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ラプトルの鉤爪  作者: 紫紅葉
第5章:壱拾六軒の存在と時間
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第49話「地下40メートルの鯨道(ホエール・コリドー)」

ヴェロキラプトルという恐竜を知っているだろうか。


……という決まり文句を心の中で反芻するのも、もう何度目になるだろう。


札幌市南区の山間部にあるこの山悟荘(さんごそう)に、白亜紀の恐竜、ヴェロキラプトルの彼、ビリー君が迷い込んできてから、はや1年が経とうとしている。


カレンダーは11月。大家さんが夏の長期フィールドワーク、という名の放浪へ出かけている間、短かった秋は一瞬で過ぎ去り、気がつけば窓の外は白一色に染まっていた。根雪になるにはまだ早いが、一度降り始めた雪は、容赦なく古い板屋根と庭を包み込んでいく。


だが、茶の間のホットカーペットの上は平和そのものだ。


かつての「恐怖の象徴」は、仰向けの大の字になり、無防備な腹を見せて幸せそうな寝息を立てていた。


「……Vamoose(ヴァムース)(むにゃむにゃ……僕ちゃんの極上(ピコバブール)な肉……)」


ビリー君との、一人と一匹による奇妙な共同生活は、完全に私の「日常」となっていた。


「ふむ。完璧な設計図だと思いますねぇ」


背後から、懐かしい声がした。


数ヶ月にわたる道内放浪から帰還したばかりの、この家の主、大家さんだ。


ボサボサの白髪に、着古した作業着姿。相変わらずマッドサイエンティストのような風貌だが、鋭い眼光は私の描いた図面をキラキラと見つめている。


「そうですか? 大家さんがガレージに置いていった『免震ジェル』の缶を見て思いついたんですよ」


私の計画は、この壱拾六軒町内会《じゅうろっけんちょうないかい》の生活道路に沿って地下道を掘り進めるというものだ。小さな集落だからこそ、非常事態に備えるべきだと私は思っている。


「『ジェル・コクーン工法』ですか。固い岩盤と居住区の間に、分厚いジェルの衝撃吸収層を作る……。アキラさん、いつの間にこんな土木工学的センスを身につけたんです?」


「必要に迫られれば、人間なんだってできますよ。冬の間、地上での活動は雪に制限されますからね。ならば、我々が進むべき道は『下』しかないでしょう」


私はビリー君の寝顔を一瞥し、立ち上がった。


地下10メートルにある現在の第1基地、そして15メートルの第2基地という名の物置から、さらに深く潜るのだ。目標深度、地下40メートル。


「私の仕事も一段落つきましたし、明朝から作業にかかろうと思っています」


私が愛用のツルハシを磨きながら宣言すると、大家さんは「ほうほう、それは楽しみだ」と何やら意味ありげに笑い、急ぎ足で山悟荘(さんごそう)の隣にある自分の家の作業場へと消えていった。


「……Namoose(ナムース)?(なんだよ、僕ちゃんまだ眠いのに……)」


不満げに起き上がったビリー君にツルハシを見せ、私はニヤリと笑った。


翌朝。


「地下道整備計画」、始動だ。


今回のプロジェクト・アンダーグラウンドに参加するのは、以下の精鋭たちである。


・現場監督兼・掘削隊長:私(ツルハシ&精密設計担当)

・重機兼・ガレキ運び:ビリー君(破壊神兼・おやつ係)

・技術顧問:大家さん(特殊素材噴射&インフラ配線担当)

・総現場監督:アダンソン先輩(ハエトリグモ。ヘルメットの上から「Let's rock!(やってやるぜ!)」と全体を俯瞰する女司令塔)

・清掃部隊:クロオオアリたち(微細なチリの運搬・除去)


「よし、目標、地下40メートル! 冬の間の運動不足解消も兼ねて、一気に掘るぞ!」


気合を入れて地下10メートルの第1基地へと降り立った私は、そこで言葉を失った。


「……はて?」


なぜ、こんな所にこんなものがあるのだろうか。


秘密基地の片隅の床が丸く切り抜かれ、そこに無骨な鉄骨で組まれた「手動式エレベーター付きの縦坑(たてこう)」が、ポッカリと口を開けていたのだ。


縦坑の底から、ガシャガシャと手回し式の昇降機に乗って上がってきたのは、大家さんだった。


「いやあ、おはようございます。この第1基地を起点にね、真下へ向かってさらに15メートルほど掘っておきましたよ。これで地上からはだいたい25メートルほどの深さになったはずですよ」


大家さんは、私の困惑など意に介さず、熱っぽく語り始めた。


「ああ、崩落の心配はしなくて大丈夫ですよ。私が開発した『縦坑専用土竜《たてこうせんようもぐら》の三吉(さんきち)くん』はね、掘った土を外に出さない『残土ゼロ機構』で、凄まじい圧力をかけて周囲の壁へ優しく押し固めてくれるんですよ。地盤を傷めることもないし、残土処理の必要もない。ただ、そこにある土を、少しだけ横に避けてもらっただけですからね!」


