第44話「神の湖(カムイトー)と、銀の滴降る夜」
阿寒湖のアイヌコタンで手に入れた「マリモの入った小瓶」を大事に抱え、ビリー君はご機嫌な様子でアンキロサウルス号の助手席に揺られている。
時折、瓶を目の高さまで持ち上げては、コロコロ転がる緑の球体に向かって「Kururu…… (元気か? 僕ちゃんの相棒)」と優しく話しかけている。すっかり、新しい相棒 (あるいは我が子)として認識したようだ。
私たちは阿寒横断道路の深い森を抜け、さらに道東の奥地へと車を走らせた。
目指すは「摩周湖」。
アイヌ語で『カムイトー (神の湖)』と呼ばれる、北海道屈指の聖域だ。
カルデラ湖であるこの場所は、周囲を険しい絶壁に囲まれており、流れ込む川も流れ出る川もない。それゆえに不純物が混ざらず、世界最高ランクの透明度を誇っている。また、年間を通して霧に包まれることが多く、その神秘的な姿から呼ばれている「霧の摩周湖」の異名を知らない道民はいないだろう。
「さあビリー君、アダンソン先輩。もうすぐ着くぞ」
私は期待に胸を膨らませ、急勾配の山道を登った。
真っ白な深い霧の中から、ふっと瑠璃色の湖面が現れる……そんな幽玄で幻想的な光景を、彼らに見せてやりたかったのだが。
「……あれ?」
展望台の駐車場に車を停め、展望デッキに立った時、私の目の前に広がっていたのは、憎らしいほどの「快晴」だった。
見上げる空には雲ひとつない。そして眼下には、鏡のように磨き上げられた巨大な湖面が、強烈な青さを放って静まり返っていた。
「Namoose (眩しいぜ、僕ちゃんの目が潰れそうだ……)」
ビリー君が目を細めている。あまりにも視界が良すぎる。
対岸のそそり立つ断崖絶壁の岩肌から、そこに生える木々の一本一本まで、くっきりと見えてしまう。
「あちゃー……。見事に晴れちゃったかぁ」
私は頭を抱えた。
一般の観光客なら「ラッキー!」と喜んでカメラを構えるところだが、私の心の内は少々微妙だ。
『霧の摩周湖で霧が晴れると、婚期が遅れる (あるいは出世できない)』という有名なジンクスがあるのだ。55歳、バツイチどころか結婚歴さえない独身貴族の私にとって、これ以上婚期が遅れるというのは致命的……いや、もうこの歳なら関係ないか。いや、でも少しは気にするぞ。
「ビリー君、見てみろ。あれが『摩周ブルー』だ」
私は自身のささやかな傷心を誤魔化すように、気を取り直して解説した。
「不純物がないから、太陽の光の青い波長だけが深くまで反射して、あんな嘘みたいな色になるんだ。そして湖の中央に、ポツンと浮かぶ小さな島があるだろう? あれは『カムイシュ島』だ。アイヌの伝説では、はぐれた孫を探して疲れ果てたお婆さんが、あそこに座り込んで姿を変えたものだと言われている」
「Kururu…… (あそこにも、僕ちゃんたち以外に誰かいるのかい?)」
ビリー君は、ガラス瓶の中のマリモにその景色を見せてやるように高く持ち上げながら、青い湖面に浮かぶ寂しげな小島を見つめた。
アダンソン先輩も展望台の手すりの上に陣取り、八つの瞳で広大な神の湖を俯瞰している。
そのまま日が傾き、あたりが薄暗くなるまで、私たちは無言で湖を眺めていた。
やがて観光客の車も次々と去り、完全な静寂が訪れる。
空が茜色から深い群青色へと染まり、西の空に一番星が瞬き始めた、その時だ。
ホーゥ……ボーゥ……。
湖の奥、あるいは背後の森の深淵から、低く重厚な、地を這うような鳴き声が響いた。
ビリー君の身体がビクッと反応し、羽毛が逆立った。彼には本能でわかるのだ。それが、自分と同じ「頂点捕食者」の声であることが。
「……来るぞ、ビリー君」
私は息を潜めた。
