだろう。


「ところで、アキラさん」


 大家さんが、うどんをすすり終えて真剣な表情になった。


「我々がこうして鍋を囲んで休んでいる間、地下の作業は完全にストップしてしまいますね。工期は大丈夫なんですか? 春が来て雪が溶ければ、また忙しくなりますよ」


 大家さんのもっともな疑問に、私は傍らに置いてあった自分のタブレット端末を起動した。


「ふふ、ご心配なく大家さん。今は頼もしい夜勤部隊が動いていますから」


 私が画面を大家さんに向ける。

 そこには、地下40メートルに設置した監視カメラの赤外線映像が映し出されていた。巨大な頭を持つクロオオアリの『兵隊アリ』たちに率いられた働きアリたちと、ずんぐりとした『エゾモグラ』たちが、入り乱れながらも滑らかな動きで、クジラの回廊の奥の通路を拡張している。


「クロオオアリたちは交替制で24時間稼働しています。エゾモグラ君たちと協力して、朝までには通路が数十センチは伸びているはずですよ。アリの世界も、なかなかの組織力でしょう?」


「おお……! 素晴らしい働きぶりですね。ん? でもアキラさん、あそこの隅っこにいる連中、すっかりサボって寝ていませんか?」


 大家さんが画面の端を指差した。確かに、全体の2割ほどのアリたちが、作業の輪から外れてゴロゴロと休んでいる。


「ああ、あれはサボっているわけじゃありません。いわゆる『20%の法則』らしいですよ」


「20%の法則?」


「ええ。働きアリの集団は、常に全体の2割をあえて休ませて『予備兵力』にしているって話です。全員が一斉に全力で働くと、疲労がピークに達した時にシステム全体が崩壊してしまいますからね。交代要員というバッファを確保しておくことで、組織の持続可能性を保っているそうです。人間社会のブラック企業より、よっぽどホワイトな労働環境ですよね」


「なるほど……! 小さな体で、実によくできた労働マネジメントだ。これは恐れ入りましたね!」


 大家さんが心底感心したように手を叩いた。


 地下では小さな仲間たちが完璧なシフト体制でトロゲート周辺のインフラを整え、地上では私たちが鍋を囲んで英気を養う。


「あ、それとあっちの方のブラックシリカなんですけど……坪当たり20キロ位でどうでしょうか? 希少な鉱物ですから、広場への使用は控えめにしようと思います」


 そう言いながら、私は大家さんにもミカンを一つ差し出した。


「そうですね、広場に全部ブラックシリカを敷き詰めるのはさすがに……」


 ミカンを一粒口にした大家さんは「こりゃたまげた」と驚愕していた。さすが、佐藤さん。ミカンのチョイスも一流だ。


 こたつの中で、丸くなったビリー君が「Vamoose(ヴァムース)〜 (うどんもよこせ〜)」と幸せそうな寝言を言った。


「平和ですねえ」


「ええ、平和ですね。明日もまた、雪かきから始めましょうか」


 外の地吹雪が古い家の柱を軋ませる音が聞こえてくるが、今の私たちには心地よい子守唄に過ぎない。

 地下迷宮へのロマンと生活感が入り交じる夜は、温かい土鍋の湯気と、ニシン漬け、極上ミカンの心地よい甘みと酸味と共に、穏やかに更けていった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

次回も、山悟荘でお待ちしています。

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