「…………」


私の緻密な手掘り採掘計画は、大家さんの天才的な、そして勝手なオーバーテクノロジーによって、開始1秒で修正を余儀なくされた。


「エレベーターの巻き上げ機は今のところ手動ですけどね。あ、そのハンドルを回して操作してください。そこから先の目標である地下40メートルまでは、重力を使って斜めに降りる『階段状』に掘り進めていってはどうでしょう?」


「……うむ。まあ、その、大家さんのおっしゃるとおりですね」


私は己の設計の不備に気付き、素直に計画の変更を受け入れた。大家さんは修正案として、いくつかの重要ポイントについて説明してくれた。一晩で設計を組み立て直すとは恐るべきジジイだ。


手動エレベーターで一気に地下25メートルへと降り立った我々は、そこからさらに斜め下へ向かって採掘を開始した。


先頭では、ただの土竜(もぐら)と化した三吉くんがGPSナビゲーターとして道筋を作っていく。その後ろでは私がツルハシで岩盤を砕き広げ、崩した土砂をビリー君が前脚で器用に集め、後ろのアリさん部隊へとパスする。その背後から大家さんが『OPG−100 オオヤ・パワー・ジェル』を噴射し、壁面をプニプニのジェルの繭で強固に固めていく。


「Vamoose(ヴァムース)!(ヒャッハー! 僕ちゃん好みのいい壁だぜ! プニプニする!)」


ビリー君は作業の合間に、固まりかけのジェル壁を爪で押し、その反発する感触を楽しんでいる。


それから数日間にわたる、地道で過酷な階段掘削作業が続いた。


そしてついに、私の持ち込んだ深度計が、目標である「地下40メートル」を指した時だった。


ゴッ。


ツルハシの手応えが、乾いた硬い音から、湿った鈍い音へと唐突に変わった。それまで灰色だった壁面が、緑がかった暗い色の岩盤へと変貌している。


「ふむ、ここが地層の境界線ですね」


大家さんがヘッドライトで壁面を照らした。


「ここから下は泥岩層です。太古の昔、まだこの札幌一帯が海の底だった時代の地層ですよ」


言われてみれば、空気の匂いが違う。わずかに潮の香りというか、古いミネラルの匂いが鼻をつく。


「Gyau(ギャウ)?(なんだ? 僕ちゃんの大好きな魚の匂いがするぜ)」


「ああ、ビリー君。ここからは大昔の海だ。何が出てもおかしくないぞ」


私は慎重にツルハシを振るった。泥岩は粘り気があり、ひどく重い。


だが、私の55年培ってきた「石掘り勘」が、そこを掘れと強烈に囁いていた。


ガキンッ!!


数分後。私のツルハシが、岩とは明らかに違う「何か」に弾かれた。金属音ではない。重く、頑固な響き。


「……当たった」


私はツルハシを置き、腰のベルトから小さなハンマーとタガネに持ち替えた。息を潜め、慎重に周囲の泥岩を削り取る。


現れたのは、直径20センチほどの、白く湾曲した巨大な柱だった。


いや、ただの柱じゃない。これは……。


「骨だ。それも特大の」


刷毛で土を払うと、その骨は壁の奥へと美しいアーチを描いて続いていた。


一本だけではない。二本、三本……。等間隔に並ぶ、巨大な白い肋骨の連続。


「こいつは驚いた! ヒゲクジラの全身骨格かもしれませんよ!」


大家さんが思わず叫んだ。


ついに到達した地下40メートルの岩盤の中に、ヒゲクジラが、まるで冷たい土の中で今も泳いでいるような姿勢で、そのまま手付かずで埋まっていたのだ。


ちなみに、2008年に札幌市南区小金湯で発見されたヒゲクジラ化石は、現在「サッポロクジラ」と呼ばれている。


驚きと感動に、しばし私たちはその場に立ち尽くしていた。


しかし、これほど巨大な化石を、個人の力で地上に引き上げるのは物理的に不可能だ。私は即座に決断した。


「……決めました。大家さん、このままいきましょう」


「ん?」


「この巨大な肋骨の内側だけをくり抜いて、そのまま通路にするんです。名付けて『クジラの回廊( ホエール・コリドー)』だ」


我々の作業は、単なる「下掘り」から、超高度な「化石内装工事」へとシフトした。


私とビリー君で、肋骨の周りの岩だけを傷つけないように丁寧に削り取る。骨の表面には、私の期待通りキラキラと光る黄鉄鉱の結晶がびっしりと付着しており、ヘッドライトを当てると、まるで金粉をまぶしたように妖しく輝いた。


そこには、世界中のどの博物館にも存在しない、幻想的な地下道が完成していた。


両側の壁から天井にかけて、巨大な白い肋骨がアーチ状に連なり、その骨の隙間で黄鉄鉱が星のように瞬いている。ジェルの壁に守られた、太古の海の記憶。


「Vamoose(ヴァムース)……(すっげぇデカい獲物だぜ……)」


ビリー君は、ジェル越しにクジラの骨を見上げ、うっとりと喉を鳴らした。彼にとってここは、通路であると同時に「巨大な肉の記憶」に包まれる、最高に幸せな空間なのかもしれない。


さあ、地下40メートルに横たわるこの『クジラの回廊』を抜けた先に、果たして何が待っているのか。


私たちの冬の探窟は、まだ始まったばかりだ。

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