第52話「地下40メートルの消失と、庭先の魔法使い」
ビリー君が光の彼方へ消えた黒い石の輪の前で、私は呆然と立ち尽くしていた。
相棒が次元の裂け目に飲み込まれたというのに、周囲の時間は残酷なほど平常通りに進んでいる。クロオオアリの部隊は、私の絶望など知る由もなく、掘削された泥岩の土砂を顎で咥え、黙々と運び出し続けている。その無関心さが、今の私にはむしろ救いであり、同時にひどく残酷でもあった。
ふと、肩に軽い感触があった。アダンソン先輩だ。
私の肩に乗った彼女は、ピョンと小さく跳ねて、私の凍りついた頬を前脚で優しく撫でた。
「……慰めてくれるのかい、先輩」
彼女は何も言わないが、その温かい重みは明らかに歴戦の海兵隊員のように「気を落とすな。飯が不味くなるぞ」と語りかけていた。
「……ふむ。反応が完全に消えてしまいましたよ」
背後から大家さんの声がした。
見ると、彼はショックを受けつつも、科学者としての狂気じみた好奇心を抑えきれない様子で、沈黙した石の輪をペタペタと触ったり、聴診器のようなセンサーを当てたりしている。
「空間の歪みも、残留エネルギーもありません。さっきの青白い『水面』がどこから来て、ラプトルの質量がどこへ消えたのか……。完全に現代の物理法則を無視しているとしか言いようがありません」
大家さんはブツブツと独り言を言っていたが、私の肩を落とした痛々しい様子に気づくと、そっと手元の計測メモを閉じた。
「……すみません。今は検証の時じゃありませんでしたね。今日はもう上がりましょう。この後の残土処理はアリ君たちに任せておきましょう」
大家さんは歩み寄り、私の丸太のような太い腕をポンと叩いた。
「アキラさん、君も少し休んだ方がいい。顔色が真っ青ですよ」
私は力なく頷いた。
ビリー君のいない地下道。ついさっきまで、「ここが俺たちの新しい広場だ」と笑い合っていたサッポロカイギュウの眠るドームが、急に色あせた、ただの冷たい洞窟に見えた。
私たちは重い足取りで、斜めに掘り進めた長い階段と手動エレベーターを使って、地上への帰路についた。
地下40メートルからの道のりは、行きよりもずっと長く、永遠に続くかのように思えた。私の心は、あの石の輪の向こう側の、見知らぬ宇宙の果てかどこかに置いてきぼりのままだ。
地上階、土間。
重い扉を開けると、そこはいつもの植物に囲まれた「日常」だった。だが、そこにはもう、「Vamoose( おかえり、ATM( パパ)! 肉くれ!)」と言って飛びついてくる、アンズ色の相棒はいない。
「……ただいま」
私が誰に言うともなく、蚊の鳴くような声で呟いた、その時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
こんな夜更けに誰だろう。私は重い扉を開け、さらにその先の風除室( 玄関フード)のガラス引き戸に手をかけた。
「こんばんは。夜分に恐れ入ります」
引き戸の向こうに立っていたのは、お隣の佐藤さんだった。
野際よう子を彷彿とさせる、いつも上品で知的、そしてどこかミステリアスな雰囲気を持つこの町内のマダムだ。上質なダウンコートに身を包み、足元は北海道民の冬の御用達、小樽『ミツウマ』の防寒長靴。長靴の側面には、ご丁寧に3匹の馬の顔が並んだクラシックなロゴがプリントされている。
「あのね、お宅のビリーちゃん、外に閉め出されちゃったみたいで困っていたから、お知らせに来たのよ」
「……え?」
佐藤さんが、ふふっと上品に笑って半歩下がった。
彼女は自分の厚手のダウンコートの前を大きく広げ、その中に「あるもの」を包み込むようにして抱きかかえていた。
「Namoose……( さ、寒ィ……僕ちゃん、凍え死んじゃう……)」
ビリー君だ。
異次元の彼方に消えたはずの彼が、マイナス10度の猛吹雪の外気に晒され、ガタガタと小刻みに震えながら、佐藤さんの体温とコートに必死にしがみついていたのだ。
しかも地下での発掘作業中だったため、いつもの特注ダウンジャケットは脱ぎ捨てたままである。完全な全裸だ。
「ビ、ビリー君……!?」
私は腰を抜かしそうになった。さっき地下40メートルのワープゲートに飛び込んだ彼が、なぜここにいるんだ。
「お宅の石灯籠の周りの雪をよけていたらね、急にピカッと光って、ポンッ! ってこの子が飛び出してきたのよ。まるで手品か魔法みたいだったわ。でも見て、この子ったら裸ん坊で震えていたから」
佐藤さんは、さも「道端で子猫を拾った」かのように、事もなげに言った。
地下空間と、地上の庭にある灯籠。あの石の輪は、宇宙の果てに繋がるスターゲイトなどではなく、単なる「地上への直通ショートカット」だったとでもいうのか!
しかも、佐藤さんは光の中から恐竜が飛び出してきても全く動じない。一体どれだけの胆力を持っているんだ、この人は。
「この子は暖かい南国の恐竜さんでしょう? こんな寒い日に裸で外に出ちゃダメよ。凍えて死んじゃうわ」
「さ、佐藤さん、本当にありがとうございます……! 命の恩人ですよ……!」
私は震える手でビリー君を抱き上げた。羽毛は雪で濡れ、氷のように冷え切っている。異次元への大冒険を夢見た代償は、北海道の冬の洗礼という名の地獄だったらしい。
「ふふ、無事で良かったわね。はいこれ、お正月用に箱買いした『みかん』のお裾分け。冷たいけど甘くて美味しいわよ。驚いてお腹も空いたでしょうから」
佐藤さんは、私の手にオレンジ色のみかんがいっぱい詰まったポリ袋を握らせた。
「Vamoose……( サ、サンキュー、マダム……)」
ビリー君がガチガチと歯を鳴らしながら、前脚で小さくお礼の敬礼をする。
「じゃあビリーちゃん、もう裸ん坊で勝手口から飛び出すのはダメよ。おやすみなさい」
佐藤さんは全てを見透かすような眼鏡の奥の瞳で優雅に会釈をして、雪の降る暗闇へと帰っていった。
嵐のような安堵と疲労に包まれる私の背後に、大家さんがそっと立った。
「……世の中には、不思議なこともあるものですね」
大家さんは、みかんの袋を抱えて薪ストーブの前に直行し、ガタガタと震えているビリー君を見て、眼鏡の奥の目を少しだけ細めた。
「どうやら、今日はあの子の持ち前の強運と、親切なお隣さんに助けられたようですね。さあアキラさん、中に入りましょう。冷え切った体を温めるのが先決だと思いませんか。それと……あのみかんも、茶の間で美味しくいただきましょうか」
大家さんの言う通りかもしれない。今はただ、冷たいみかんを剥いて、相棒が無事に帰ってきた奇跡を祝うとしよう。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回も、山悟荘でお待ちしています。