群青色の夜空を背景に、巨大シルエットが音もなく空を滑るように舞い降りてきた。
展望台の近くにある高い岳樺の木の枝に、その影はバサァッと止まった。枝が重みで大きくしなる。
シマフクロウだ。
翼を広げれば180センチにもなる、日本最大、いや世界最大級の絶滅危惧種のフクロウ。アイヌの人々が『コタンコロカムイ (村を守る神)』として崇め、畏怖する夜の王である。
「……ッ!」
ビリー君が喉の奥で微かに息を呑む。
今日は霧がなく空気が澄み切っているため、その荘厳な姿が、昇り始めた月明かりにはっきりと浮かび上がっている。
頭の上の大きな羽角が鬼の角のようにそそり立ち、金色の鋭い眼光がランタンのように輝いて、私たちを見下ろしている。
ヴェロキラプトルと、シマフクロウ。
白亜紀の太古のハンターと、現代の北の森の守り神。
種族も生きた時代も違えど、その佇まいには、頂点に立つ者だけが持つ共通の「絶対的な威厳」があった。
私の頭の中で、知里幸恵の『アイヌ神謡集』にある古い謡 (うた)が繰り返される。
――『銀の滴 降る降るまわりに、金の滴 降る降るまわりに……』
この神様が夜の空を飛ぶとき、その羽ばたきと共に、美しい銀の滴と金の滴を撒き散らすという伝説の謡だ。
ビリー君は吠えなかった。威嚇の姿勢をとることもなかった。
ただ静かに、敬意を表するようにゆっくりと頭を下げた。
「Vamoose…… (……神様、僕ちゃんが見た中で最高にキレイな夜だね)」
フクロウもまた、眼下にいるアンズ色の羽毛を持つ異形のハンターを敵ではなく「対等な者」として認めたのか、ホーゥと一鳴きしてから、再び森の奥へと音もなく飛び立った。
バサッ……バサッ……。
その巨大な翼が力強くはためいた瞬間、月明かりを受けて何かがキラリと光り、ひらひらと空から舞い落ちてきた。
「……?」
ビリー君が前脚を伸ばし、空中でそれをピンセットのように器用な二本の爪でつまみ取った。
それは、一枚の大きくて美しい羽根だった。
全体は深い褐色に複雑な縞模様が入っているが、月光を反射して、まるで銀色に輝いているように見える。
「すごいなビリー君。本当に『銀の滴』を落としていってくれたぞ」
ビリー君は、その森の神からの贈り物を嬉しそうに眺め、マリモの瓶と一緒に胸の前に大事に抱え込んだ。また一つ、彼の宝物 (コレクション)が増えたのだ。
神が去った、その直後だった。
ゴォォォッ……!
突如として冷たい風が吹き抜け、湖の底から湧き上がるように、あるいは外輪山を滝のように乗り越えるように、真っ白な霧が一気に押し寄せてきた。
まるで、神聖な儀式が終わった舞台に、分厚い幕を下ろすかのように。
あれほどクリアだった視界は、瞬く間に濃密な乳白色の世界に閉ざされ、数メートル先も見えなくなってしまった。
「……すごいな。神様が帰るまで、待っててくれたのか」
私は、真っ白になった目の前の景色に圧倒された。大自然の演出には敵わない。
そして、ふと気づく。
「……ん? 結局、最後には『霧の摩周湖』になったわけだ。ということは、私の婚期もギリギリ遅れずに済んだってことか?」
「Kuru (どうでもいいだろそんなこと、僕ちゃんのATM (パパ))」
ビリー君が呆れたように鼻を鳴らした。
「……さあ、行こうか。素晴らしいものを見せてもらったねえ」
私たちは、心が洗われるような清々しい気持ちで、駐車場へと歩き出した。
夜の濃霧に包まれたアンキロサウルス号の黄色いフォグランプが、まるで銀の滴を散りばめたように、ぼんやりと温かく光っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回も、男と恐竜と蜘蛛の気ままな漂泊にお付き合いください。




